(9)
大学の構内に入るまで必死に走ってきた。学内のペデを少し進んだところでようやく振り返ると、誰の姿も見えない。
(一体、どうなってるんだ——)
そう思いながら、大きく深呼吸する。あの春樹という男も菜月の部屋にやって来た。彼も鍵を持っていたようだが、なぜこんなに朝早くに、菜月の部屋に来たのだろう。
スマホを取り出して、菜月に電話を掛ける。とにかく早く連絡を取りたかった。しかし、電話は呼び出し音が鳴ることなく、「留守番電話サービスに接続します」という自動音声案内が流れてきた。
(こんな時に……)
そう思ったが、連絡が取れない限り仕方がない。そこで、「気づいたらすぐに連絡して」とだけメッセージを送り、再び歩き始めた。
学内にある大きな池の近くまで来た時だった。ガアガアと連続して鳴き声が聞こえてその方を見ると、アヒルが何羽もそこに浮かんでいる。その中に白鳥が2羽いて、アヒルに場所を追われるように端の方に向かっていた。
池の端の方は広場のようになっている。その場所は今、背の高い草むらに覆われていて、入るだけでも一苦労しそうだ。確かそこは、毎年、学園祭の事後処理が全て終わった後に、実行委員だけで打ち上げを行う場所だ。あの場所でキャンプファイヤーのように火を囲みながら、音楽を掛けて成功を喜び合う。ただ、今年の学園祭が終わった後に、遥人はあの場所にいることはできるのだろうか。いや、そもそも学園祭まで実行委員の仕事を続けることさえ難しいのではないか。
ビュウウ——。
その時、急に風が強く吹いた。思わず立ち止まって目を閉じる。再び目を開けると、白鳥がバタバタと羽を広げて飛んでいくのが見えた。その姿を何気なく目で追っていくと、池の
(あれ——?)
突然、あの大きな杉の木の下で、誰かと話をしている自分の姿が頭に浮かんだ。皆がキャンプファイヤーの火の近くで騒いでいる皆の姿を遠目に眺めながら、立ったまま話をしている。あの場所にいたとすれば、それは去年の打ち上げの時だったのだろうが、一体、そこで何をしていたのだろうか。
その時、スマホが音を立てた。慌てて画面を見ると、大森からのメッセージだった。
『おはよう。バイト明けか? 午後でもいいから実行委員会室に来い。色々と手だてを考えたが、やっぱりお前を仕事に戻すように、ストレートにみんなに言うのが一番いいと思う。だから、お前が来れそうになったら連絡してくれ』
短い文章の中に、彼の真っすぐな性格が表れているような気がした。もう一度その文面を見返すと、胸の奥から熱いものがこみあげてくる。そうだ。菜月だけではない。自分にはまだ、助けを求めるべき人間がいる。
(ありがとうございます。大森さん——)
すぐにメッセージで感謝の言葉を返してから、「午前中は研究室の説明会があるので、11時頃までには行きます」と返信しておいた。
研究棟には8時半頃に着いた。まだ早い時間帯であるためか、建物内は人気がなくひっそりとしている。説明会は1階の会議室で予定されていたので、入口の案内表でその場所を確認した。その時、その地図の3階に「鳥井研究室」の文字が見えた。
(先生はいるかな?)
そう思いながら、ふと手にした封筒に視線を落とす。封をされている訳でもないので、封筒の中を覗いた。中には薄い紙のようなものが入っていたので、そっと取り出してみた。
それは、カラー刷りの何枚かの紙で、表紙に大きく「真月村」と書かれていた。どうやら村が発行する広報誌らしい。その文字の下はカラーの写真になっていて、夕暮れの向日葵畑の風景が写されている。
(うん?)
その写真をもう一度よく見た。写真の中ほどより左側の奥に、横向きに空を仰ぐように立っている人間が写っていた。表情まではよく分からないが、白いワンピースを着ていて、風を受けて長い髪が揺れている瞬間を写している。その姿をじっと見つめた。
(これは……菜月?)
