第七話 幼馴染み

 心地よい風が頬をくすぐってゆくのを感じる。

 身体が柔らかい何かに包まれている、これは一体何だろう?

 太陽の匂いがする。

 

 (ここはどこだろう? )

 

 私は、確か崖から真っ暗闇の谷底へと落ちたはずだ。

 あんな高さから落ちたのだ。

 生きているはずがない。

 だけど……身体の感覚がある。

 何故だろう?

 

 ふと目を開けると、日に焼けた褐色色の肌を持つ幼馴染みの顔が視野に入った。

 白いシャツを着て、ベージュのスラックスをはいた青年は、濃い眉毛を歪めている。

 自分は今、寝台へ横になっているようだな。

 ふわふわした毛布に包まれている感触が、心地良い。

 ろうそくの光が揺れている。

 もう夕方だろうか? 周りが少し薄暗い気がするが。 

 

「……?」

「レイア、ようやく気付いたか。安心しろ。ここは俺の家だ」

 

 久し振りに聞く低い声に、身体が少し軽くなる思いがした。

 

「……アーサー……? アリオンは……!? うっ……!!」

 

 急に上半身を起こしたレイアは、身体中を走る鈍痛に顔をしかめた。

 アーサーと呼ばれた男は大きな手を彼女の肩に置き、なだめるように言う。

 

「アリオン? ああ、連れていた彼のことか。心配せずとも彼は無事だ。ほら見てみろ。向こうで静かに眠っている」

 

 彼が顎で示した先に、静かに眠り続けるアリオンの姿が見えた。

 心臓がはねる音が聞こえる。

 レイアは寝台から降りると、止めようとする手に構わず、よろめきつつも思わずアリオンのもとへち駆け寄った。

 見た感じ小屋を出る時とあまり変わりはないようだ――あちこち包帯でぐるぐる巻きになっていることを除いて。目を閉じて胸のあたりが上下しているのを確認し、レイアは大きな安堵のため息をついた。

 

「セレナの見立てだと、彼の命に別状はないようだ。このまま自然と目が覚めるまでそっとしてあげてってさ」 

 

 (良かった……心臓が潰れるかと思った……!)

 

 セレナはレイアの幼馴染みの一人で、医術師である。人間のみならず、人魚族も診ることが出来るのだ。彼女は訳あって二年位前からアーサーの家に同居している。


 少し安心したレイアは自分が横になっていた場所へと戻り、その上に腰掛けると、自分の身体から薬草の匂いがするのに気付いた。


 袖をまくると、膏薬を塗り付けたあて布を、包帯であちこち固定してあるのが目に入る。頬に手をあてると、顔は無事だったようで、特に何も貼られていなかった。なんだかミイラみたいだなと己の姿を想像すると、腹の中から笑いが込み上げてきて思わずぷっと吹き出した。

 

「起きても大丈夫そうなら、良しとするか。お前の方はかすり傷と軽度の全身打撲のみで、捻挫も骨折もないそうだ。傷跡が残りにくいように膏薬を塗ったと聞いている。――お前、一体何をやらかしたのかは知らんが、無理をするなよ」

「ごめんごめん……て、何だって!? 骨一本折れてない!? 良かった~! あの崖から落ちて良く無事だったものだ」

 

 己の腕や足を動かしてみて、動かせない関節がないのを確認したレイアは両腕を天に向かってえいっと伸ばした。そして「痛たた……」と顔をしかめる。それを聞いたアーサーは目を見開いてぎょっとした。

 

「おいおい、それは本当か? そりゃあ驚きだ。あれはサンヌ崖だぞ。あの高さから落ちて死んだ者の数なら山ほど聞いたことがあるがな」

「ふふん。きっと、私の普段の行いが良いからだろう!」

 

 鼻息荒く自慢気に言うレイアの傍で、大きなため息が聞こえた。彼は人差し指と親指で輪っかを作り、自分より小柄なその額を強く弾いた。

 

「痛っ!」

「あほか。それを言うなら悪運が強いというヤツだ。不必要な心配かけさせやがって」

「ごめんってば!」

 

 アーサーは涙目になっている、自分より頭一つ分低いその身体に、ベージュ色の上掛けをそっとかけてやった。非難めいた口調だが、どこか優しい。

 

「サンヌ崖の下で二人して倒れていたのをセレナが見付け、二人で運んで連れ帰ったんだ。あの崖は存在が分かりづらくて、転落する者が後を絶たないと良く聞いている。運が良かったから良かったようなものだ。あんまり無茶するなよ」

 

 ヘーゼル色の瞳の少女は、くしゃみを一つした後、ヘヘっとくすぐられたような顔をした。

 

「ありがとう。今回は本当にまずいと思ったから、助かったよ」

「お前……ひょっとして厄介事に巻き込まれたんじゃないのか?」

「相変わらず鋭い奴だな……まあ、否定はしないさ」

 

