(5)
地下駐車場の出口の表示に従って階段を上がると、どこかのビルの1階フロアに出た。そこでは、スーツを着た大人が早足で行き交っている。自動ドアから外に出ると、高層ビルがいくつも立ち並んでいた。そのビルの間から、夕陽が僅かに差し込んできている。
周りを見回すと、少し先に地下鉄の霞が関駅の入口があった。そこに小走りで近づくと、再びスマホに着信が来た。
『もう少し先まで歩け。黒い車だ』
スマホを持ったままその地下鉄への入口の横を通り過ぎると、黒塗りの高級車が車道に停められていた。そこに近づこうとした時だった。
「ちょっと、君」
後ろから声が聞こえた。振り向くと、二人の警官が遥人の方にゆっくりと近づいてくる。
「君は、もしかして、猪野遥人くんじゃないか?」
「えっ?」
にこやかに近づいてくる警官に、思わず足を止める。
「ちょっと話を聞きたいんだけど」
そう言いながら警官が遥人のすぐ近くまでやって来た時だった。
「君たち。一体、どういうつもりかな?」
後ろで男の声が聞こえた。ハッとして後ろを振り向くと、いつの間にか、遥人より背の高いスーツの男が立っていた。
「何だ? お前は」
「ほう、お前だと……? なかなか言ってくれるじゃないか」
その男は警官たちに近づくと、素早く彼らの腕にそっと触れた。そして、遥人に「行こう」と言って背中をポンと叩いた。不思議に思って警官たちを見ると、彼らは茫然とこちらを見ていたが、急に慌てたように「し、失礼いたしました」と敬礼した。
「お疲れ様。……では、その車に乗ってくれ」
黒塗りの車の後部座席のドアを運転手が開けていて、男はそれに乗り込む。運転手がその反対側のドアを開けたので、遥人も慌ててそこに乗り込んだ。乗ったことのない革張りの冷たいシートの感触が体を包む。運転手は柔らかい音でドアを閉めてから、運転席に戻ってくると、車は滑らかに走り出した。
隣に座っているさっきの男の方に顔を向けた。黒光りするスーツに身を包み、髪を短く刈っているが、その髪も黒々としている。細い目は前を向いているが、隣に座った遥人の姿もしっかりと見ているように思われるほどの威圧感だ。膝に置いた左手の金の時計と、薬指に光る太い指輪が目につく。
そこには、母のスマホ画面で見た猪野光人が、笑うことなく真っすぐに前を向いて座っていた。
「どうした? 俺に何か言いたいことがあるのか」
彼は前を向いたまま言った。車はどこに向かっているのか分からないが、光人の前の席に座る運転手が、ビル街の中を颯爽と車を走らせていく。
「父さん……だよね」
「水月が驚いていたぞ。お前が、菜月とは違う、可愛い彼女と付き合っていたとな」
光人はそう言ってフフと笑った。遥人には記憶にないが、母から自分の話を聞いたというのだから、やはり彼が父なのだろう。
「ここに連れてきたのは、父さんの指示だったんだよね?」
「さっきの警官を見ただろう? どうやら、警察が動いているようでな。お前が実家だと思っていたあの千子の家は安全だと思っていたが、急に状況が変わったようだ。俺の特殊部隊が行った時は、村の奴らがお前を縛り上げて、周りも既に警察の奴らがうろついていたようだからな。それで急いでお前を連れてきた」
「連れてきた、って……。完全なる拉致だったけど」
「警察だけじゃない。政府の上層部も含めて、色々な力が動き出している。だから、お前を表立ってVIP待遇する訳にはいかないんだ。カモフラージュするには、どこにでもいる運送業者のようなトラックが一番いい。……しかし、大学の方でお前が捕まらなくて良かった。もしそうなったなら、もっと派手な救出作戦が必要だったかもしれないからな」
フフ、と父は小さく笑った。「派手」という意味が分からなかったが、その微笑になぜか身震いする。車のエンジン音も振動も少なく、車内は静まり返っている。
「菜月の話だが、水月からはどこまで聞いている」
父は静かに口を開く。その低い声が体に響くように感じる。母の話を思い出す。
「菜月が月姫になった時、僕が自分の役割を果たさなかったって」
「そうだ。しかし、それはお前の意思ではない。村長の嘉月に拉致されたんだ」
父の言葉に息を呑む。ちょうど車が信号で停車した。何車線もある広い道路の中央車線だ。
「それにより、月姫と月命の絆は破られた。菜月は自らが選んだ月命であるお前を失い、彼女の中のお前の記憶は消えた。そして、お前の中にあった菜月の記憶も消され、全く別の記憶に書き換えられた。その上、嘉月は、菜月の失われた記憶を偽物の記憶で埋めていく。水月の記憶、俺の記憶……。菜月に近かった人達の記憶を、彼女の中から消し去ったんだ。俺が気づいた時には、全てが終わった後だった」
「どうして、そんなことを……」
「奴は、菜月を、思い通りにしたかったんだ」
車が音もなく動き出す。
「竹内の一族の女性は、月姫となる資格がある。しかし、男は月命となる資格はない。なぜなら、月姫に真の意味で愛され、結婚する必要があるからだ」
「だからって……父親なんだよね」
「ああ。それに、嘉月のいる竹内の本家には莫大な財産もある。だから、奴がそこまでやる意図が分からない。しかし、菜月とお前の絆が切れ、お前たちも本当の記憶を失ってしまった以上、俺たちにはもう、どうすることもできないんだ」
父はそこでカップホルダーに置いたカップを取り上げて一口飲んだ。コーヒーの良い香りが漂ってくる。
「でも、僕は……もしかしたら、菜月のこと、少し思い出したかもしれない」
父がこちらを向いた。
「どういうことだ?」
「月命になることを頼まれた時のこと。さっき夢で見たんだけど、今思うと、そんな事があったような気もする……」
「ふうむ……他にも同じような事はあるか」
「向日葵畑のこと。村の広報誌の表紙になった、僕が撮ったという写真と、同じような風景も夢で見たんだ。菜月が僕の方を振り向いて何か言おうとして……」
そう答えると、父はそこで前を向いたまま黙ってしまった。車は広い道路を颯爽と走り抜けている。
「どうしたの?」
「遥人。お前、どうやって菜月と知り合ったか、覚えているか」
急にそう尋ねられて記憶をたどってみる。菜月に知り合ったのはいつだったか。
「確か……鳥井先生に資料を渡すように頼まれて」
「そうだ。鳥井先生だよ」
えっ、と声を出した。
「どういうこと?」
「どうして先生がお前に、菜月に資料を渡すように言ったのか、分かるか」
訳が分からないまま、父の顔を見つめていると、やがて父が静かに言った。
「俺が頼んだからだよ」
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