第二十話 悲鳴に震える花

 庭の上空で藻掻もがく犬神を見上げ、鳴が静かに目を伏せ深呼吸する。そしてゆっくりと扇子を広げる。晴は黙っていつでも援護できるよう、傍で鳴を見守っていた。


 扇子には彼岸家の家紋が描かれている。そこへ「ふっ」と吐息を吹き掛けると、彼岸花の花弁が現世うつしよへ浮き上がり蜉蝣かげろうとなって犬神の上空へ花の檻を作っていく。そしてその檻が犬神に重く圧し掛かった。ぐぎゃぁっ! と犬神が吠えながら庭へと落ちていく。ズシンという大きな音と共に地面が激しく揺れた。

 彼岸花の刃が花檻から剥き出している。その刃が犬神の巨躯に深く刺さっており苦しげに呻いていた。彼岸花の結界術は、五年間のブランクを感じさせなかった。


 もう動く気力もないのだろう、近付く鳴を犬神はただ睨みつけた。鳴が犬神の前に腰を下ろす。恐る恐る手を伸ばした先には、曳舟の小槌があった。あと少し、もう少し。このまま何も起きなければいいと思っていた——その矢先だった。

 それまで大人しくしていた犬神が鳴に牙を剥いた。


 え、と鳴が声を発したのが先か。

 晴が鳴の体を押したのが先か。


 一瞬のことで頭が追いつかないまま、晴は鳴を庇い犬神の牙に掛かった。ズググと食い込む牙。表現しがたい鈍い骨音が鳴の耳を穿つ。

 悲鳴にも似た絶叫が、庭に咲く彼岸花を震わせた。


 ◆◇◆◇◆


 静かに伏せていた瞼を開けば、そこはだった。ああ、自分は死んだのかと晴はそう思った。ここへ来る前の記憶は曖昧だったが、鳴を護って死ねたなら本望だ。


「……あ。でも俺が死んだら鳴も死ぬじゃねェか」


 そうなってしまったなら、鳴は許してくれるだろうか。


「——何故お前はそうも命を軽んじる?」


 、と聞きたくもない声が晴の鼓膜を震わせる。暗闇の先から烽火九尾の姿をした遠野が現れた。


「遠野」

「死の淵で再び相まみえるとは、つくづく運の無い」


 そうは言いつつも遠野の口元は嗤っていた。ずるりと舌の這う音が耳障りだ。


「生きることに疲れたか? 折角わらわが繋ぎ留めた一寸程のともしびさえも無駄にするか?」

「これが運命なら受け止めるしかねェだろ。抗うだけ意味が無い」

「……相も変わらずつまらぬ男だ」


 遠野は呆れた表情をして宙を見上げた。晴も無意識のうちにならい見上げる。そこには一筋の光が差し込んでいた。


「あれは……」


 晴が呟くと遠野が反応した。ギャハギャハという獣の嘲笑が彼岸池の水面に反響する。


「あれが見えたか晴! そうだよなぁ、お前はなぞに食われる玉ではないものなあ!」


 急に高笑いを始めた遠野に軽く恐怖を覚える。怪訝そうにすれば、独特の獣臭が目の前にく。“晴”と、光の先から鳴の泣き声が聞こえた気がした。


「……の泣く声は煩くてかなわぬ」


 遠野が何かを独りごちたような気がしたが、声量の無さに全てを聞き取ることはできなかった。


「晴、気が変わった。ここから出してやろう」

「は?」

「ここから出たら鳴に伝えろ、とな」

「おい、それはどういう——!」


 突然遠野が晴に向かって咆哮した。その衝撃波によって晴の体が宙へ浮かんだ。咆哮による突風圧に晴の意識は遠のいていく。


「わらわは真下で待っておるぞ、晴」


 最後に見えた光景は、嫌な程に仰々しく咲き狂う血のような赤だった。

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