rat rat

春葉節

rat rat ♯1

 自分の物語がはじまった日から今日までを数えた人間はいるわけもない。自分自身のことですらそうだ。サイモンにとっての最初の日はいつなのかという疑問に時折、彼は思いを馳せる。

 今日は何年、何月、何曜日なのだろう。幾たびとなく考えても、そんなことも今はもう分からなくなっている。その曖昧さ、虚ろさが自分自身だとサイモンは考えている。

 答えの出ない問もいつしかどうでも良くなっていた。

 サイモンはこのコロニーに来てから過ごした日を数えることに決めていた。だが頭の中でリフレインするのは仕事のことばかり。1000日を超えたころから、意味が見いだせなくなった。

 地球に置いて来た家族と再会する記念日のカウント。そのはずなのに。

 脳裏をかすめるのは宙の藻屑と消えた人々。彼らへ思いを馳せることの方が多い。

 でもこの頃はその名前さえも分からなくなってきている。

 サイモンの人生が目の前から零れて落ちていくようだった。

 吹き込んだデブリの雨に晒された彼女。真空中を伝わる切削音も悲鳴もないまま、鉄塊の豪風が吹きこんだ。

 サイモンは上半身と下半身を、それぞれ小脇に抱えざるを得なかった。無重の真空では彼女の体に重みはなかった。

 回収するのは決まってサイモンだ。誰もそんなことはやりたがらない。当然だ。

 一日の半分をメンテナンスに使っている与圧服を汚すのは、誰だって嫌なのだから。

 サイモンはそれを捨て置くのが後ろめたかった。何かそうしないと残された心の砦が崩れ去るように思えた。

 後ろめたい。それは違う。そんな思いも間違っている。十分な監督や整備の下に開発工事を進めていれば、事故は起きるはずがない。静かな怒りを言葉にするべきなのに。麻痺している。感情が。いや、すべてがだ。

 宇宙に漂う闇に少しずつ鈍らされ呑まれそうだ。引き千切れた心の綱を保っている。折り合いをつける言葉をサイモンは見つけられずに、時ばかりが過ぎて行った。

 それが分かっていても、シフトの時間が迫れば自然と髭を剃り、安物の携行食を鞄に詰め家を後にする。脳にあるべき倫理が、意識や感情と切り離されている。別のナニかが足を勝手に動かし、自分を駅へと誘う。

 労働者専用列車に乗ってしまえば、もう引き返せない。特急リニアは、終点の開発区画へサイモンを送り届けてしまう。毎日そうだ。降りたいと思う瞬間、もう選択肢は消えている。

 月日が経つにつれ、列車に揺られる時間が長くなっていった。自分が拡張した区画分、世界の果てが延長されているからだ。

 車窓、ガラス一枚の境界の向こう側。景色は整備が行き届き、綺麗がすぎる都市区画から田園に移ろう。次第に剥き出しで無機質な白さのチタニウム構造体が全てを支配する。コロニーの寄港地は遙遠い。

 あと何m、何km、この筒の地平を延長していけば、家族と会えるのだろう。年月、距離、死体、サイモンが一人で数えるには多過ぎる数字ばかり。

『構造体終点』に流れる機械音声のアナウンスが聞こえる。リニアモーターはゆるやかな振動音を立てプラットフォームに停車。一人、また一人と虚ろな人々が重い足取りで列車を降りてゆく。演出された昼の陽がチタニウムに反射し、遮るものもない中で、目を開けているのすら痛々しい。人々は虚ろな足取りを早め、暗い階段へと向かっていった。吸い込まれるように。あるいは逃げ込むように。


 プラットフォームから先は外縁部に繋がる階段とゴンドラのみ。一定距離ごとに健康監査ロボットが瞳を光らせている。

 2mの体躯に装甲パーツ。重い鉛色が潜るに連れ、トンネルの闇との境界線が消えて行く。

 彼らは錆びつき壊れかけた歯車のように働くサイモンたちを痛めつけることはない。酒が抜けてない、あるいはドラッグで酔った工員が時折いるから、備えているだけだ。

 葬列というにはどことなく綺麗過ぎる。戦争捕虜たちが歩かされているのに似ている。コツッコツッと歩む無数の足音のリズム。ふと、サイモンの足元にころころと酒瓶が転がり込んだ。それを踏みつける。一定の音階に一段高いガラスの異音。じゃりっじゃりっと耳障りな音が混ざり合い溶けて行った。

 それを無視してゲートでの所持物とスキャンチェックに向かう。サイモンはいつも通りロボットに声をかける「調子はどうだい」と。

 ロボットは一言「昨日は強制退職者が3名、事故が4件ありました」と答える。

「それは良かった。先週より暇だね」と彼の『肩』を叩いて、サイモンはゲートを抜けて行く。周囲の怪訝な視線もいつも通り。その一言を毎日交わすだけ。それだけで一日の始まりを感じられるのだ。

