(5)

 午後3時を過ぎ、遥人は委員会室を出てから自宅アパートに向かってペデを歩いていた。すると、その途中でスマホに着信が来た。画面を見ると母からの電話だ。


「どうしたの?」


『あのさ。お前、もう夏休みなんだろう?』


「そうだけど」


『そっちに行きたいんだけど』


「そっち、って……ここに? どうして?」


『だって、行ったことないし。ちょっと時間できたから、行ってみようかなって』


 確かに母は大学の方に来たことは無いはずだった。この辺りは観光地という訳ではないが、母の希望をそこまで断る理由も見当たらない。


「いいけど、いつ頃に来るの?」


『来週ならいつでもいいよ。お前の都合のいい時でいいから、1泊だけホテルを私の名前でどこか予約しといてよ。予約できたら内容をメールとかしてくれればいいからさ』


 母の依頼に「分かった」と答えると、電話は切れた。


 遥人の実家は千葉県の東端にある千子市という街だ。母はそこで小さな居酒屋をやっている。父は船乗りだったが、遥人がまだ保育園の頃に事故で亡くなった。父の記憶はなく、幼い頃から母子家庭で育ったことしか覚えていない。母の居酒屋も、地元の中高年向けで、決して繁盛店ではなく、家計は厳しかったはずだ。それでも、母は「常連さんがいるから」と言って、店を休みにすることもほとんど無かった。距離的にはそこまで離れていないとはいえ、大学の方まで来てみたいと母が自分から言ってきたので、その思いには応えたいと思った。


 夜9時半を過ぎてから、遥人は車のエンジンをかけた。夜勤のバイト先のコンビニは、車で10分ほどの場所にある。大学に掲示されていたアルバイトの募集情報を見て申し込んだ先で、始めてからもう1年になる。自宅アパートから徒歩や自転車ですぐに行けるアルバイトの募集も沢山あったのだが、学生のアパート街に近い場所だと、知り合いに会いすぎて面倒になるような気がしたので、敢えて少し離れたそこに決めたのだった。


 車は先輩から格安で譲ってもらった白色の軽自動車だ。この辺りの地域は、元々は雑木林であったが、かつて東京にあった大学をここに移転するのに合わせて、関係する研究機関の整備とともに計画的に街づくりがなされてきたらしい。東西と南北の大通りを中心にして道路が整然と整備されていることもあって、住民の主な移動手段は自家用車であり、そのため公共交通機関がほとんど整備されていない。そういった状況のため、多くの学生は、中古車を買うか、親や先輩から古い車を譲って貰うなどして、自分の車を持っていた。


 バイト先の駐車場の端の方に車を停めて、店内に入っていく。


「お疲れ様です」


 そう言いながら入っていくと、「お疲れ様」と中年の男性がレジの中から応えた。その奥の事務室でTシャツの上に店の制服を着て、頭に紙製の帽子を乗せる。その日は店長と2人でのシフトの日だった。夜勤は夜10時から翌朝6時までの勤務時間で、来店客数は少ないものの、防犯上の観点もあって常に2人以上での勤務となる。


「もう試験は終わったのかい?」


「ええ。この前、終わりました」


 尋ねてきた店長に答える。店長は50代前半でサラリーマンを早期退職してその店をフランチャイズで始めた男性だ。夜勤では、通常の接客よりも、商品の補充・入れ替えや掃除作業が主な仕事になる。初めの頃はとにかく起きていることが大変だと思っていたが、体を動かしていれば意外に眠くなることもない。接客自体も少なく、自分のペースで仕事が進められるため、慣れればさほど大変でもない。


 仕事が一段落したところで事務室で休憩していると、オーナーが話しかけてきた。


「猪野くんは、今年のお盆はどうするかい?」


 オーナーは商品発注用のパソコンの前に座ったまま、こちらを振り返る。


「お盆前なんですが、来週、母親がこっちに来るみたいなんです。まだ来たことが無いので」


「それはいいね。お母さんも普段は忙しいだろうから、親孝行になるね」


 はい、と答えると、オーナーはパソコン画面に顔を向けた。彼には遥人の家の事情も伝えているので、母が忙しいことはよく分かっている。


 スマホからグループスケジュールを共有しているバイトのシフト表を確認する。バイトはほとんどが大学生なのだが、お盆の辺りはオーナーとその息子が既にシフトを入れていた。しかし、それ以外のスケジュールは、今のところ普段とあまり変わらない。夏休みとは言え、やはりあまり長く休んでどこかに行くという予定は誰もないらしい。バイトが休みの日を確認すると、遥人は母の泊まるホテルを探し始めた。

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