rat rat ♯2

 初期開発区画の一角。小さな田園にある我が家に歩くサイモンはいつもの眩暈を覚えた。家の荒れた芝生は雑草と混じり玄関の石畳を汚している。ポケットの鍵を取り出すのも億劫だった。玄関前のポーチに置かれた揺り椅子に身を預け、深く息をつく。寝つくことのできない疲労感だ。まただ。家に帰るといつもこうなんだ。苛立ちはない。仕事の緊張の糸が切れ虚脱に襲われてしまう。

 暫く椅子に揺られていると、ふと家の中から足音を感じた。立ち上がり耳をそばだてる。人の気配。ペットがいるわけでもない。間違いなく人だ。

 不審な気配を感じながら恐る恐るサイモンは扉に手をかける。施錠したはずの木扉はきぃっと音を立て開いた。

 ゆっくりとだが、足音を主張しながらキッチンへと踏み入る。

「誰か……いるのか?」期待してない問いかけ。意外にも、それは返って来た。

「はい……あの、家主の方ですよね……」

 弱弱しい声音とともにキッチン台の陰から人が立ち上がった。少女だった。薄暗く明瞭としない姿でも分かる。

 照明に手をかけ灯りが投げかけられた彼女は、サイモンより一回りも小さい。ティーンエージャーというには顔立ちが大人びている。だが成人しているようにも思えない。

 赤髪の彼女はバツが悪そうに眼を泳がせている。重い無言の間をおいてから彼女は語り始めた。

「私、家がなくて、お金も……その……どこかいられる場所を探し歩いたら……人が住んでるように見なかったので……ごめんなさい」

「密航者か?」ボロボロのハンティングジャケット。汚れて穴の開いたパンツにサイモンは確信していた。

「はい……そうです」

「通報する。すまないが、ここは君がいていい場所じゃない」

 サイモンは電話台に歩み寄り、少女を見つめたまま受話器を耳に当てる。少女は反論する様子もない。困った風でもなく受け入れるように俯いていた。

 ボタンを押し緊急通報ダイヤルにコールを掛ける。応答はない。少し考え、電話は数年前に壊れていたことをいま思い出した。

 電話が壊れていることを悟らないように、受話器を耳にあてたままサイモンは問いかける。

「どこから来たんだ?」

「前は、セカンドフィールズコロニーで……そこで管理機構に追われて密航して、それも何回目か覚えてないぐらい」

「どうしてそんな危ないことを? 密航で捕まったら刑務コロニー行き、あまり良い噂は聞かないところだ」

「何処で産まれたかもよく覚えてなくて、住むところも追われる生活がずっと……」

「……」沈黙を守りながらサイモンは少女に目を向け続ける。話を聞く気持ちが途切れない。

「父が出稼ぎでどこかのコロニーに行った話だけは聞いていたから」

「……」よくある話だ。本当に。

「もし、父と会えるならって……少しの間でもいいんです。ここに……」

 サイモンは受話器を置き、タブレットデバイスを開く。緊急通報の入力をしようとした時。

 幼い少女の写真が画面に立ち現れる。十年間、時が止まっている愛娘の写真だった。

 娘の姿が目に焼き付いたまま、侵入者の少女を見つめてしまった。

 サイモンは息を呑む。手が言うことを聞かなくなっていた。たった一つボタンを押すだけだ。それだけのことが出来ない。液晶にかけた手が震えている。

 気がつくと、タブレットデバイスをしまい、眉間を抑える自分がいた。間違っている。けれど通報する気は失せてしまった。