 レベル1セキュリティゲートを通り過ぎるときだ。女性が一人で佇んでいた。

 隊列に加わりゲートに向かうわけでもない。淀みのないトンネルの流れを虚ろな瞳に映している。そんな印象だった。

 特急リニアの上り便は20時間後か。頭に思い浮かんだ数字が、彼女の姿を隊列の彼方に押し消した。


 エアロック室内の減圧を確認するランプが点灯。もう空気は室内に存在しない。

 命綱の形状制御繊維を与圧服から張り巡らせ、無数の蜘蛛の糸を操るように重力変化に身構える。

 今まで床だったそれが扉として開け放たれる。同時に、急激な落下重力が襲いかかる。

 そして。今日もまたそうなった。

 視界の端から一人、無重へと零れ落ちてゆく。隔壁が開閉された瞬間のことだった。彼は形状制御繊維のコントロールを誤った。

 瞬間、宇宙空間の闇へ落ちて行く彼と視線が交錯する。

 サイモンは手の先から形状制御繊維を限界まで伸ばす。

 奏者の思考を反映、蜘蛛の糸は生き物のようにうねり、螺旋を巻いて掌を描き解き放たれる。

 無重に描かれたサイモンの掌は自分の心を掴もうとする。

 けれど姿勢を維持できる最長距離はとうに超えている。もう間に合わなかった。

 そしてサイモンは気がつく。

 自分の横にいたもう一人の作業員も宇宙空間へと落ちていくのを。

 サイモンと同時に形状制御繊維を伸ばした彼は、自らの姿勢コントロールを失ったのだ。

 転がり落ちるように遠のく彼。視線が交錯したように思えたが、それもサイモンには分からない。

 数秒とかからず無重の底へ落ちてゆく二人の姿は視認できなくなった。

 また一つ、心の中で言葉にできないものを喉に詰まらせため息をつく。

 周囲の作業員たちは何事もなかったように、既にカーゴの搬送を始めている。

 彼らもため息をついている。担当ノルマが増えてしまったと。


 酒とドラッグ。

 ここでは逃避が正常さを維持してくれる。

 そして逃避という階段を一歩ずつ降りて行った先に破滅が待っている。


 じゃりっと足元に割れたガラスの感触を覚えながら、ただ一人の同僚の傍らに腰かけた。

「今日は運のいい日だったよ。D18」

「何がですか?」

「エアロックの故障が直ってたし、外空間への移動事故も二人で済んだ。先週は1グループ丸ごと放り出されたからね」

「事故が少ないことがいいことなのですか?」

「ああ、そうだよ。事故が少ないってのはとても大事なことなんだ」

 開発エリアでの唯一の話し相手D18。仕事仲間のアシストボットを労わるのもサイモンの仕事だ。そう思うようにしている。小さな子供ぐらいの背丈の彼の関節を確かめてゆく。

 オイルが抜けた部分を見つけては丁寧に差し、サイモンは自分のルーティーンに没頭する。

 20時間の仕事が終われば待機所で他の工員たちはお互いに会話を交わす。円滑なコミュニケーション手段は酒とドラッグ。その支払いを決めようとカードに興じている。

 現場入りして間もない最初の頃はよく誘われ、酒ぐらいならと思ったこともあった。

 だが多くの工員が酩酊状態で現場入りしていることを知った。

 逃避の階段を下る人々。サイモンには迎えを待つ家族がいる。自然に身を引いた。ひと時の快楽は大したことではないはず。だがサイモンは自分を制する心に、自信が持てなかった。

 健康観察ロボットが導入されてからは、誤魔化すための透析まで行う手口を見て怖くなった。

 自然と話す相手もいなくなる。その頃からアシストボットのメンテナンスに精を出すようになった。

 知っている。現場でボット以外と会話を図らない自分が異常であることを。抑えがたい感情を誤魔化し生きていることを。

「たぶん、もうすぐお別れだな」

 少し照れくさい気持ちを抑えながら、手を休めず傷の有無を確かめてゆく。

「お別れとは、契約期間満了のことでしょうか?」

「10年勤めあげたら街で家族と店を構えようと思ってる」

「それは良いことです。ここはコロニーで最も汚れていますから」

 最後にD18の汚れを拭き取り、マイクロファイバーで丁寧に磨いて不意に口にする。

「ああ、本当に嫌な場所だ」

 周囲からの視線がサイモンの背中に向けられている。彼らだって分かっている。サイモンは自分たちを馬鹿にしているわけではない。真実を口にすることが歪んだ規律を乱しているだけだ。

 メンテナンスが終わりD18と挨拶を交わす。またね、と。帰路のゴンドラへと向かうとき、ガラスがまたじゃりっと鳴った。

 帰りのホームでは俯く女性が一人、ベンチに腰かけていた。人波に混ざることのない浮いた影。その影だけが平凡な毎日にないものだった。


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