第21話

 亜矢あやの超能力について説明する前に、ぼくはまず、亜矢に対して、音園おとぞの大小心こころという人物に関する説明をすることにした。筋道を立てて話すのであれば、こちらの話を先にするべきだと思ったのだ。

 音園という男は、ぼくを裏社会に引き込んだ張本人だ。ぼくとの関係性は、大学時代の先輩後輩というものになる。体感的には悪友、という感じなのだけれど、正しい関係性で言えばそうだ。

 当時の音園にとって、ぼくは無料で使える〝記憶媒体〟だった。生まれつき、ぼくは記憶力がいい。大抵のことはすぐに覚えられるし、一度意識的に記憶したものは、ほとんど忘れることがない。そこに音園は目を付けたのだ。

 とは言え、ぼくは音園から粗末な扱いを受けていたという自覚はない。音園はぼくをちょうほうしていたが、利用はしていなかったように思う。むしろ、自分と似たような〝才能〟の持ち主を、自分の世界に引きずり込もうとしていた節がある。だから当時のぼくたちは、本当にただのという関係性だった。お互いに尊重し合っていたように思う。

 一番最初にぼくがに手を染めたのは、音園に誘われてついていった、ぼくとは無関係のサークルの飲み会での出来事だった。

「なあひびき、お前って数字も全部覚えられる?」

 数字、とか、全部、とか、その定義が曖昧あいまいな状態では答えようがなかったので「わからない」と答えたが、音園はすぐに「じゃあ今から読み上げる数字、覚えてみてくれよ」と言った。そうして音園は、十九桁の数字を読み上げた。ぼくは言われた通り、その十九桁の数字を記憶した。その数字は今でも覚えている。出来れば忘れたいのだけれど、自発的に忘却することは出来ない。

「覚えたか?」

「覚えたけど……何の数字?」

「いや、覚えられたんならすげーよ。いつまで覚えてられるのか、賭けようぜ。そうだなぁ……明日の夕方、お前んち行っていいか? そんときまで覚えてたら、お前の勝ちな。夕飯奢るよ。あ、ちなみにメモはなしな」

 翌日、ぼくは学校帰りに音園と一緒に自宅へ向かった。自宅と言っても、当時は実家だった。家から通える場所に国立大学があったので、一人暮らしへの憧れもなかったぼくは、生まれ育った家で、子ども部屋で、継続的に暮らしていた。音園はぼくの両親とも良好な関係を築いていたので——大学に入るまで友達らしい友達がいなかったぼくにとって、音園は唯一、両親が認知している知り合いだ——週の半分は入り浸っているような状況だった。そのことに、両親も嫌な顔はしなかった。むしろ、大学生になってようやくの交友関係を持ったぼくを、両親はとても喜んでいたほどだ。

「なあ響、昨日のあれ覚えてるか?」

 言われてすぐ、ぼくは十九桁の数字を暗唱あんしょうした。音園はスマートフォンを操作しながらそれを聞いて、「うわすげー」と言った。答えをメモしたものでも見ているのかと思って彼のスマートフォンを覗いてみたが——ぼくの予想は、まったく違った。

 音園は、その数字を、何らかのサイトに入力していた。

 その数字は、だった。

 音園はご丁寧にも、カード裏面にあるセキュリティ番号もぼくに暗記させていたのだ。そして音園は、そのクレジットカードによって、何らかの利益を得たようだった。ぼくは実際のところ、犯罪に対してはさほど抵抗感がなかったが、それが原因で自分の立場が不利になるのではと思うと怖くなり、

「音園、そういうのはよくないよ」

 と、自分にしては珍しく、抵抗感を示した。

 しかし音園はすぐに、呆れたような視線をぼくに向けた。

「いやいや……俺もそこまで馬鹿じゃない。不正利用なんかしても即バレするのがオチだし、勝手に支払いしたら足が付くよな。クレカの不正利用は、。まあ、今回に関しては不正利用には違いないんだが——実際のところ、んだ。だから別に、俺は悪いことなんかしてない。お前もだぜ、響。俺らは別に、何も悪いことなんかしてないんだ」

 音園にスマートフォンの画面を見せられながら、ぼくは説明を受けた。音園は、そのクレジットカードで何かを買ったわけでもないし、電子マネーにチャージしたわけでもなかった。動画サイトの無料期間を利用するために、だった。そして音園はぼくの目の前で、その契約を。すぐに解除しても、一度契約さえしてしまえば、三ヶ月間は無料でそのサイトを利用出来るのだそうだ。つまり音園は——正確に言えば何かしらの法には触れるのだろうが——他者に不利益を発生させず、

