6/20 Mon. 驚異の格差社会
梅雨の時期なのに雨がまったく降らないなぁ。
昼休み。今日も部室で昼飯を食ってる。長机を2個挟んだ先でパイプ椅子に座った内炭さんがいて、彼女はいつものように身体を窓の方に向けてる。手にスマホも文庫もない。ぼけーっと外を見てる。縁側で日光浴をする婆さんみたいだ。
なんとなく俺も窓の方に目を向けて、出てきたのがさっきの感想だ。空梅雨が続くと湿気に強い野菜が高騰し、乾燥に強い野菜が相対的に売れる。馴染み深いもので言えば前者がキュウリで、後者が俺の怨敵たるトマトだ。
キュウリは良い。塩を振るだけでも美味い。味噌を付けるとなお美味い。
それに比べてトマトのやつはダメだ。あいつべちゃっとしてるし。緑の部分がなんか気持ち悪いし。トマトソースとかは好きなんだけどなぁ。
「ねぇ」
パスタで一番好きなのはボロネーゼだし、ナポリタンも好きだ。オムライスもチキンライスを包む玉子にデミグラスソースじゃなくてケチャップを掛ける方が良い。トマト味にトマト味が足されて最強のトマトって感じになるしな。
「ねぇ」
あれ。こう考えてみると俺って実はトマトのことが好きなのでは。
「ねぇってば」
「もう! なんだよ! 俺はいまトマトと向き合ってるとこなんだよ! 思い込みの力でこの窮地に活路を見出そうとしてんだよ!」
弁当箱を見せ付けてやった。残るはプチトマト2つだけの状態だ。
「私、そんなよく分からないことで怒鳴られたの初めてなんだけど」
内炭さんは呆れ顔を見せながらも身体をこっちに向けて弁当箱からひょいひょいっとプチトマトを取ってくれた。
「これで邪魔者はいなくなった。話を聞かせて貰おうか」
内炭さんがもぐもぐしながらジト目を向けてくるけど気にしない。これはギブアンドテイクってやつだ。ビジネスライクに行こうぜ。
まもなく内炭さんはペットボトルの緑茶を呷ると、まっすぐ俺の目を見てきて、
「私の胸。どう思う?」
精一杯に胸を張って言ってくれた。
これ。初手から詰みじゃね?
まず会話がキャッチボールにならねえよ。だって俺が何を言ってもボールを受け取る気がないだろ。もしくは受け取ったボールを顔面にぶつけてくるだろ。
「怒らないから男子としての率直な意見を教えて欲しいの」
どこか切実な印象がある。一瞬だけ真面目に答えようかなと思ったが、セクハラだのなんだのと後で逆ギレされても困るしなぁ。
「今だけは私を女子とみなさなくていいわ。小さいとか、見る気にならないとか、本当に思ったままの感想を聞かせて欲しいの」
今の2種類の回答でいいじゃん。なんでわざわざ傷つきに来るかな。
「本当に言っていいのか?」
「お願いしてるのはこっちよ」
「じゃあ」
普段は一瞥もやらない内炭さんの胸部をじっと見てみる。うん、間違いない。
「どこが胸か分からん」
「……は?」
「どこが胸部かは分かる。腹と鎖骨の間だ。けど、どこがおっぱいかってなるとまじで分からん」
いや、ガチで。内炭さんは夏服のセーラーを着ていて、律儀にも左の胸ポケに生徒手帳を入れてるせいで実質的な膨らみが分かりづらい。胸部中央にあるリボンも視覚を惑わす要因の1つで、特に服が膨張色の白っていうのがいけない。なんか輪郭がぼやけて見えるんだよ。やや膨らんでるような、よく見ると服のしわのような。
それを説明してやると内炭さんは死んだ魚のような目で自分の胸に両手を添えた。
「ここよ」
あなたには守護霊が憑いていますと言われて無条件で信じられる人じゃないと頷くのは難しそうだ。まあ、そこにあると信じたい人を否定する気はない。
「そこだったのか」
「そうよ。それで率直な意見を聞きたいんだけど」
「そこだったのか」
「……もしかして。それが私の胸を見た感想なの?」
どうやら内炭さんは見積もってた以上に低い評価を受けてショックのようだ。俺としては頼まれたから仕方なくぶん殴った訳だが、なんか罪悪感があるから少しくらいはフォローしとくか。
「ほら、俺って
「……あぁ。
2組の相山優姫は俺らと同じ料理研のメンバーだ。小5で油野に告白してふられ、5つ上の姉に「おっぱいが大きくなれば男を落とすなんて簡単よ」と唆されてバストアップエクササイズに傾倒し、中3でDカップまで膨らんだから自信を持って卒業式に告ってみたら再びふられてしまったという哀れな子だ。
その優姫は今もFを目指して切磋琢磨してる。油野と水谷さんが付き合ったと知った時は泣いたそうだが、例の姉が「相手はCくらいなんでしょ。Fなら奪えるわ」と無責任に慰めたのが原因で修羅となってしまった。本当に哀れな子だ。
「そうね。相山さんくらい立派なら服のしわか膨らみかの識別なんか必要としないものね。遠目に見ても膨らんでるのが分かるものね。私と違って間違い探しをしなくてもいいものね。そんな人と幼馴染なら私の胸に気付けなくても仕方ないものね」
内炭さんの瞳から光が失われていく。これはまずい。
「別に油野が巨乳好きって訳じゃないんだし、気にしなくてよくね?」
Dの優姫がふられ、約Cの水谷さんはうまくいった。このことから油野は女子の胸に拘ってないと判断できる。仮に重要視するとしたら胸よか顔じゃないかね。
「今日、油野くんが
秒でフォローが無駄になった。あのバカ野郎! 気持ちは分かるぞ!
1年で胸の大きい女子の名前を順々に並べていくと、川辺さんは5番くらいになると思う。けど「1年で巨乳の女子と言えば?」と問われたら女子はともかく男子なら「川辺
理由は単純明快。目立つから。可愛いから。その上で山も谷もあるから。
「川辺さんは仕方なくないか。ぶっちゃけ俺も無意識に見ちゃってると思うぞ」
「……どう仕方ないのよ」
この感覚は女子だと分からん気がする。だから例え話を1つ。
「
「今日のラッキーカラーは黄色ですって聞いたら、普段は気にならない黄色いものが目に入ってくるってやつ? 確か頻度錯誤っていう認知バイアスよね」
「それそれ。いったん気にし始めると急にそれを頻繁に目にするようになる錯覚な。俺ら男子にとって川辺さんの巨乳がそれなんだ」
「……分かるような、分からないような」
「恋する前と後でその相手が目に入る頻度が違くなるってのも似たような原理」
「そう言われると分かるかも。4月は油野くんをあんまり見てない気がするけど、5月以降は毎日のように見てる気がするし」
こいつ。ストーカー行為をしてんじゃなかろうな。
「ちなみに内炭さんは油野を見かけるとどんな気持ちになるよ」
「そうね。温かい気持ちになるわ。今日も1日頑張ろうって感じ」
「要するに内炭さんにとって油野はラッキーアイテムというかシンボルな訳だな。それを意識してるから頻度錯誤が生じる。ついつい目に入っちゃうんだ」
「なるほど! 分かってきたかも!」
「そして俺ら男子にとって川辺さんの巨乳はラッキーシンボルな訳だ。それを意識してるから頻度錯誤が生じる。ついつい目に入っちゃうんだ」
「……なるほど?」
なんでここで引っかかるんだ。同じ文脈だろ。なるほど! って言えよ。
「大前提の確認をしたいんだけど」
「なんだね」
「男子は川辺さんの巨乳を見ると今日も1日頑張ろうって感じになるの?」
「正直、なるね」
「超美少女の彼女がいたとしても?」
「いたとしてもだね」
おっと。内炭さんが見たこともないくらいの仏頂面になったぞ。
「私、油野くんのことが好きなんだけど」
一発屋の芸人でもそろそろ一捻りくらいしてきそうなもんだが。
「知ってる」
「私ね、油野くんの笑顔を見ることができたら1週間は幸せでいられるの」
あいつ全然笑わないからな。稀少度合いで言えば四つ葉のクローバーを見つけるのと同じくらいか。幸運を感じるには悪くない条件かもしれないな。
「さっきの話を要約すると、私にとっての油野くんスマイルと、男子にとっての川辺さんの乳揺れが同じくらいの価値ってことになるんでしょ?」