 レイアはため息を一つつき、しぶしぶアーサーにこれまでの話しをした。

 すると驚きのあまりアーサーの細長い、形の良い紫色の瞳が大きくなる。

  

「お前正気か!? あのカンペルロ王国の奴らが相手だぞ!?」

「でもアルモリカ王国の彼等は、何も悪いことをしていないんだぞ!? そんなの、許せない」

「レイア、気持ちは分かるが、自分の命をもっと大事にしろ。命がいくらあっても足りないぞ!! 本当に、舌の根が乾かないうちにお前は……!!」

 

 つい声が大きくなっていたことに気付いたアーサーは、アリオンの寝台をちらりと見やる。寝台の主がまだ目覚めていないことを確認して、彼は小声で話し始めた。

 

「それにな、お前の連れている相手、誰か分かっているのか?」

「アリオンがどうかしたのか?」

「彼は現在潰されかけている、アルモリカ王国の王子さ。王家唯一の生き残りと言われている」

「王子……!?」

 

 レイアは目を大きく見開いた。

 彼は身の回りのことをわりと自分でしていた。

 普段から何でも自分でしているような感じだった。

 それでも立居振る舞いといい、どこか上品で、何となく庶民ではなさそうな感じはしていたが、本当に王族だったとは。

 

「お前が知らないとは珍しいな。先月カンペルロ王国がアルモリカ王国を侵略した話しだが、お前の街ではその詳細は噂になっていないのか?」

「ああ。全く。サビナにも行ったのだが、どういう訳か話題に上がらなかったんだよ。アルモリカ王国は訪れたことがまだないから良く知らないしな。だから行ってみようと思うのだが」

 

 アーサーは眉をひそめ、黒い短髪の後頭部をぼりぼりかいている。

 

「理由は知らんが、誰かが情報を止めているんだろうな。特に中心都市部には。それよりも、俺はお前が権力抗争に巻き込まれないかが心配だ」

 

 国と国の問題だ。上の連中が主に対処することだろう。一個人が安々と首を突っ込んでいい問題ではない。アーサーは、自分の幼馴染みがその荒波に乗り込もうとしているのを強く感じ、やきもきしているようだ。

 

「それに……同情心や義侠心のみで人一人を守れる程、命は軽くないだろうが」

「それは……常に肝に銘じているさ」

 

 ヘーゼルの瞳は紫の瞳を下から覗き込んだ。

 射抜くような視線を感じる。

 これは意志を曲げる気のない視線だ。

 

「あと、私は知りたいことがある」

「……ああ、前に言っていたお前ののことか?」

 

 唇を引き締めたレイアはこくりと首を縦に振った。その瞳は真剣そのものだった。

 

 実は彼女には、抜け落ちている記憶がある。

 五歳以前の記憶が全くないのだ。

 彼女が言うには「穴が空いたようにすっぽりと抜け落ちている」らしい。

 思い出そうとしても、思い出せない。

 無理に思い出そうとすると、頭痛とめまいがするという。

 何とも奇妙なはなしだ。

 

 レイアは幼い頃に両親を亡くし、養親の元で育った。

 そこで護身も兼ねて剣の手解きも受けたらしい。

 そして十五歳になってから、サビナへ買い出しついでに旅に出るようになった。

 何とかして記憶を取り戻したい彼女だったが、今のところ何一つ見付かっていないのだ。

 

「コルアイヌ王国内やサビナではこれと言って手掛かりが掴めなかったんだ。レイチェルも教えてくれなかったし。アルモリカ王国に行けば、何かきっかけが得られるかもしれない。そんな気がしてな」

「お前の頑固さには負けるよ。これまでずっと一人で良く頑張ったものだ」

 

 レイアは一度言い出すと何を言っても止められない。彼女の性分を分かっているアーサーは白旗を揚げた。

 

 レイチェル・ガルブレイスは、レイアの養親だった。

 細身で大人しそうな外見だが芯の強い女性で、十年位前にとなり村から引っ越してきたと、当時近所に住んでいたアーサーの両親から聞いた。


 彼は十歳、レイアは五歳の頃だった。


 その時からずっと一緒だった彼女からは、レイアの両親は病気で死んだとしか聞いていない。

 

 レイチェルは一年前に不慮の事故で不帰の客となった。

 当時、彼女はまだ十五になったばかりだった。

 その時には引っ越して今の土地に住んでいたアーサーは気を遣い、事後処理を手伝ったり時々連絡をとったりしていたが、レイアは気丈にも涙一つこぼさなかったのだ。

 

「レイチェルからは、一人でも生きていけるようにと、色々仕込まれただけあるからねぇ」

「あの華奢な見た目で凄腕の剣使いだなんて、誰も想像出来なかったな。俺も一度だけ手合わせさせてもらったことはあったが、簡単に勝てない相手だと思ったよ」

「あれからもう一年か。時が過ぎるのは早いよな」

 

 昔の頃を思い出していたのか、レイアは顔つきが昔の頃に戻っていた。そんな彼女の頬を、ろうそくの光が柔らかく照らしていた。

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