「好きにしてくれ」

 サイモンはポケットの鍵を取り出し、少女へ投げ渡す。軽快にキャッチした彼女はようやく明るい口調になった。

「私はエメ。エメだけが私の名前」

「サイモンだ。サイモン・トゥール」

 それじゃあ、と告げサイモンは寝室へ向かう。やはり間違っている。扉に手をかけその言葉をまた反芻した。どうしても、それ以上の過ちを犯してしまう気がしただけだ。

「ありがとう、サイモン」

 背後の言葉に何も返さず、サイモンはクッションを敷き詰めただけの寝床に身を投げた。


 サイモンが延長したチタニウム構造体は、1ブロック毎に徐々に整地されている。

 少しずつ、わずかに、ほんの少し昨日よりも着実に、この世界は広がりを見せている。

 筒状の閉じられた世界の内縁は際限のない発展を続けている。

 隠された残酷さと凄惨さを孕み、太陽系の中、数え切れないコロニーでそれ以上に、数えきれない命をくべられながら。

 特急リニアに揺られ思うのは、この道からの逃避。また、幾たびとなくそれを思っても、自身の体は感情を伴わず揺られている。

 視界の端に映る黒衣の女性、列車の隅に俯き席に腰かけている。微かな違和感。言語化できない雰囲気も虚ろな列車の空気に流され、今日も消えて行く。

 健康監査ロボットに話しかけるのと同じ。いつも通りの日常に埋没してゆくのだろう。

「昨日の具合はどうだった?」いつものルーティン。ロボットに話しかける。

「いつもより事故は少なかったようです。たったの2件ですから。良い傾向でしょう」

 その言葉を聞いて安堵さえ覚える自分がいる。目の前のことだったはずなのに。

「あぁ、良いことだよ」

 その安堵に苦いものをかみ締めつつサイモンは鉛色の『肩』を軽く叩いてゲートを潜った。すぐ後ろから怒りに満ちた叫びが上がった。ロボットの発した警告アラームがトンネルに鳴り響いていた。これもいつものことだ。

 予定外の泊まり込みの仕事を終え、数日ぶりに帰路についたサイモンは、不安を覚えた。エメという少女が、家で何をしていたのか分からない。

 先日はくたびれた様子にも見えた。眠りについているだろうか。あるいは玄関を潜っても、もうそこに姿はないかもしれない。

 家の前に立ったサイモンは違和感を覚えた。いや、違う。いままでの我が家とは思えない光景に立ち尽くしたのだ。

 庭の芝生は見事に手入れされ、石畳から覗いていた雑草が一つも見えない。玄関先、窓もきれいに掃除されていた。

 気になってポーチの揺り椅子に腰かけると、滑らかな座り心地にふと気がつく。脚が擦れ歪んでいたそれが丁寧に直されていた。今まで感じ取れなかった微かな歪み。それらに感嘆の声が思わず漏れた。

 月光を司る人工陽月を瞳に捉えたのはいつぶりのことか分からない。

 椅子が一振り揺れる度、きぃきぃと音を立てる。一揺れの度にこれまで煩わしいとしか感じられなかった重力に心が休まる。

 鼻腔をくすぐる草木の微かな青い香り。野鳥たちの投げかける視線。それらの気配。管理機構に調整され人の暮らしに実感や安堵を与えている。

 抜けきらなかった疲れと眩暈が、治まってゆくのをサイモンは感じた。

 拭えない不安と押し寄せる安堵の波。揺り椅子に合わせ押しては引き、心へ忘れていた負荷をかけている。人と接するとき、心に現れる緊張の一線。喜びと安堵を与えることもあれば、怒りと悲しみを運んでくることもある。

 そわそわとする感情に駆られサイモンは玄関を抜けると、ダイニングキッチンに向かう。

 エメの後ろ姿。鼻歌混じりにキッチンをせわしなく歩き回る彼女。

 音を立てている鍋からは香辛料の香り。フライパンの上では油が跳ねる音。肉の焼ける甘さと香ばしさに舌先が濡れ喉を鳴らす。

 足音と気配に気づいた様子で、エメは振り返った。額で短く切りそろえた赤髪が微かに揺れる。

「おかえりなさい、サイモン」

 おかえりなさい。10年近く聞いていなかったその言葉に、サイモンは息が詰まる。何と声をかけていいのか迷った末、衝いて出た言葉は間違っていなかった。

「ただいま」

「うん……おかえりなさい」微笑み。それ以上の感情がこもった笑みだった。

「その、何をしているんだい?」

「何って、夕食の用意。サイモンが帰ってきたら食べてもらいたくて」

「別にそんなこと――」

「ううん、私がしたかっただけなの。部屋を覗かせて貰ったら簡易食が山積みだったから、まぁ、そういうこと」

「そうか」

 動揺しエメから目を背け暖炉を横切った時だ。立てかけられた見慣れないものに目が留まる。娘の写真。今まで埃を被っていたあどけない少女が微笑みを浮かべている。立ち尽くすサイモンに気がついたエメは、気まずく言葉を濁す。

「大事そうなものだったから……そこに置いたけど……よかった?」

 心に触れられた――

 言葉を失いたじろいだサイモンは、寝室へ逃げ込むしかなかった。

 そこでもサイモンは息を呑んだ。今まで寝室に据え付けていなかったベッドが置かれ、真っ白のシーツがかけられている。忘れていた姿見。汗に濡れ汚れ切った作業着が見窄らしい。衣装掛けも私服と一緒に綺麗に置かれていた。

 サイモンが失っていた。恐らく巧妙に隠していた。それが姿を現し見つめている。エメと名乗った少女の形を借りて。

 サイモンの心は荒波のように押し寄せる負荷に悲鳴を上げていた。カラカラと頭の中で何かが回る音が響いている。抗えない痛みが頭を駆け回っていた。

 部屋を出てダイニングに行けば、そこには受け入れがたい温もりが待っている。

 カトラリーを手に取り、笑顔を返す自分を想像して、喜びよりも息苦しさに心臓が跳ねる。

 全てを受けとり手にしてしまうことに、恐怖を感じる。気がつくとサイモンは、咳き込み吐き気を催すほどの簡易レーションを、胃に流し込んでいた。

 捨て去り拒絶する方が安心できてしまう。サイモンは汚れたシャツのままダイニングに戻る。エメは鍋の火加減に手を焼いている様子だった。

「仕事の連絡が入った。少し家を空けるよ」

「夕食の時間もないの?」

「すまない、簡単に済ませた。また好きにしてくれていい」

 帰って来た時には、姿を消していてくれ……いや、間違っている。間違った祈りを抱いている。それは分かっている。追い出す勇気もなく、受け取る強さもない。それだけだ。

 逃げ出すように家を後にしようとしたサイモンを、エメは呼び止める。

「少し待って……くれる?」

 下からサイモンを覗く瞳に、また愛娘の姿が過る。暖炉に立てかけた写真。混濁する二人の顔に断ることができなかった。

 サイモンが頷くと、エメは何か思い図ったようにおずおずと答える。

「……外で待ってて、すぐに行くから」

 温もりが怖い。我が家とは思えなくなったこの場所から逃げ出すのは簡単だ。一歩踏み出せば自然に足は止まることはないだろう。いままでのサイモンがそうだったように。

 でも、引き留めたエメの瞳がサイモンを玄関に縛り付ける。暫くして玄関に現れたエメは不安気だった。頷くだけで、もうそこにはいないかもしれない。そんな感情がすぐに読んで取れた。サイモンを見つけエメは少し恥ずかしそうに紙袋を差し出す。

「いってらっしゃい」


 行く先を考えずにサイモンは歩き出す。数ヵ月ぶりの休日。寝床で呆然と時が過ぎるのを待つだけの日。そこにいられない「いま」何処に向かえば良いのか分からない。サイモンはそわそわした感情に任せて、あてもなく歩き続ける。

 頬をなぜるのはそよぐ風。人工陽月が田園に微かな灯りを投げかける。あぜ道から見上げると円筒の空にせり出す摩天楼が、閉じられた宇宙で青い星のように輝いて見える。サイモンは気がつくと、自宅からほど近い放牧地にいた。

