(8)
しばらくの間、端末室で黙々と1人で作業していたが、バイトのシフトも続いていたこともあって、意外に時間が過ぎるのが早かった。気が付くと、9月も半ばになり、夏休みの終わりも見えてきている。
(あと数日で、菜月も戻って来る)
彼女からはそう連絡が入っていた。真月村まで迎えに行っても良かったのだが、彼女がどうしても遠慮するので、せめて最寄の駅までは車で迎えに行くと伝えていた。
それに、明日には、来年、鳥井先生のゼミに入ろうとする学生を対象にした、研究室の説明会が行われる。鳥井ゼミに入るには、必ず出席しなければならない。10月からの講義に向けて気分転換を図るためにも、遥人は参加するつもりでいた。
しかし、その前日にバイトの後輩から、体調が悪いのでシフトを変わって欲しいと頼まれてしまった。先生の研究室の説明会は翌日の朝からだったので、できれば前日のバイトは避けたかったが、どうしてもと言うので断りきれなかった。
その日は店長とのシフトだったが、なぜか来店客数がいつもより多かった。来客対応の合間に賞味期限切れの弁当類の廃棄作業をしていると、入店を知らせる音が鳴ったので、「いらっしゃいませ」と声を掛ける。
「あれ? 今日はバイトだったのか」
向こうから声を掛けられて振り向くと、同級生の前口が1人で立っていた。
「ラーメンの帰り?」
「決まってるだろ」
前口はすぐに答えた。彼は小太りな見た目通り、ラーメンが大好きだ。それだけでなく、好きが高じて、今では地元でも有名なラーメン屋でバイトをしている。この時間に来たということはそのバイト明けだろう。
「明日、鳥井先生のゼミの説明会だろ? 寝過ごすなよ。起こしてやろうか」
「じゃあ、9時前くらいに僕から何の連絡も無かったら、電話してよ」
仕方ねえな、と言いながら、彼はペットボトルの緑茶だけを買って帰って行った。
廃棄作業を終えて、チルド品として届いた弁当やパンを並べていると、夜中の1時を回ってしまっていた。ようやく一段落したところで事務室に雑誌を持ち込んで休憩していると、スマホにメッセージが届いていたのに気付いた。
菜月からだった。見ると、受信した時間はもう3時間ほど前だった。
『ごめん。1つだけお願い。鳥井先生から借りていた資料が私の部屋にあるんだけど、それを明日、先生に返してくれない?』
借りていた資料というのは、以前、遥人が彼女に渡したものだろうか。おそらくそうだとは思ったが、夜中だったので、念のため「どんな資料?」とだけ返信していた。
******
バイトを終えて家に帰り、持ち帰った賞味期限切れの弁当を食べて栄養ドリンクを1本飲み干したものの、既に時刻は7時半を過ぎていた。鳥井先生の研究室の説明会は9時半からだったので、家で仮眠するのは危険だ。
(とりあえず、菜月の部屋に行ってみよう)
今日はどうしても寝過ごす訳にはいかないので、いつもの黒いリュックサックだけを背負って家を出た。スマホを見ても、まだ菜月からの返信は無い。ただ、体を動かしていれば眠気が治まるので、とりあえず菜月の部屋に行ってみることにした。
この時期になると、昼の気温はまだ高いものの、山から吹き下ろす風を受けて、朝晩の気温はぐっと下がる。その涼しい空気に触れながら、朝の静かな学生アパート街を歩いていくと、すぐにその場所に着いた。
彼女の部屋である301号室は、3階建てのマンションの角部屋だった。辺りには鳥のさえずりが聞こえている。菜月の部屋にはまだ入ったことが無かったので、彼女が不在と分かっていながらその部屋に入ることに何となく躊躇した。アパートの階段を上る度に、心の中に戸惑いを感じつつも、彼女の部屋に足を踏み入れることへの一種の興奮なのか、目が覚めていくように感じた。
(菜月から頼まれて入るんだから、仕方ないんだ。……しかも鍵も渡されているし)
そう自分に言い聞かせて、菜月から預かった合鍵を鍵穴に差し込んで回すと、ガチャという音がして、鍵が開いた。
ドアを開けると、女性の部屋らしい何かの花のような香りが漂っている。靴を脱いで、まだ薄暗い廊下を進んでいく。廊下に沿って作られたキッチンを通り過ぎ、その向こうの閉められた引き戸をガラガラと開けた。
そこは、8畳ほどのシンプルな部屋だった。カーテンが閉められていて薄暗いので、電灯のスイッチを入れる。片方の壁に寄せて黄色のシーツを掛けたベッドが置かれ、その反対側にテレビと3段程の白いカラーボックスが並んでいる。部屋の真ん中には小さめの丸いテーブルがあり、その上にモバイルパソコンが1台置いてあった。
カラーボックスの中を見ると、農学部の関係と思われる書籍が並んでいたが、その中に見覚えのある本を見つけた。それは鳥井先生の「地域活性化の社会学」の本だ。すると、その隣に茶色の封筒があった。取り出してみると、この前、鳥井先生から預かった封筒のような気がした。その中をそっと覗き込む。
ガチャ——。
突然、玄関の鍵が開く音がした。ドキッとして玄関の方に顔を向けると同時に、ドアが開けられる。その向こうに人が立っていた。
「おいっ! お前、どうしてここに」
突然、叫ぶような声が聞こえた。それは、竹内と一緒にいたあの春樹という男だった。彼は早足で部屋の中に駆け込み、遥人の腕を掴む。
「テメエ、ここで何をしてる! 何で勝手に菜月の部屋に入っているんだ!」
「ち、違う……。僕は、菜月から……」
掴まれた腕の痛さに、思わずその手を外そうと、遥人は春樹の腕を掴んだ。見た目からも太い彼の腕。遥人が掴んだところで外すことができる訳がない。そう思った時だった。
「あっ——」
春樹が掴んでいた手が急に放された。その瞬間、遥人はすぐに彼から離れる。そしてそのまま玄関に走り、全速力でその部屋から駆け出した。
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