薄暗くなっているのではっきりとはしないが、菜月のように見えた。その表紙には「20XX年9月号」と書かれている。ちょうど2年前のこの時期の広報誌だが、そうすると写真を撮ったのはそれよりは前のことだろう。
そこでハッとしてその広報誌を封筒の中に戻した。中身が大したことはなさそうだとは言え、菜月が先生から借りたものを勝手に見るのは良くない。それで、ひとまず先生の研究室に向かった。
普段の様子は分からないが、研究棟内は遥人の足音が響くほどに静まり返っている。階段を探して3階に上がり、改めて案内表示を見ると、一番奥が鳥井先生の研究室のようだ。誰もいない廊下を端まで歩き、「鳥井」というプレートが付けられた部屋の前に着いた。
その入口のドアは開けられていて、中から電灯の光が漏れている。そっと中を覗くと、机の上でパソコン画面を見ている白髪の男性が見えた。鳥井先生だ。
その時、ふと、先生がこちらに視線を向けて、遥人と目が合った。
「ん? 誰だね」
突然声を掛けられ、戸惑って黙ってしまった。
「社会学に興味のある学生なら、入って構わないよ」
先生が声をかけた。遥人はその言葉に促され、緊張しながら室内に入った。
「おはようございます。……あの、社会学部2年の猪野です」
「ああ、君か。よく来てくれたね。では、今日の研究室の説明会にも出てくれるのかな」
先生の問いに「はい」と答えると、先生は笑顔になって立ち上がった。
「どうぞ。入って構わないよ。私は、少し作業があるから、その辺のファイルを自由に見てみるといい。研究の様子がわかるかもしれないから」
「ありがとうございます。……それで、先生にお渡ししたいものがあるんですが」
そう言って、持ってきた封筒を先生に渡した。
「これは?」
「前に先生から預かって竹内さんに渡した資料です。昨日彼女から、これを先生に返すようにと預かりまして」
そう答えると、先生は封筒から広報誌を取り出した。
「ほう……やはり、君たちは知り合いだったんだな」
「いえ……まあ、その……」
前に先生と会った時は、まだ竹内とは付き合っていなかった。ただ、それを「付き合い始めた」と伝えることが恥ずかしく感じたので、曖昧に答える。すると先生は笑顔で頷いてから、本棚の方に歩き、そこから1冊のファイルを取り出した。
「私が真月村を初めて訪れたのは、もう30年以上前のことだ。あの近くの山に登った事があってね。その帰りに立ち寄ったんだが、とにかく大自然に囲まれた風景に感動したんだ。それで、勢いで役場に乗り込んで聞いてみると、全然観光を売りにしていなくて、僅かな農業以外には大きな産業もなく、役場も活気が無かった。それで、私はどうにかして村を活気づかせようと考え始めた」
先生はファイルをめくりながら語り始める。
「真月村は、戦後に開拓して農業を基盤にしていたんだがね。若者はほとんど後継者として残らず、農地はどんどん荒れ、当時から人口減少が急速に進みつつあった。このままでは数十年後の子供たちの時代には何もなくなってしまう。私はまだ若く、熱っぽく住民に語ってみたが、なかなか住民はその将来像を理解できなくてね。じゃあ何がある、と言われて、色々と考えた末に、出した結論が向日葵だった」
先生は話しながらページをまた捲っていく。遥人は楽しそうに語る先生の横顔を見ながら、これが本当の研究者の姿なのだと思いつつ静かに話を聞いていた。
「初めて向日葵を植えて、それが辺りの畑一面に咲いた時は本当に嬉しかった。それに、住民、特に未来を担う若者達がそれを喜んでくれてね」
先生はそう言って、ページを捲っていたが、その手を止めた。遥人が横から覗くと、そこには誰の姿もなく、真っ暗な場所が写されたような写真が見える。
「——似ているのかもしれないな」
「似ている?」
そう尋ねると、先生はハッとした様子で首を振った。そしてパタンとファイルを閉じて、それを遥人の方に差し出した。
「良かったら、この資料を君に貸してあげよう。他にもファイルはあるんだが、これは写真や資料を中心にまとめたものだから、自分で言うのも何だが、イメージしやすいものばかりだ。もし、君がこれから真月村のことを研究したいと思っているなら、取っ掛かりとしても役立つと思うよ」
「えっ! いいんですか。お借りしても」
「もちろん。その代わり、来年から私のゼミで頑張って研究してくれよ」
そう言った先生からファイルを受け取る。
「私も後で説明会にも顔を出すから、また会おう」
先生はそう言って自分の席に戻る。遥人はもう一度、「ありがとうございます」と深く頭を下げて、先生の研究室を出ようとした時、「ああ、ちょっと」と先生に呼び止められた。
「この広報誌もそのファイルに入れておいてくれないか」
そう言われて、先生の所まで戻り、その広報誌を受け取る。
「それにしても、この写真はなかなかいい写真だね。君はセンスがあるな」
「えっ?」
「これは君が撮ったんだろう? 広報誌の後ろに名前が載ってるよ」
先生はそう言って広報誌を裏返す。そして、最後のページの端の方にあった「表紙の写真」と書かれている場所を示した。遥人はそこに書かれている文字を読み、息が止まりそうになった。そこにはこう書かれていたのだ。
タイトル「太陽と月の狭間」
撮影者 猪野遥人
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます