(4)
翌日は、実行委員会室に行こうか迷っていたが、その気持ちを察してくれたのか、朝起きると大森からメッセージが入っていた。どうやら今日は、板野は来ないらしい。大森に感謝のメッセージを返信してから、昼前には委員会室に行った。部屋に入ると、大森が軽く手を挙げたので、こちらも頭を下げてそれに応じた。
室内の人数は多くはなかった。いつものようにパソコンを立ち上げてしばらく作業していると、友恵が何気なく隣に来た。
「昨日、大丈夫だった?」
「あっ……ああ。うん」
彼女も遥人が板野に絡まれた話を誰かから聞いたのかもしれない。彼女とはあまりその話をしたくないと思い、すぐに話を変えた。
「それより、農学部の飲み会も盛り上がった?」
「うん。やっぱり、農学部の飲み会って楽しいわ」
友恵は笑顔でそう答えると、ちょうど別の委員が彼女を呼んだので、「じゃあね」と言って自分の席に戻っていった。
板野は不在とはいえ、その日は昨日の不快さをたびたび思い出してしまい、あまり仕事が進まなかった。友恵も午後からバイトらしく昼でいなくなり、午後には部屋は数人ほどになってしまったので、遥人も3時頃には委員会室を出た。
その日は夜10時からバイトだった。バイトがある日は、夕方に仮眠を取ったうえで、出勤時間に間に合うように、夜8時半頃に起きて準備をする。遥人はアパートに戻り、少し眠ったが、気が付くと既に9時近くになっていた。慌ててシャワーを浴びて目を覚まし、出かけようとした時、昨日の竹内とのやり取りをふと思い出した。そこで、机の上に置いていた図書館から借りた本を持って部屋を出た。
その日は店長とのシフトだった。あまり来客も多くなく、商品や書籍の入れ替えが普段より早めに終わったので、持ってきた本を事務室で広げる。
まずは目次に目を通していく。その本は、鳥井先生が関わった地域活性化の事例が5つ掲載されていた。各事例は、地域の現状とそれに応じた課題設定、そして解決策の提示もしくは実施という構成になっているようだ。
続いて、竹内に紹介された真月村の章を開いて、ざっくりと概要に目を通していく。その事例の真月村というのは、山梨県にある山間の村で、戦後の開拓で農地を広げてきた、農業が主たる産業の村だった。地理的にも山岳部に位置するため、昔から交通の便も悪く、主産業であった農業も後継者が育たないままに若者は次々と村外に流出していく。周辺の市町村が合併を進める中、村はタイミングを逸して合併協議を進めることもできず、単独での生き残り策を考えざるを得なくなった。
そのために、鳥井先生が提案したのが「向日葵」だった。遊休農地に大量の向日葵を植えて、地域の自然にマッチした観光地化を図っていく。向日葵の種を使って油を製造したり食品に加工したりする産業も作り出す。向日葵を植える畑を少しずつ変えていくことで、農作物の連作障害も防止し、農業の生産性を上げ、これらにより農業後継者を育て、農業と観光を両立させるというものだった。
その章の最後のページまで来た時だった。
(えっ——)
そこには1枚の白黒の写真が掲載されていた。そして、その写真の上に、黄色い付箋が貼ってあったのだ。そこには、ボールペンで小さく文字と数字が書かれている。
『竹内菜月 090-XXXX-XXXX』
胸の鼓動が急に高鳴っていく。その付箋に手を伸ばしてそっと取り、目の前に近づけて少し考えて、ハッとした。
そうだ。彼女は昨日会った時も、この本を読んだかどうかを尋ねてきた。きっとそれは、内容を尋ねたかったからではない。彼女の連絡先を伝えたかったのではないか。
(でも……どうして?)
もう一度、そのページに視線を落とす。そこにあった白黒の写真を見つめて息を吞んだ。思わずその本を顔に近づける。
その写真には、不鮮明ながら、向日葵の広い畑と、その向こうには切り立った山々が写っていた。写真の下には、「ヒマワリ畑と南アルプスの山々」と書かれている。
遥人は自分のスマホで「真月村」と検索し、役場のホームページを開いた。トップページに「ヒマワリ畑」というリンクが見えたのでそこを開くと、何枚もの画像が掲載されている。それは向日葵を撮影した写真で、その中には向日葵畑の向こうに山々が写されたものもあった。
(この写真——)
遥人は「真月村」という地名を竹内から聞き、そこがどういう場所なのかをこの本で初めて知った。もちろん村のホームページを見たこともないし、行ったこともない。しかし、その写真の風景には見覚えがあった。それはこの前、母と別れてアパートに帰った夜に、夢の中で見た光景と似ていたのだ。しばらく記憶から遠ざかっていたその夢のことが急にありありと思い出されてくる。
(どうして、この場所が……?)
自分の胸の高鳴りを感じながら不思議に思っていると、商品の棚卸や注文を終えた店長がパソコン画面からこちらを振り向いた。
「何だか分厚い本だね。どんな本なんだい?」
ドキッとして慌てて本を閉じてから店長の方を見る。
「えっ、ええ……。来年からゼミが始まるんですが、これは僕が入ろうと考えているゼミの教授が書いた本なんです。だから少し読んでみようと思いまして」
そう言って店長にタイトルを見せる。
「ふうん……難しそうな感じだな」
「いえ。そんなに難しくはないんです。この教授はフィールドワークを大事にしているみたいで、色々な地域に実際に出向いて、データや写真もたくさん使って解決策を提示しているので、その分、ページ数が増えているようなんです。だから、結構読みやすいですよ」
「なるほど。それは要するに現場主義だな。私も昔、自動車関係の部品工場で工場長をしてたから分かるけど、そういう現場感覚は大事だと思うよ」
「現場……ですか」
「そう。机の上で考える事も大事だけど、実際にその場に行ってみる事はもっと大事。現場に行けば、そこで働く人間の動き方、機械の音、油の臭い、そこから見える風景みたいな色んな事が分かる。五感をフルに使った事実が見えるんだよ。そういうものはデータで表すことがかなり難しいからね。私もその当時は、問題が発生した時はもちろん、日々そういう現場に行って改善策を考えていたものだよ」
なるほど、と頷きながら、もう一度、先ほどの向日葵の写真に視線を落とす。確かに店長の言うのはもっともだ。もし、この風景が気になるならば、そこに行ってみればいいのではないか。スマホでルートを検索すると、真月村には、高速道路を使えば片道3時間から4時間ほどで着きそうだ。
遥人はスマホでシフト表を確認する。ちょうど明日からの3日間はシフトがない。時間は十分にあることを確認し、店長に「僕も現場に行ってみます」と言うと、彼は満足そうに頷いた。
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