「こんくらいならいいだろ? 俺はカードの写真を撮ったわけでもないし、その場でカード番号を入力したわけでもない。俺はただ、が誰のものか確認しようとして、持ち主の確認をするために——つまり、響の財布かと思って、その確認のためにだけだ。まあ実際には幹事の財布だとわかっていたし、なんで大学生のくせにクレカなんか持ってるかっつーと、会計用に親から借りたからだろうけどな——それはまあ、どうでもいい。とにかくお前は、俺が読み上げた数字を。で、俺は今こうして、お前の覚えていた数字の羅列を、。それしかしてない。試しに打ってみたらビンゴだったけど、怖くてすぐ解除したんだって言えば、言い訳も立つよな。まあでも、せっかくだし映画やらドラマは観るつもりだ。だけどとにかく、誰も損してない。だったら別に、いいじゃんな。ま、俺は賭けに負けたわけだから、お前に飯を奢らなきゃならないか。俺だけが損をするわけだな」

 言いくるめられているような気はしたけれど、少なくともぼくが訴えられることはなさそうだ。もし不正利用を疑われるようなことがあったとしても、それは音園だろう。音園のスマートフォンで、音園が使うアカウントで、それは利用されたのだから。ぼくは自分にそう言い聞かせて、この件を不問にした。

 そうした小さな犯罪めいたことは、在学中に何度も起こった。

 感覚的には犯罪に手を染めている自覚はなかったけれど——多分、そのほとんど全ては、立派な違法行為だったのだろうと思う。だけどぼくは一度も警察のお世話になったことはないし、罪悪感を抱くこともなかった。在学中に起こしたは、誰も損をしなかったからだ。

 むしろ、義賊的ですらあったと思う。

 まるっきり合法というわけでもないが、物理的に誰かを傷付けるとか、誰かを騙すとか、そういった直接的な悪事ではなかった。

 例えば、替え玉受験じみたこと。

 例えば、他人が打ち込んだパスワードを記憶し、誰かに教えること。

 例えば、物品Aを欲しがる誰かと、物品Aを所持する誰かを探し、その仲介に入り、手数料をもらうこと。

 ぼくという記憶媒体は、ただ記憶して、その情報を音園に伝えるだけだ。行動は音園が起こした。その行動も、決して非道なものではない。広く見れば誰かは損をしているのかもしれなかったが、広大な海に一滴の毒を混ぜるような、小さな悪事だった。その行為で世界は混乱しないし、誰も死んだりしない。ただちょっと悪いことをして、ほんの少しの利益を得る。そういう行為を繰り返した。

 そしてあっという間に、ぼくは気付けば、この世界に足を踏み入れていた。

 それでもぼくは未だに、自分のしていることが、犯罪だとは思っていない節がある。銃刀法違反は犯罪だ。申請を出していない改造車に乗っているのも、多分犯罪だろう。廃墟に忍び込むのも違法。薬物が入った『東京ばな奈』を持ち運ぶのも、法に触れている。しかしぼく自身に、犯罪を行っているという明確な意志はない。誰かを貶めたいという気持ちも、誰かを不幸にしてやろうという気持ちもない。

「誰も損なんかしてないんだから」

 というのが、音園がぼくによく言う台詞だった。そして実際に——誰も損などしていない。いや、やっぱり広義の意味で言えば、誰かは損をしているのだろう。動画サイトの件にしてみてもそうだ。カード番号を登録することで、その持ち主は損をしたかもしれない。動画サイトも損をしたかもしれない。替え玉受験をすることで、真面目に頑張った誰かが損をしたかもしれない。パスワードを盗まれたことで、誰かは損失を被ったのかもしれない。転売みたいな行為をすることで、誰かは儲け損ねたかもしれない。ぼくが薬物を運ぶことで、誰かが傷付いているのかもしれない。でも、ぼくの目の前で誰かが死ぬわけでもないし、誰かが負債を抱えるのをこの目で見るわけでもない。

 ぼくはこまだ。

 ただの歯車だ。

 空っぽの記憶媒体だ。

 ぼくに犯罪の意思はなく、悪意も存在しない。

 それを罪だと言うのなら、ほとんどの人間が罪を犯して生きている。普通に社会人としてどこかの企業に勤め、自社の利益を上げるために他社を蹴落とす仕事は——誰かを不幸にしている。誰かが損をする。競争原理が必ず働く。違いは、法に触れるか否か、だろう。だからと言って、全ての労働が遵法しているのかというと、そこには疑念の余地がある。これも音園がよく言う台詞だ。

