(6)
父が言った言葉が頭の中で響いていく。
「先生に……頼んだ?」
「そうだ。お前から菜月に、村の広報誌を渡すようにな」
「ど、どういうこと?」
そう尋ねると、父はコーヒーを一口飲んでから答えた。
「俺は、学生時代に先生と出会った。そして、先生の研究に大いに感銘を受け、向日葵畑を拡大する活動を続けてきたんだ。だから、ずっと前から先生のことはよく知っているし、お前と菜月のことも先生に話しているから、先生も知っている。お前たちは、毎回、先生の講義に一緒に出ていたらしいぞ」
「そう……なのか」
そう言われて思い返してみる。しかし、菜月と一緒に鳥井先生の講義を受けたことはどうしても思い出せない。少し考えているうちに、ふと気になることがあった。
「待って。鳥井先生の講義に出ていた僕の同級生は、菜月のことは全く覚えていなかったんだけど」
「それは当然だ。お前と菜月が出会わないように、お前たちに関係する人間も、全く別の記憶にされているからな」
「えっ? じゃあ、どうして鳥井先生は自分の講義に僕と菜月が一緒に出ていたことを覚えていたんだろう?」
そう尋ねると、父はため息をついた。
「先生も、月命だったんだよ」
その言葉を聞いてハッとする。
「そ、それって、どういうこと? 先生は村の研究はしていたけど、それ以上は関係が無かったんじゃないの」
「俺も詳しいことは知らない。ただ、そういう話を聞いたことがある。だから、俺は先生に、お前と菜月の記憶が変えられてしまったこと、そして、無駄かもしれないが、お前の記憶と、月命としての力を取り戻すために力を貸してほしいと頼んだ。先生は喜んで協力してくれたよ。お前の失われた記憶を無理に思い出させようとすると、余計に記憶を失う恐れもあるから、お前を菜月と再会させながら、少しずつお前の本当の記憶を戻せるように促して貰うという、難しい仕事をな」
「それで、先生は僕に……」
「聞いているかもしれないが、月姫と月命になったことのある人間の記憶は、二人の絆が破られない限り、月姫の力では変えられない。だから俺も水月も無事な訳だが、その代わり嘉月は俺たちが妙な動きをしないよう、巧妙に手を回して、これまでの月姫と月命たちを監視しているんだ。だから、俺が直接動くことは難しかったんだが、奴は、鳥井先生が月命であることは知らなかった。それで俺は、先生に手伝ってもらったんだよ」
遥人は先生とのやり取りを思い起こしていた。菜月への書類を受け取ってからも、先生とは、図書館で会ったり、研究室に行った時に村の話をした。先生に肩を叩かれたり、握手をしたときに感じた何かの感覚は、本当の記憶に戻そうとする月命の力を、先生から感じたものなのかもしれない。すると、父は大きくため息をついた。
「しかし、俺は間違っていたのかもしれない」
「えっ?」
「鳥井先生を、死なせてしまった」
息を呑んで父の顔をじっと見つめた。
「い、今……何て」
「朝の研究室の火事だ。一酸化炭素中毒だったらしい」
「まさか……あの火事は……」
そう尋ねると、父は隣の窓ガラスの外に顔を向けた。
「たぶん、嘉月は鳥井先生のことに気づいたんだ。それで、その存在を消し去ろうと、菜月をして誰かの記憶を操った。それは、お前に良い感情を持っていない人間だろう。それで、その誰かとお前をあの火事の犯人にするつもりだ」
火事の時のことを思い出した。あの煙の中から友恵は出てきた。彼女の手を握って走って逃げたが、その手からはガソリンのような臭いがしていた。それを警察に疑われて逃げたのだが、アパートも、あの「実家」も警察に囲まれていたと言うし、ついさっきも警察に捕まりそうになった。その全てが、人間の記憶を操るということなのだと思うと、ゾッとする。
「これを見ろ」
父は自分のスマホをこちらに向けた。その画面にはインターネットニュースが表示されていたが、その記事を呼んで愕然とする。
——本日午前9時過ぎ、紫峰大学の構内にある研究棟で火災が発生した。火は数時間で鎮火したが、1人が死亡し、10人が重軽傷を負った。死亡したのは社会学部の教授で、警察は現場から逃亡したとみられる社会学部の2年生の男子学生を緊急手配している。
「なっ……これって」
「お前の名前が出るのも時間の問題だろう。だからさっきの警官たちもお前に声を掛けてきた」
