第136話 飛翔体
ノールメルク公は謎の飛翔体を見上げていた。
巨大な鳥のようなそれは、何の前触れもなく自軍後方から現れると、悠々と上空を旋回し始めた。敵も味方もその姿に見入り、戦の手が止まる。
するとそれは旋回しながら徐々に高度を下げ、弓兵の射程に入るか入らないかといった境界線。そこで降下を止めた。
飛翔体をよく見ると、男……だろうか。人間が搭乗して操っていることが分かった。
次の瞬間。飛翔体からノールメルク軍本隊と輜重部隊の中間あたりに放たれたのは、颶風を纏った劫火。
その一撃は、平原に大量の土砂を巻き上げて巨大な窪地をつくる。
兵を配していない地点だったため幸いにも死傷者はいなかったが、あれをこちらに向けて放たれていたら――そんな想像をして、ノールメルク公はゴクリと生唾を飲み込んだ。
しばし呆けていたノールメルク公がようやく正気を取り戻したころ、その飛翔体はコペルニク侯爵の本営があると思しき地へ、悠々と舞い降りていった。
「なんじゃ、あれは!」
周囲の者にそう詰め寄るも、誰もその答えを持っていない。
突如として後方から現れ、自軍目掛けて威嚇攻撃を仕掛け、前方の敵軍本営に悠々と舞い降りる。どう贔屓目に見積もってもノールメルクの味方ではない。
コペルニクの新兵器か――ぼそりとそう漏らしたのは、ノールメルク公側近の初老の男、キッソ。
そのセリフに別の者が応じる。
「あんなのが何体もいたら到底敵わぬぞ……」
しんっ――と本営が静まり返る。
その刹那。
伝令――と大音声をあげて駆けこんできた若い騎兵に、皆がギョッとする。真面目に伝令の任を果たしただけの若者を皆が睨みつけた。
運のない憐れな若者は、それでも自分の任を果たすべくキッソに書状を掲げる。
「コペルニク側からです!」
ひったくるようにしてその書状を奪い取ったキッソは、一転して恭しくノールメルク公に差し出した。公は封蝋の施されたそれを乱暴に開封する。
親愛なるノールメルク公へ――。
そんな書き出しで始まる書状には、本日ここまでの戦の流れが正確に記され、すでに退路も塞いだことが付記されていた。加えて、嗾けられたドラゴンはまだ街道にあるうちに討伐したため領都への被害はなかったこと、それを隠蔽してさも被害があったかのように偽ったことを詫びる――そんなふざけた内容であった。
明らかにノールメルク公をおちょくっている。
今日の戦がすべてコペルニク侯爵の掌の上……だっただけでなく、それ以前のドラゴンを嗾けた策すら逆手に取られ、騙されていたのだ。
恥辱に塗れたノールメルク公の顔面はみるみるうちに紅潮し、危うくその書状を引き千切るところだった。すんでのところでそれを思いとどまった彼は、一転して脱力した手で抛るようにキッソに書状を投げつける。
完全に填められていた。ドラゴンを嗾けることすらも見破られていた――それを知ったときのキッソの衝撃は大きかった。
しかし何故――今日の戦のこと以上に、ドラゴンを嗾ける策を如何にして見破ったのか――そちらのほうが彼にとっては疑問であった。彼自身が立案したそれは、完璧なまでに看破されていたのだ。
まさかそれが異世界からやってきた梲が上がらない五十絡みの男が、前世でハマっていたマンガ知識から導き出した結果だったとは、想像だにできなかっただろう――というより、できようはずもなかった。
ある意味で彼は被害者だった。
ライホーというイレギュラーな存在さえなければ、今頃はドラゴンの襲撃を受けて混乱し、弱体化した領都コペルニクを悠々と攻略できていたはずなのだ。よしんばそこまで能わずとも、ノールメルクにとって有利な条件で講和に持ち込むことは可能だった。
少なくとも、ノールメルクにもっとも近いスーフォの宿場町までの統治権――そこまで得ることができれば、この戦における所期の目的は達するのだ。
ノールメルク公国とノール市国との間の小国――その小国の都にスーフォの宿場町から直接街道を敷設される可能性を完全に摘む――それがノールメルク公国長年の悲願だったのだから。
その悲願が遠退きつつある――そんな落胆した気持ちに全身を支配されつつも、突然キッソは気付いた。
そも、この書状は到底短時間で記された内容とは思えない。あの飛翔体がコペルニクの陣営へと降り立ってから、さほどときは経っていないのだ。
にもかかわらず、ご丁寧に封蝋まで施された書状がときを置かずに届けられた。この事実が意味するところは明白である。
この書状すらもあらかじめ準備されていた――ということ。
つまるところそれは、今日の戦がこの状態に至ることをコペルニク側は完全に想定していた――ということであった。
――あぁ、これは勝ち目がない。
主君同様、キッソの心は完全に折れてしまった。
□□□
勝ち目がない――。
だからといってそれは、やることがない――ということと同義ではない。
勝ち目がないならない中で、最善を求めて動かねばならない。それがノールメルク公の側近たるキッソの役割だった。
まずは主君の安全を確保しなければならない。
そのための方策はふたつ。
ひとつは包囲網を突破して落ち延びること。
そしてもうひとつは、降伏して身の安全を図ることだ。
前者は賭けとなる。
一歩間違えば乱戦の中で主君は命を落とすことになるかもしれない。
そして後者の場合は、莫大な身代金を要求されることになる。
一般に貴族階級の者は、虜囚となっても身代金さえ支払えば無事に解放されることが多い。そして解放されるまでの間も、その生活には一定の配慮がなされるのだ。
捕虜となれば奴隷身分に落とされて酷使される――あるいは売り払われる、そんな未来しか望めない一般兵からしてみればふざけた話だが、それが現実であった。
さて、どうしたものか――キッソは考える。
ここまで用意周到に準備してきた敵だ。
すでに逃げ道は塞がれ、さきの謎の飛翔体の件もある。あの飛翔体がほかにも存在するならば、とてもではないが逃げ切れるものではない。
降伏しかないか――と、そこまで考えた彼の思考に、怒りと怯えを孕んだ主君の声が飛び込んできた。
「おい、なにを呆けておる。早う退くぞ。準備をせぬか!」
そこには恐慌状態に陥った主君がいた。目を血走らせ、表情を醜く歪ませて。
攻勢には強いノールメルク公は、守勢に回ると極めて脆弱だった。
あぁ、こうなってしまうと
説得に応じる可能性が残されているのであれば別だが、その可能性はすでにない。そうである以上、時間が惜しい。落ち延びるのは悪手だと分かってはいても、もはや主君の断は下されたのだ。キッソはその方針に沿って動くしかなかった。
□□□
ノールメルク公は単に逃げようとしただけだ。深く考えての行動ではない。
――がそれは、キッソが深慮したが故に想定した、謎の飛翔体がほかにも存在するのでは――という誤った認識を、浅慮が故に回避することに繋がった。
神の視座から結果だけを見るならば、ノールメルク公の決断は決して悪いものではなかった。
ノールメルク軍に最後の包囲の蓋をしたサブリナ率いる部隊はたかだか三百五十。
死を決した精鋭部隊が公を落ち延びさせる――その目的だけに注力すれば、それは不可能なことではないのだ。
「されば、これより撤退戦に移る。前線の兵を呼び戻す
元々は自身の策が看破されていたが故の苦境。
この老体の命に代えて最後の御奉公をせねばなるまい――キッソは死を覚悟した。
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