第127話 順送り

 お師匠はかろうじて意識を留めていた。


 ……が、言ってみればただそれだけだった。


 裂かれた腹部からは臓腑が露わになり、その一部は損傷していた。

 悪くすると出血性ショックとかなんとかで、絶命していても不思議ではないほどの傷だが、今はイヨが残り少ない魔力を振り絞って治癒魔法をかけていることもあり、最悪の事態は回避できている。

 無論、イヨの治癒魔法の技量では快癒に持ち込むことは困難だが、それでも延命や痛み止めくらいにはなっているようで、お師匠は傷の割には穏やかな表情を浮かべていた。


 が――ここまでの状態になってしまえば、モーリーでも治せるとは思えない。ってか、いまだモーリーはアケフの治癒にかかりきり。お師匠に割く余力はないのだ。


「僕はもういいです……から…………それよりもお師匠を……」


 アケフが力のない声で懇願し、モーリーは困ったような表情を俺に向ける。

 今のアケフの状態では戦線復帰にはまだ足りない。もうしばらく治癒魔法をかけなければ、とてもではないがドラゴンと渡り合える状態にはならないだろう。


 どちらを治すべきか――モーリーは視線でそれを訊ねていた。



 トリアージ。

 前世では自分には縁遠い話だと思っていたそれは、今世ではごくごく身近に潜む難問である。

 一般的に日本では、重傷者を優先して治療すること――そして、より軽傷な者にはしばらく堪えてもらうこと――その優先順位を決めること。そんなニュアンスを持つ言葉だった。


 が、ときとしてその基準は覆る。

 そして、おそらくそのときの決断が一番重いものになるはずだ――前世の俺はぼんやりとそんなことを考えていた。まさか自分がその決断をくだす当事者になるなんて思いもしないで……。


 その決断とはつまり――助かる見込みがない重傷者の命を諦めること。



 今ここにドラゴンがいなければ――アケフにかけている治癒魔法を中断し、回復が見込めるか否かは別にしても、お師匠を治癒するという選択肢も採り得ただろう。

 が、この状況下でのその選択は、対ドラゴン戦の切り札を失うことと同義だ。ここでアケフを回復しなければ、全員がドラゴンの餌食となる可能性が高まる。いや、十中八九そうなるだろう。


 お師匠の命か、それともお師匠以外の全員の命か。ある意味でこれはトロッコ問題でもあるのだ。

 そして今、その架線切り替えレバーは俺の手に委ねられていた。



 逡巡する俺の耳朶に、しわがれ、か細く、それでいて恐ろしいほどに鋭い声が届く。


「ライホーッ!」


 それはお師匠から発せられたものだった。


「儂のことは……気にするな。なに、この傷じゃ。もはや回復は望めまい。それに……すでにお主の中では…………答えは出ておろう?素直に……それに従えばよい……」


 お師匠は途切れ途切れに語り終えると、これまでに見せたことのない柔和な瞳で俺を見詰める。


 あぁ、お師匠――そんな目で見ないでくれよ。言われなくたって、答えなんてとっくに出ているさ。出ているともよ。そりゃアケフだよ。それ以外に選択肢なんてないだろ?


 だが――、でも――、だって――、それでも――。


 ここでお師匠の命を諦める決断を――なんだって俺がくださなきゃなんねーんだ!?


「ふんっ!常に冷静に――現実的に――お主……常日頃の姿はどうした?」

「だって、だってよぅ、お師匠……」


 俺の目に映るお師匠の姿が滲みだす。

 前世もあわせれば五十四年ものときを生きてきた。そんなオッサンが恥ずかしいことこの上ないが、俺はガキのように泣き叫びたい心持ちになっていた。

 そんな俺に、同じく齢五十四のお師匠が諭すように語りかける。


「ライホーよ。人生はの、順送りなんじゃ。儂より先に……お主ら若いモンが逝くことなど…………あっていいわけがない。なぁに、気に病む必要はないぞ。お主らも儂の歳になれば……若いモンを庇って同じようにすればよいだけじゃ。今は…………儂の番だってことじゃよ……」


 俺の頬を涙が伝う。


 ――


 ――――


 ――――――


 ――――――――


 くそっ!なんだって……なんだってこんなとき、あの英国紳士は仕事をしてくれねーんだ?

 逆に考えてくれよ?俺にすんげぇ策を授けてくれよ!

 あぁ、ポンコツ神にだって跪くからさぁ。何とかしてくれよ……。



■■■■■



 ――ギッ!ぐはっ!!


 深い懊悩と逡巡の沼に囚われていた俺を現実へと引き戻したのは、キコの叫声だった。

 彼女はいま、ドラゴンとのタイマンという、常人には成し得ない難題をこなし、時間を稼いでくれている。そんな彼女のためにも、俺は俺が為すべき責任を果たさなければならない。


 「ライホーはアタシに代わってパーティーの指揮を!委細任せるから頼んだわよ!」この戦いの劈頭、彼女はそう言って駆け出して行ったのだ。


 俺は絞り出すように声を発する。

 それは自分でも驚くほどにか細く、そして小刻みに震えたものだった。


「モーリー、お前はそのままアケフを治してくれ……」

「ライホーさん!」


 アケフが抗議の声をあげるが、俺は黙殺する。そしてさらに冷酷な指示をくだす。


「イヨも……魔力を温存しろ。この先、何があるか分からないんだ。お師匠はもう――助からん」


 俺は、イヨが施していたお師匠の治癒も禁じたのだ。

 えっ?と聞き返し、思わず視線をあげたイヨだったが、苦悶に塗れた俺の表情を見ると、それ以上は何も言わず黙って従ってくれた。


「それでよい。ライホーよ……」


 イヨの治癒がなくなったことで痛みが増したのだろう。お師匠は顔を顰めていたが、それでも俺の判断を是としてくれた。

 おそらくは想像を絶する激しい痛みの中、お師匠はひとことひとこと丁寧に言葉を紡ぐ。


「アケフよ……決してライホーを恨んではならんぞ。これはお主らが助かる唯一の道。そしてそれが……儂の望みでもある。ライホーは自分が悪者になってでも…………それを叶えてくれたのじゃからの……」


 アケフは滂沱の涙でその頬を濡らし、イヨと同じく縋るような眼で俺を見詰める。


 多分――それでも――――俺ならば――――――と、最後の期待を寄せているのだろう。


 が、この傷は無理だ。

 あと数年もあればモーリーをその域に――今のお師匠の傷すら治せる領域にまで引き上げられる自信はあるが、今それは能わない。


「スマン。アケフ」


 俺は正面からアケフを見据えて心から詫びると、言葉を継ぐ。


「俺はこれからキコを助けに行かなきゃならない。アケフも回復次第、戦列に加わってくれ。回復したかどうかは――モーリーの判断に任せるよ。じゃ……頼んだぜ?」


 俺はそれだけを伝えるとお師匠と無言で視線を交わし、キコが待つ前線へと歩みを進めたのだった。

 そんな俺の背に、お師匠からしわがれた声がかかる。


 ライホー……お主は……死んではならんぞ――と。

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