「脱税して会社の利益を上げるのと、サービス残業させて会社の利益上げるのは、どこが違うんだ?」

 むしろ後者の方がよっぽど、直接的に誰かを損させているじゃないか——と、音園が言っていたことがある。

 言われてみると、確かにそんな気がする。音園はこういう説明が上手かった。

「例えばよ、本当は働けるのに生活保護もらって漫画描いてるやつがいるとするだろ。一方で、働きながら漫画描いてるやつもいるわな。前者は時間が好きに使えるから、いっぱい描いて、いっぱい宣伝するだろ。しかも好きに寝られるから健康だよな。後者は時間がない中なんとか描いて、なんとか発表するだろ。寝る間も惜しんで描いて、不健康にもなる。でも前者の方が人気が出るよな。それってズルくねえか? 真面目に働いてるやつが馬鹿みたいだよな」

「精神的な病気だっつって働かずに金もらって、辛い苦しい普通になりたいって言いながらインターネットでべらべら喋ってるやつがいる一方で、何の障害も持ってねえからって朝から晩まで働いて、辛くて辛くて連休明けに線路に飛び込むやつがいる。おかしくねえか。なんでまともに生まれたやつが苦労しねえといけねえんだ? なんで病気持って生まれたやつが得してんだ? こんなのただの運だろ? 逆だよな、普通」

「顔のいいやつがナンパしても合法らしいけど、不細工が声かけると事案なんだとさ。何がちげえの?」

「ゲーム配信とか、同人誌活動とかよ、他人のふんどし相撲すもうとってるやつが人気者になって、ゲーム作った会社だの、原作描いた漫画家だのはどんどん稼げなくなってるんだとさ。狂ってるよな。俺らがやってることと何が違うんだ? いや、俺らの方がよっぽどまともだと思わねえか?」

「煙草の増税ってよぉ、麻薬と何がちげえんだろうな。俺らはクスリ売って儲けるだろ。でもクスリは違法だよな。で、煙草はよ、合法だろ? その煙草の値段が毎年毎年上がるよな。やってることは一緒だよな。依存させて、少しずつ値段上げて、金巻き上げるんだぜ? で、それが合法かどうかって、勝手に政治家が決めるわけだろ。合法か違法かどうかより、道徳的かどうかの方が大切だと思わねえか」

「拳銃使って人脅すのとさ、違法だっつって人脅すの、何がちげえの?」

「税金納めねえと違法とか言うけどさ、税金を何に使ってるかって、嘘だらけじゃねえか。俺はそれがどう使われてるかっつー資料も見るんだけどよ、あれ嘘書いてあんだよな。計算が合わねえんだよ。で、どっかのお偉いさんがちょろまかした金ばら撒いて女買ったりしてるわけ。これって違法なんだけどよ、お偉いさんは頭下げるだけで捕まらねえんだよ。馬鹿らしいと思わねえ? それにさ、違法な金もらって儲けてるホストとかってなんで捕まらねえんだろうな。あんなの、資金洗浄だろ。ほんと、馬鹿らしくなるよな」

「漫画を撮ってSNSに上げてるやついるだろ。あれ違法だぜ」

「パパ活とか援助交際とかってさ、名前が緩い感じだけど違法だよな。違法なんだよ。個人間の問題だと思うだろ? 違うんだよな。大抵、ああいうことしてるやつらは贈与税に引っかかるんだよ。年間いくらって決まりがある。じゃあ俺が響に飯を奢るのは違法か? 違法じゃねえよな。ってことは五百万円の車買ってやるのは合法か? ……違法なんだよ。でも別に、誰も困りゃしねえよな。じゃあいいじゃねえか。みんながハッピーなら、需要と供給が成り立ってんなら、それで。むしろ法律の方が悪だぜ。なんだよ贈与税って。金が欲しいだけじゃねえか」

 音園はそんなふうに、いくつもの例を挙げて、ぼくの価値観を変えた。たまに、それは行き過ぎだと思うこともあったけれど——だからと言って、音園が真の悪人であるようには、ぼくは思えなかった。

 口車に乗せられてなのか、それとも最終的にぼくも音園の思想に賛同したからなのか——ぼくは大学を卒業した後、音園の口利きによって、今の会社に入った。そして、閏流うるうると出会い、五年近く——裏社会に身を置いている。

 音園は二年前、突然会社を辞めた。麗々瀬れれせ寧々ねねと出会い、法を遵守する生き方を選ぶのだと言った。もちろん、現状を考えればまだ、音園は完全には足を洗えていないのだけれど——それは最後の悪あがきなのだと、ぼくは考えていた。

「まあ結婚とかは、正直どうでもいいんだけどさ。一応、形っつーか、しておきたいわけよ。で、結婚って法だろ。結婚するってことは、法律に屈するわけじゃねえか。法の恩恵を受けようってやつが犯罪で金稼ぐってのもなんか変な気がしてさあ……まあだから、俺はこの仕事、辞めるわ。お前も辞めたくなったら言えよ、世話してやっから」

 無論、今も尚、音園はぼくにを世話出来るほど、一般社会に溶け込めていない。つい今朝方も、音園が暗躍しているという噂を聞いたくらいだ。ある程度の資産を積み上げてから、いよいよ足を洗うつもりなのだろう。言わば今、音園はフリーランスをしているわけだ。ぼくもそれなりに高給取りの自覚はあったが、あくまでも会社からの給料という形で支払われている。だから、いくら仕事を頑張っても、危険な取引の場に出ても、稼ぎが上がるわけではない。音園はそういう仕組みも嫌になったようで、且つ、遵法する側の人間になるために、足を洗った。

 だが、想像していたよりも、一般社会での報酬は美味くない。だから最後にもう一働きして、資産を形成してから——余裕のある生活を出来るだけ儲けてから、辞めるつもりであるらしい。

 一度でも犯罪に手を染めたら、人は真っ当にはなれないのか?

 そんなことはない。あり得ない。大小あれど、人は誰しも罪を犯して生きている。

 ならば、音園が今やっていることは、何もおかしなことではない。大きく罪を犯し、大きく稼ぎ、そのあとは遵法意識を持って生きる。心を入れ替える予定なのだそうだ。

 とにかく音園はそんな人間だ。

 改めて話してみると、音園はとても真っ当な人間とは言えない。でも、ぼくは音園のことが好きだ。

 彼は犯罪に対する意識が低いが、その一方で、筋道が通っている。

 不明瞭な法律よりも、音園の方が、よっぽど信頼出来ると、ぼくは思う。

 音園を説明するために、もうひとつ重要なことを言っておかないといけない。

 音園は天才的に、銃の扱いに長けている。彼には銃の才能がある。今の日本において、狙撃のスキルが何に役に立つのかというと微妙なところだが(実際、裏社会においては役に立つのだが)、あり得ないほど、考えられないほど、音園という男は、銃の名手だ。

 狙撃のスキルが高い、というだけではない。

 銃という道具の扱いに長けすぎている。

 拳銃であれ散弾銃であれ狙撃銃であれ、狙って撃つ、という行為に対し、恐ろしいまでのセンスを持っている。

 音園大小心は銃の名手である、というイメージを各方面に植え付けたのは、音園が二十四歳の時に行った大立ち回りだ。とある取引で、契約不履行が発生した。閏流と音園は、ふたりで相手先——いわゆる暴力団の事務所——に向かい、こうしたことは困るから、納めるものは納めてもらわないといけないよ、ということを言いに、じかだんぱんしに行った。

 当然、直接殴り込みに来たふたりは、歓迎などされない。

 大人数に囲まれ、契約不履行を不問にしろと脅された。

 そして音園は、その場にいた

 閏流と音園は無傷だった。無傷のまま、その場にいた全員を、。無力化したのだ。たった三十秒ほどで、十人以上の人間を、大人しくさせた。ぼくが音園から引き継いだグロックという名前の拳銃はそこで使われた。装填数は十七発。音園は、膝やら、肩やら、を的確に狙い、それを遂行した。、その銃口をトップの頭に突き付けた。

 音園風に言うなら、

「人数とか暴力で脅してきたやつらを撃って、何がわりいの?」

 といったところだろう。

 拳銃は違法、傷害も違法、存在自体が違法な音園だが——筋を通さなかった人間に対して筋を通しただけだと言われれば、ぼくは納得してしまう。

 その大立ち回りの最中、閏流はずっとソファに座っていたらしい。煙草を吸いながら。助太刀すけだちもせず、応援もせず、事が終わるのをただ待っていたのだそうだ。

 かくして音園は、裏社会にその名声をとどろかせた。音園を貸してくれ、音園をこちらに譲ってくれ、という依頼は殺到したらしい。ボディガードとして、あるいは単独で行動させるにおいて、音園ほど頼りになる人間はいない。抑止力として、あまりに適している。だが、閏流はそれを受け入れなかった。常に音園を自分の傍に置き、松野まつの市においての自身の地位を高めた。

 それが、音園大小心という人間の、ぼくが知るほとんど全てだ。

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