第三話 老舗旅館『彼岸屋』

 ここは、東京は新宿の裏通りにある、知る人ぞ知る名旅館『彼岸屋』。

 その歴史は深く、一番古い文献を開けば平安時代から続くとされる由緒ある老舗旅館だと云われている。

『彼岸屋』は、あの世とこの世を繋ぐ狭間の入口——神宿しんじゅくに位置しており、古くから『彼岸屋』は読んで字のごとく宿としてこんにちまで営まれている。


 この旅館は、日本国に信仰のある八百万やおよろずの神々が、黄泉の国から現世へ渡る際、途中で休息を得る為の旅館であり、人間が決して踏み入れることのできない結界が張られている。しかし人間にもこの『彼岸屋』という旅館は一般的に認知されており、それは新宿にも同名の旅館を経営しているにほかならない。

 双方の支配人を務めるのは『彼岸屋』の若き当主、彼岸鳴であった。

 この若旦那はかなりの働き者である。昼間は新宿、夜は神宿を行き来するという偉業をこなす彼の日常は、つねに忙しないものだ。

 約五年程前までは晴と同じような仕事をしていたのだが、とあるがきっかけで現在では引退し、家業である旅館経営を回す側へと転身していた。


 ◆◇◆◇◆


 ——も、一歩も動けねェ……。


 ガチムチ二人組に運ばれ、成す術もなく無理矢理湯船に入ることとなった晴は、若干のぼせ気味になりつつも自力で自室へと戻ることに成功した。

 彼が戻ってきたのは神宿の『彼岸屋』にある社員寮だった。ぼふり、とまだ太陽の香りが残る布団に身を委ねてしまえば、そこからは微睡みの世界である。

 あと十二時間もすれば、次の神様きゃくを次の目的地へと運ばなければならない。それまでの時間は自由時間である。しばしの休息を噛み締めようと瞼を閉じる。

 鳴がこの『彼岸屋』のまとめ役であるように、晴もまた“護衛官”という役割を請け負っている。


『彼岸屋』は“神宿”である。

 神々が休息を取るための旅館であり、この場所から各地方にある本殿へと向かうのである。その地方への案内役兼道中の護衛を務めるのが晴であった。

 毎日が昼夜逆転の生活を送る晴は、今日運んだ夫婦神のことを思い浮かべた。


 彼らは日本に冬の訪れを呼び込む雪の神の夫婦だった。毎年十一月三十日に黄泉の国からこの神宿へと宿泊し、翌十二月一日に京都にある貴船神社へ向かい約三ヵ月間本殿にて鎮座し冬を全うするのだ。

 この一日ついたちことを『師走のついたち』と言い、必ず冬の訪れを現世へ知らせるために雪華を降らせるのだという。

 神々を送迎するための牛車は陰陽師の家系である彼岸家に代々伝わる使役獣で、そこに鳴の持つ結界の力を使い、人々の視界から隠すよう細工をするである。そしてその牛車を運転をするのは、護衛官である晴の仕事であった。

 今回は東京から京都の距離を夜中の十二時から二時にかけて日本の上空を牛車で飛び運んだ。いくら人力を介さないとはいえ、往復四時間の空の旅は、さしもの体力バカである晴でも堪えるものがあった。

 しかし、この仕事を嫌だと感じることはあれど、不思議と辞めたいと思ったことはないという。今回で言えば、今年も日本に冬をもたらすことに貢献できたことが、彼にとってのやりがいとなった。

 もっとも、彼がこの『彼岸屋』を辞めたいと思わない理由は、他にもあるのだが。

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