バカ言ってんじゃねえよあの野郎のスマイルなんぞ0円でも高いわ川辺さんが目の前でジャンプしてくれるなら油野を含めた観覧者全員が1回につき100円払うっつーの一緒にすんなボケが。
「まあ、そうなるのかな」
本音と建前の使い分けって大事だよね。
「その男子の中に油野くんも含まれるんでしょ?」
「まあ、そうなるのかな」
「要するに彼女じゃなくても川辺さんは油野くんを幸せにできるってことでしょ?」
「まあ、そうなるのかな……」
内炭さんから負のオーラを感じる。テンプレ化した返事を続けるか悩むくらいだ。
「私、彼女以外の女子にも嫉妬しないといけないの?」
よし、無理だ。まあ、そうなるのかなって次も言ったら殴られる気がする。
「川辺さんは特別枠だから気にするな。恋のライバルにもならんだろうし」
「確かに。川辺さんも油野くんのことが好きってわけじゃないものね」
どうやら納得してくれたようだ。これにて一件落着。ということで俺はペットボトルのほうじ茶を飲み、内炭さんも緑茶を飲んだ。
「ところで碓氷くん」
まだあんのかよ。
「もうプチトマト2個分は話したと思う」
「そう。次からはもう手助け無用ってことね」
「……報酬の前払いってことでいいすか」
「いいすよ」
内炭さんはまたも自分の胸に手を添えた。胸だよね、そこ。
「私には2つの道があると思うの」
随分と壮大な展開になってきたな。
「巨乳を憎む道と、巨乳を赦す道よ」
思いのほかに病んでらっしゃる。しょうがない。最後まで付き合おう。
「憎む道を進む場合はどうなるんだ」
「今のままよ。特に何もしないわ。この驚異の格差社会に絶望しながら生きていく」
「既に憎むルートを邁進してましたか。なら赦す道を進む場合は?」
「軍門に降るわ。巨乳を憎むのではなく、尊び敬うの。相山さんにも頭を垂れて巨乳の何たるかを教えて貰って、ゆくゆくは油野くんの目を惹き付けてみせるわ」
「そかそか。前向きなのは良いことだ。俺はそっちの道を応援するよ」
「ありがとう。なら今日から育んでいくわね」
こうして内炭さんは優姫と共に修羅の道を歩むことになった。正直、内炭さんの将来に関してはどうでもいいが、好きな人のために何かしようって思えるのは素晴らしいことだし、実際に行動を起こそうとする気概があるのは羨ましくも思う。
「ところで内炭さん」
俺はスマホを触れながら声を掛けた。内炭さんは不思議そうに小首を傾げる。
「4月に友だち登録してから1回も使ってないLINEで画像を送ってもいい?」
「構わないけど。なんの?」
スマホの画面を向けてやる。そこに映るのは中学3年の油野圭介。修学旅行で泊まった熱海の民宿の早朝、浴衣をはだけて眠っているファン垂涎のレアショットだ。
内炭さんは食い入るようにスマホを見て、なぜか口元と鼻を隠した。
「いま、お財布に五千円しか入ってないんだけど」
真っ赤な顔でそんなことを言う。
「金はいらない。胸を敬うことにした内炭さんへの餞別だ」
送信。ピロリンって音が鳴ったら内炭さんが高速でスマホを取り出した。息を荒くして液晶画面を凝視する。
「あぁ。油野くんの胸、こんなふうなんだ。これは。元気が出るわね」
「これで内炭さんも油野を見かけるたびに目が胸に行くだろ」
「間違いないわね。なんかもう、川辺さんのことを完全に許せちゃうわ。だって胸を見ると幸せな気持ちになれるんだもの」
俺は見事に堕落した内炭さんに苦笑しながらも餞別をもう1個くれてやる。
「優姫が言うには食生活が大事らしいぞ。食の欧米化が進んだことで日本人女性の発育が顕著になったって話もあるそうだ」
「それ、聞いたことがあるかも」
ふふっと柔らかく笑って内炭さんは片手を左胸に添えた。
「私にも来るかしら。欧米化の波が」
ノーコメント。
ただ、祈ってはやる。
内炭さんの発展途上国に欧米化の兆しがあらんことを。
そして、この胸囲の格差社会から解放されることを。
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