202号室 小八奈緒美(1)

 ある朝、小八奈緒美こはちなおみがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、目の前に見慣れぬ天井が広がっているのを発見した。慌てて枕元の黒縁眼鏡を掛け、ああそうだ今日からこの家で暮らすのだと安堵のため息をつく。

 布団から起き上がって室内を見回すと、昨日は暗い中バタバタと飛び込むように引っ越して来てよくわからなかったが、なるほど不動産屋が何年か前にリフォーム済みと言った通り、白いフローリングとベージュ色の壁紙は今風で爽やかだし、水回りもまだまだ新しそうだ。今回の引っ越しはとにかく急ぎだったから贅沢を言うつもりはなかったが、この家賃でこのレベルの部屋に住めたのはラッキーだった。


 奈緒美は昨晩、トランク一つだけを持って202号室にやって来た。何の準備もなかったため床の上で寝る覚悟をしていたが、思いのほか快適な目覚めになったのは、事情を知った大家から客用布団を貸してもらったおかげだ。

 カーテンのない南東向きの窓から眩しい日差しが差し込んでいる。今日が晴天で良かった、日が出ているうちに布団を干して返しに行こう。奈緒美は窓を開け放ち、一畳ほどの小さなベランダ越しに見知らぬ住宅街の町並みを眺めた。

 カレーの匂いに乗ってどこからか脳天気な英語の歌が聞こえる。

 あら、開けると結構周りの音が聞こえるわね。私も気をつけないと。それにしてもこんな朝からカレーとは、近くにカレー屋さんでもあるのかしら。カレーライスは嫌いじゃないけど、ちょっとお腹が空くわね。奈緒美はクスッと笑って窓を閉めた。

「あいたっ!」

 振り返った途端、奈緒美は立てていたトランクに躓いてしまった。その拍子に蓋が外れ、ゴトンと音を立ててトランクが転がる。ああしまった、フローリングに早速傷をつけてないかしら? 床を確認しながら散らばった荷を集める。良かった、目立つ傷は無いみたい。この際だからこのまま片付けを進めてしまおう。

 奈緒美は長い黒髪をまとめて三つ編みにすると、一番くたびれたタオルを雑巾にして拭き掃除をしながら、残りのタオルと旅行用の石鹸セットを洗面台に、少ない衣類をクロゼットに、工具箱と荷造りロープを戸棚に、ゴム手袋と包丁を流し台の下にしまった。


 あらかた片付けが終わって空のトランクを玄関に置くと、奈緒美はまだ殺風景な部屋を改めて眺めながら今日のこれからを思い描いた。

 まずガスは立ち合いがいるから一番に電話をして、電気と水道は玄関ポストにあった申込書を今日中に出す。それから借りている布団を干したら、来る途中で見かけたニトリでカーテンと寝具と掃除用品を買って、家電製品はリサイクルショップで適当な物を探そう。最後にスーパーで買い物だ。当座のお金ならある。けれど、いつまでこの暮らしが続くかわからないから、あまりアレコレ揃え過ぎない方がいい。

 頭の中でやることリストを組み立てながら、ふと思う。

 そうだ、大家さんに布団のお礼のお菓子を買わないと。おばあちゃんだから硬い物は駄目よね。お隣や下の人にも引っ越しのご挨拶をした方がいいかしら? ……しなくてもいいか、女性の一人暮らしなんだし。廊下で会ったらついでに挨拶すればいいわ。だって、またヘンな事になったら困るもの。


 よしやるか、と声に出すと、奈緒美は手にしたスマホでガス会社の番号をプッシュした。

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