第三十五話 内なる荒波
一方、アリオンも宿舎に帰って来ていた。
同室であるアーサーは、椅子に腰掛けたまま机に突っ伏している。びくともしない。考え事をしたまま寝てしまったのだろうか。
(椅子の上ではゆっくり休めないだろうに。いつものアーサーらしくないな……)
わざわざ起こすのも忍びないため、王子はその肩の上から毛布をそっとかけてやった。
部屋の窓から空を見上げると、夜空に月がぽっかりと浮かんでいる。真っ白い、大きな丸い月だ。
(あれから随分と時間が経ったように感じるが、まだ半年も経っていないのか……)
このいつ終わるのか分からない旅が終われば、今の生活から王宮の生活へと戻ることになる。カンペルロ王国から侵略攻撃を受けて、それまで何一つ問題のなかった平穏から、知らない世界へと突然投げ出された。住んでいた国も城も仲間も全て失い、失意の底にいた自分に、一人のコルアイヌ人の少女が救いの手を差し伸べてくれた。彼女の仲間達も手を貸してくれ、それからずっと彼らと行動を共にしている。彼らは差別もせず特別扱いもせず、自分を一人の人魚として扱ってくれる。ありのままの自分を受け入れてくれているのだ。
(常に危険がつきまとうことも、自分達まで生命を狙われることも分かっていて、それでも彼らは僕と一緒にいてくれる……)
昔アルモリカにいた時に友人と呼べる者はいた。だが、その中で腹を割って話せるような者はほぼいないに等しかった。どうしても妬み嫉みは存在するし、為政者はいつの時代でも孤独が常につきまとうもので、それは重々承知しているつもりだ。
アルモリカで十七年間生きてきた中、ずっとやり取りをして来た仲間達と過ごした時間より、まだ数ヶ月しか一緒に行動を共にしていないコルアイヌ人達と過ごした時間の方をより長く感じる。
(何故だろう? 不思議な気分だ)
一緒に海で泳いだ訳でもないし、何よりも相手は人間で種族さえ異なるというのに……。
(彼らと一緒にいられるこの時間がずっと続けば良いのに)
そう思う自分がいることにひどく驚いた。
アリオンは窓のカーテンを静かにしめると、二台ある寝台の片方に腰をおろした。ため息を一つつき、ふと自分の手を見ていると、先ほどまで自分の腕の中にいた少女のことを思い出した。
――もしあんたが死んだら、私……絶対に許さないんだから! ――
――だって、誰だって思わないだろう? 出掛けたきり帰って来ない日が急に来るなんて――
僕の目の前で、彼女は大粒の涙をこぼしていた。いつも元気なのに、あの時の彼女は、ひどく小さく見えた。僕は、今まで知らなかった。彼女は表に出さないだけで、常に己につきまとう孤独に苦しんでいる。
(今の僕に出来ることはほとんどない。彼女の心に空いた大きな穴を少しでも埋められたら、レイアは気分が少しは楽になれるだろうか……? )
そう思ったらついいたたまれなくなって、思わず彼女を抱き締めてしまった。今まで女性に対して、こんなことしたことなかったのに、身体が勝手に動いてしまった。
(僕は一体何を……)
彼女は最初驚いていたようだが、抵抗するどころか僕にすがりついてきた。そして、その腕で逆に抱き寄せられた。離すまいとでも言うかのように。その時、心臓が強く跳ねる音が聞こえた。
(レイアは僕のことを好きなのだろうか? 僕は彼女のことを……)
かつて、海の中で失われかけた生命を助けたことが、脳裏を掠めた。どこにいるかも分からない。生きているのかさえ分からない。行方不明のあの娘は、未だに分からないままだ。もう戻ることはないあの日々。二度と戻るはずもないあの日々。
――大きくなったらきっと君を迎えに行くよ――
――大人になったら僕達結婚しよう! ――
あの時、自分は彼女にそう言った。彼女のことが本当に大好きだったから。
――本当? 私をあなたのお嫁さんにしてくれる? ――
――嬉しい! 約束ね! ――
正直、忘れることが出来ない。明るくて、とても可愛かったあの笑顔。波の彼方に消えてしまった、あの笑顔……。だが、いつかは自分の気持ちに整理をつけないといけない時が来る。
(ジャンヌ……)
僕は、いずれ国を建て直さねばならない。支えあえる伴侶が必要だ。思い出に囚われたまま、いつまでも一人のままではいられない。
――今度は僕が君を守る番だ。是非守らせて欲しいのだが、良いだろうか? ――
先程レイアに言ったことに嘘はない。おびやかすもの全てから、彼女を守りたいと思っている。だが、胸がひどく痛むのだ。僕の中にはまだ昔の記憶が消えないままで、さざ波を絶えず繰り返している。それは時々荒れ狂う波となって、僕に襲いかかってくるのだ。
君に二度と逢えないのなら、本当に忘れたい。あふれ出る想いごと、全てを忘れてしまいたい……。
(ジャンヌ……僕は君を……忘れなければならない……)
前に進むためにも、踏み出すためにも。
白い牙をむく内なる海の全てを飲み下すかのように、王子は頭を垂れつつ、静かに目を閉じた。
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