第十一話 彼岸池の烽火獣
神宿『彼岸屋』の地下には“奥の間”と呼ばれる彼岸と此岸を繋ぐ管理門が存在する。その管理門は大きな祠の形状をしており、辺り一面には彼岸屋の名物とも言える彼岸花が咲き誇っている。
しかし、晴が向かう先はこの“奥の間”の、そのさらに深い場所へと続く池だ。
黒く淀んだ深淵の世界。そこは先程まで晴が見ていた悪夢の世界に酷似していた。
彼岸池、と呼ばれるその場所は、季節を問わず一年中黒い彼岸花が咲き狂っている。薄く水の張った池に、五年前のあの日から一度も枯れることなく咲き続ける花に軽く眩暈を起こす。
彼岸花の種類に“黒”は存在しない。
この黒は血液が彼岸花に付着し乾いたことによる変色だった。
彼岸池に立ち入れるのは、この神宿を管理する彼岸家当主である鳴のみだが、あの事故に関わった者として、特別例として晴も立ち入ることを許されていた。
時刻は午後十一時を回った。
晴には、まだ日付の変わらない時間に終わらせなければならない仕事が残っていた。
月の
「——おい。起きてるんだろ、何か言え」
晴が闇に続く先に話し掛けると、血のように濁った双眸が暗闇の中からぬるりと現れる。彼岸花の噎せ返る甘ったるいにおいに混じって、獣臭が漂い始めた。
ギャハギャハと独特な笑い声が静寂の闇に溶けていく。
「“何か言え”とは……
ギャハ、とまた一つ笑う声の主は、花魁のような幾重にも重なった着物に身を包んでいた。化粧は厚いがどこか色気を放ち
「黙れ。大体てめェは雄だろうが」
女性の姿に化けるのは、活きの良い男を
この女は、かつて彼岸屋に封印された『
元々は平安の時代より晴の生家である行実家の使役神だったが、人間の血に狂ったことで大量虐殺を起こし、以降は結界術の名門家である彼岸家によって封印・監視されてきた。しかし、五年前、何者かによって『烽火九尾』を封印していた“楔”が外れる事故が発生した。暴走した『烽火九尾』を治めようとしたのが、当時護衛官として働いていた鳴と晴だった。
「ギャハ! わらわには遠野という名がある。『てめェ』ではなく、その名で呼べと言ってあるだろう? それに、わらわに性という概念はとうの昔に無いわ!」
ギャハギャハと嗤う声が五月蝿い。晴は込み上げる吐き気を必死に抑える。
「……時間がない、さっさと終わらせるぞ」
晴はおもむろに首元をさらけ出した。遠野は面白くない、という表情をしながらも彼に近付いた。
妖艶な女狐が、晴の首元に絡みついていく。首筋を生温いざらざらとした舌が這う。そして犬歯を首へと突き立たせると、じゅる、という汚い水音が晴の耳を掠めた。
ああ、どうして俺は、こんな女狐なんぞに抱かれなければならないのか。
分かり切った事実に思わず苦笑する。遠野によって吸血された痕は、キスマークに似ている。
以前、この行為から帰宅した際、首元の
「——ほう、福の神が消えたか」
その言葉に、閉じかけた意識が急激に覚醒する。
「何故知っている……まさかてめェ、何かしたのか?」
「そんな訳がなかろう。わらわはこの彼岸池に楔を打たれた身であるぞ? それもあの貧弱当主による無駄に強力な結界のおかげで、ここから出ることはおろかお前が来なければ指の一本も動かせぬわ」
遠野は決して優位に立ってはいないというのに、どこか余裕めいた表情で晴を見た。
自分が犯人でないと言いながら、さも自分が犯人であると言い惑わす。
人を誑かすことが得意な
少しして、遠野の吸血が終了する。晴は酷い貧血に襲われその場に立っていられなくなった。
池の水が目の前に近付く。バシャン、と水の跳ねる音が遠くで聞こえた気がした。
「今日はこのくらいで勘弁しておいてやろう。晴……ああ、そうだ。一つ聞きたいことがあったのだ」
すぅ、と小さく息注ぐ音が耳の近くで聞こえたような気がした。
「——鳴は元気か?」
ギャハギャハギャハ! 耳障りな嗤い声が、池の水に反響する。
晴は意識が遠のく中、独りごちた。その言葉は赤と黒の甘ったるい世界へと空しくも霧散していった。
—— こ ろ し て や る ——。
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