(3)
その日は夜勤続きで元々疲れていて、あまり飲んでいなかったが、歩いているうちに急激に頭が痛くなってきた。
(何なんだよ——)
板野が友恵をお気に入りだというのは、去年から実行委員会の中で広く知られていた。彼が実際に告白したのか、また友恵も彼の事をどう思っていたのかも分からないが、今、友恵は遥人と付き合っていることは確かだ。一歩で、板野と友恵は、委員長と広報部長という関係でもあるので、彼女もつかず離れずの距離感でうまく接している。
しかし、だからこそ板野としてみれば面白くないのだろう。彼も普段はそのような素振りは見せないのだが、今日はかなり酒が入っていたようだし、友恵もいなかったので、遥人に絡みたくなったのかもしれない。しかし、彼に言われたところで遥人としてもどうしようもない。心の中にモヤモヤしたものが広がり、道路脇に落ちている小石を蹴りながら、街灯の少ない暗い道を、自宅アパートまで1人で歩いていく。
アパートから最寄りのコンビニで、酔い覚ましにペットボトルを買おうと店内に入ろうとした時だった。ちょうどコンビニの入口の自動ドアが開いて、中から客が出てきた。
「あれ?」
その声の方に顔を向けてハッとした。
「猪野くん?」
「あっ——」
そこにいたのは、竹内だった。
「こんばんは」
「あっ……こんばんは」
頭を下げて挨拶すると、彼女は遥人の方を見つめた。
「あれ? 飲み会だった?」
「あ、ああ。そう。……あっ、そうか。農学部も飲み会だったんだね」
竹内のやや紅潮した顔を見てそう尋ねる。
「そうそう。それで——」
竹内が言おうとした時、その後ろで自動ドアが開いた。そこには、この前、図書館で見かけた大きい男がいた。竹内も振り返る。男は不機嫌そうな表情で遥人の方を見つめる。
「帰ろうぜ」
男はそう言って竹内の隣に立った。すると竹内はその男の方に顔を向ける。
「私は後で帰るから」
「こいつ……誰なんだよ」
男が遥人の方を見つめたまま低い声で言う。
「知り合いなの。いいから」
竹内が再び言うと、男は遥人の方をやや睨んでから、ゆっくりと歩いて去っていく。その後ろ姿に竹内はため息をついたが、すぐに遥人の方に顔を向けた。
「ねえ。この前の本、読んでみた?」
「えっ……ああ、鳥井先生の?」
「そう」
「ごめん。実はまだ読んでいないんだ」
正直に答えると、竹内はやや残念そうな顔をした。
「そう……分かった。良かったら読んでみてね。……じゃあ、私も帰るわ」
彼女はそれだけ言うと、足を一歩踏み出した。その後ろ姿がコンビニの明かりから遠ざかっていく。
「あ、あのっ!」
遥人は声を掛けた。彼女が立ち止まって振り返る。
「あの……去年、君はゆかたコンテストで優勝したんだよね?」
「えっ——」
「僕は……そのステージの前にずっといたはずなんだ。でも、他の出場者のことは覚えているのに、優勝したはずの君のことだけは覚えていない」
遥人は正直に言った。いや、それを伝えた所でどうなるものでもない。ただ、彼女にはそのことを知って欲しいような気がした。
「君は、僕のことを知ってたのかな」
そう尋ねると、しばらく彼女は不思議そうに遥人の方を見ていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「分からない」
えっ、と遥人は言った。
「だけど、私……あなたを知っていたのかもしれない」
「そ、それは、一体——」
遥人が重ねて尋ねると、彼女は黙って空を見上げた。遥人も同じ方を見上げると、雲間の向こうに、満月から少し欠けた月の姿が見えた。ゆっくりと視線を地上に戻すと、アルコールで紅潮していたはずの彼女の頬が、月の光で白く輝いている。
その時、ふとその風景が蘇った。
(向日葵の畑——)
広大な向日葵畑。風に吹かれる中で、長い髪をなびかせながら立ち尽くす女性。そして、彼女が見上げる満月。この前、夢で見た風景とよく似た風景が脳裏に蘇った。
「猪野くん」
竹内が遥人の方に顔を向けた。
「あの本、読んでみてね」
彼女はそれだけ言うと、そっと笑って「バイバイ」と言って右手を振った。背中を向けた彼女の姿は、少しずつ暗闇の中に遠ざかっていく。
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