 放牧に出された馬たちを静かにサイモンは見つめている。いや逆だ。見つめられているのはサイモン自身。見知らぬ人影に気を張り、こちらを窺う馬の吐息。馬の餌を狙う野鳥たちも見つめている。木々の呼吸さえ聞こえそうな静寂の中に、サイモンという異物が紛れ込んでいる。

 仕事場でも同じだ。同調しない異物。憂さを晴らす集まりにも現れず、交友もなくなって久しい。同じなんだ。

 甲高く響き渡る口笛が、放牧地に張った緊張の糸を切った。不審な来訪者に背を向け、厩舎へと彼らは帰ってゆく。鮮やかな栗毛が、天空の光を受け夜闇に線を描いた。

 サイモンは紙袋を思い出し、投げ出そうか逡巡してから中身を覗く。丁寧にラッピングされたサンドイッチ。魔法瓶には温かい淹れたてのコーヒー。

 コーヒーで舌先を濡らしたサイモンは、咳き込み咽てしまう。

「こんな味だったかな」

 仕事柄、カフェインを取らないようになって随分と時が経っていた。苦みと酸味に少し戸惑う。けれど涼しい夜風が吹くいま、それらはとても相応しく思える。サンドイッチに手を伸ばし、一口頬張る。

 舌と歯から脳に伝わる感覚にくらくらする。ハムサンドの味を認識するのに数秒、受け入れるのにさらに数秒。

 心の水面に雫が落ち波紋が広がってゆく。パンを噛み締める度、小さい波紋は次第に広がりサイモンというグラスから零れ落ち行く。

 零れ落ちたものは澱みだ。この円筒世界で自己を保つために受け入れた鈍感。鈍感が生み出し心を濁らせていた汚れそのものだ。

 ふと目を上げると暗闇のなか無数の獣たちから向けられる視線に気がついた。その緊張を違和感なく受け入れられる自分自身に、サイモンは驚いた。

 自然。サイモンは歩き出す。ありがとう。そう伝えなければいけない。徐々に足音のリズムは早まる。サイモンは駆けていた。あぜ道の水たまりを踏み、泥が裾を汚した。

 軒先から勢いに任せ玄関へ駆け込む。心臓は早鐘を打ち息が上がっている。

 エメがそこにいる確信。あるいは願いでもある。彼女が姿を消す予感はもうなかった。

 サイモンは呼吸を整えずにダイニングへと向かう。カトラリーは置かれたまま。食事は綺麗に盛付けられ、主人の着席を待っている。まるで主人の帰りを知っていたように、エメは座っている。頬杖をつき逸らした横顔から悪戯っぽい微笑みを返した。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「どうだった?」

 サイモンの心を見透かすようにエメは問う。くだけた言葉に嫌な気はしなかった。それよりも伝えなければならない。躊躇や戸惑いはもうない。

「とても美味しかった……ありがとう。それも頂いていいかな?」

「うん、沢山あるから」

 席に着き抑えきれない感情に任せ、サイモンはカトラリーを手に取る。その重さも忘れていた。慣れない手つきで煮込まれた肉を頬張る。丁寧に焼いてから煮込み、工夫がこらされた味。喜びの感情が脳から全身に広がって支配する。品を保つ心持ちは失い、たがが外れたようにサイモンは貪った。

 感情に身を任せるサイモンをエメは見つめる。頬杖をついたまま浸るようで、年頃らしくない貴賓を感じさせる。その姿に心を奪われ、手を止め見つめた。

 数秒の見つめ合い。お互いに言葉があるわけでもない。何か確かめ合うような、心地よい緊張がある。

 サイモンとエメはうなずいて、微笑み合った。失われていたものの正体。言葉にしなくてもはっきり感じ取れる。自然とサイモンの瞳は潤んでいた。

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