第二章【焦がれる記憶】

第九話 深淵に響く遠吠え

 少女の名前は『小福』というらしい。


 人間であれ神様であれ、大人であれ子供であれ、関わってしまった以上この場に置いていくわけにはいかない。鳴たちは小福を彼岸屋で保護することにした。


 彼岸屋へ戻り、受付の女将に本日のチェックイン該当客に福の神がいたかの確認を取ったところまだ来ていないようだった。

 念のため、新宿の彼岸屋にも連絡を取る。小福が福の神とはぐれた場所が新宿そちら側だったためだ。迷ってチェックインしている可能性も大いに有り得たのだが、その期待も空しく、やはり福の神は来ていないとのことだった。


 彼岸屋創業以来始まってのことに鳴は顔を青くした。宿泊するはずの客が来なかったことなど、今まで一度たりともなかったのだ。

 このままでは彼岸屋の信用問題へと、事は発展してしまう。そう思った鳴の心は不安定になっていた。こんな状態の鳴を一人残して仕事などできない。

 晴は自分が行うはずだった『御神送おみおくり』を、神宿に常在する彼岸家の別の護衛官へと引き継がせ、彼岸屋に残ることを判断した。晴が今夜彼岸屋に残ると聞いた鳴は、ほんの少しだけ安心した表情を見せた。


 鳴の気分がようやく落ち着くと、彼は小福の姿を視界に捉えた。神の化身にしてはみすぼらしい恰好をしていた小福のことを思い「お風呂に行きましょうか」と彼女に提案した。すると小福は目を輝かせて「うん!」と勢いよく頷いた。

 しかし、流石に仮に神といえども相手は子供である。独身男性二人との混浴は教育上よくないと、事情を知る女将に入浴を任せることとした。


「……僕たちも、入りましょうか」


 鳴が呟いた。冬とはいえ、汗は掻く。晴はああ、と頷いた。


「先に入ってこい。俺は後でいいから」

「え? でも……」

「俺は朝方一度入ってるから大丈夫だ」


 そういうことではない、という表情で鳴は晴を見つめた。だがこれ以上言っても聞かないのだろうと判断した鳴は、苦笑しながら晴に一礼し男湯へと向かって行った。


 鳴が見えなくなるのを確かめた後、晴は近くにあった来客用のソファに腰を掛けた。はぁ……と大きく吐いた溜め息が室内に霧散していく。


「……今はまだ、無理なんだ……」


 ずるずると下がっていく体。皺になっていく衣服。暖房の効いた室内。

 寝不足の体はこの快適な空間に誘発されていく。あとは簡単だ。

 彼の意識は自然と微睡みの世界へ誘われていくのみだ。


 ◆◇◆◇◆


 暗くて、寒い、深淵の底。


 息のできない世界に独り、立ち尽くす。


 体は鉛が絡みついたかのように重く身動きが取れない。ただ視界だけは嫌に明瞭で、彼は眼前に広がるから目が離せずにいた。


 黒炎を纏う九の尾を持つ獣が、彼岸花の咲き狂う庭の中心で唸っていた。その口元には、赤く染まった何かを咥えており、だらだらと涎のように垂れる赤い水が、彼岸花の赤をさらに際立たせていく。


 垂れる、その先の“何か”を、やっと彼は認識する。


 その“何か”は——鳴——だった。


 その瞬間、どこからともなく聞こえた惨叫ざんきょうが、自分自身の口から放たれていると脳が理解するのにそう時間は要さなかった。

 喉は焼けるように熱く、咳き込めば血の混じった唾液が口外へと吐き出された。

 だらりと力なく揺れる鳴の腕から指先へと滴る血液が、彼岸花へと付着していく。


 晴は動けないその体を呪った。


 鳴を助けられない、この現実に絶望した。


 だが、いくら叫び倒そうと、殺してやると喚こうと、その言葉たちは獣の嗤い声に掻き消されていく。


 ……ああ、これは、罰なのだ。

 主を護り切れなかった、俺への罰なのだ。


 喉に血反吐が詰まったような感覚に眩暈を起こし、息ができなくなる。

 これは、現実の記憶と悪夢が混じり合っただ。

 そう言い聞かせてはみたものの、晴の意識が覚醒することはなく、永遠に感じられる時間をもがき苦しむしかなかった。


 それでも良いと思った。これは罰なのだから。


 ……“る”、……“はる”……と、遠のく意識の中、自分の名を呼ぶ声がした。

 次の瞬間、ガクンッ、と彼の体から急激に力が抜けた。


 ブラックアウトしていく視界の奥で、獣の嘲笑するような遠吠えが脳に木霊した。

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