父は平然とそう言ってスマホを胸ポケットにしまった。
「どうして……こんな事まで」
父は静かにカップをホルダーに置くと、革張りのシートに体を預けた。
「お前と菜月の記憶が戻るのを、嘉月は恐れているんだ」
「でも……それは無理だって」
「無理なはずだった。しかし現に、僅かではあるがお前は菜月との昔の記憶を取り戻している。そして、反対に今の自分の記憶に疑いを持ってきているんじゃないのか」
父に言われてハッとする。確かに、夢に出てきたような向日葵畑のことや、月命になることを菜月から頼まれたことなどは、昔の断片的な記憶の一部なのだろう。反対に、友恵と付き合っていなかったことに気づいたことも、本当の記憶を取り戻しつつあるからかもしれない。それはきっと、鳥井先生に導かれたものなのだ。それに気づいたのを遥人の表情から読み取ったように、父は言った。
「分かっただろう。鳥井先生の月命としての力と、お前と菜月の強い本当の絆が、一度断絶されたそれを再び結び付けようとしている。お前が菜月と心を通わせる度に、失われたはずの記憶を、お前も菜月も思い出そうとしているんだ」
そうだ。きっと、菜月も思い出してきていたのだ。しかし一方で、月姫の事も分かっていたのだろう。その仕事をすれば自分の記憶がおかしくなるということを。それでも、鳥井先生と遥人がいれば、きっとその記憶は元に戻る。だから、菜月は遥人に自分の部屋の鍵も渡し、昨日、月姫として力を使う前に連絡してきて、遥人がすぐに鳥井先生に会いに行くようにしたのかもしれない。
すると父は呟くように言った。
「ただ……間に合うか」
「間に合う——?」
父は濃いスモークが張られた車の窓から外を見ながら、再び大きなため息をついた。その先にはビル街が延々と続いていて、その間から見える太陽の金色の光が次第に弱くなるとともに、空の色が蒼く変わっていく。しばらく外を見ていた父は、意を決したように、遥人の方を見て言った。
「今夜は十五夜だ。月が一年で一番強い力を持っているから、月姫の力も最大になる。その分、記憶への影響も大きい。今日を過ぎれば、菜月の中のお前との記憶はもう二度と戻らないだろう。それに、お前も今度こそ完全に菜月との記憶を無くすかもしれない」
「じゃあ、早く菜月に会わないと……」
「菜月に会うのは簡単ではない。厳重に守られた真月神社の奥にいるだろうからな。それに、仮に会えたとしても、菜月の体に触れるくらいでは、お前たちの幼い頃からの本当の記憶は戻らないだろう。菜月は心の奥深くに、お前との本当の記憶を閉ざしているんだ。だから、それを開くには、お前たちの二人に共通の大切な思い出、言わば『記憶の鍵』が必要なんだ」
「記憶の鍵——」
「そうだ。しかし、そういう思い出のものの類は、ほとんど全て失われた。お前を拉致すると同時に、嘉月は自分の家を新居に引っ越し、元の家ごと綺麗に処分してしまった。悔しいが、俺がいない間に俺の家も同じようにされてな。お前のアパートだって、お前が嘉月に拉致されてから、近くの空室に引っ越しさせられていたんだよ」
アパートのことは全く気づかなかったが、父に言われるとそれが真実のように感じられた。父はそこで腕時計を見る。
「もう夕方4時半だ。これから村に行けばもう7時は過ぎる。今日の真夜中がおそらくタイムリミットだ。それまでに菜月との思い出に繋がる、記憶の鍵を探して、菜月に会わないとならない」
父は窓の外を見上げた。金色の光はさらに弱くなり、その上にある蒼く、さらに紺色に暗く変わっていく雲一つない空を睨んでいるように見えた。
「俺が監視を引き付けるから、おそらく3時間くらいならカモフラージュできる。それまでにお前は村に行き、記憶の鍵を探すんだ。時間になったら、俺も急いで村に行く」
「僕だけで……?」
「大丈夫だ。向こうに行けば協力者がいる。さあ、手を出せ」
「手を?」
「俺と水月の知る、お前の真月村での記憶を戻してやる」
父はそう言って左手を差し出す。遥人がそこに自分の右手を乗せると、彼はその手を強く握った。細身に見えるが、大きな手だった。
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