第16話

 ぼくは昼休みになってすぐに家に帰ることにした。やることがなかったというのもあるし、ルーチンワークであるという理由もさることながら、家の中に亜矢あやを残しておくのがものすごく不安だったからだ。もちろん、この不安は、ぼくの安全をおびやかす可能性がある——というところから来るものだろう。間違っても、ぼくが亜矢を心配しているという意味ではないことは、ぼくが一番よく理解していた。

 たまに、不用意に、こんな生活をしていて許されるのだろうか、と感じることがある。犯罪行為に手をめているからではなく、平日の昼間に仕事を終えて、あとは特にやることもなく体を休めるだけで金がもらえるという生活が、様々な人間から許されるのだろうか、ということだ。具体的な方法はわからないが、もしかしたら神様みたいなものがこの世にいて、天罰てんばつをぼくに下すんじゃないだろうか、という言いようのない不安だ。

 犯罪行為は、警察と司法がぼくに罰を下すだろう。あるいは、商売がたき。被害者かもしれないし、閏流うるうるがそうするかもしれない。対象がはっきりしているから、対応のしようがある。だが、そうではない漠然ばくぜんとした不安——ぼくのこの優雅で退屈な人生が誰かにばれたら、低所得で苦しんでいる人間はぼくを許さないだろう。働きながら夢を追っている人間は、怠惰たいだむさぼるぼくを許さないだろう。そうしたねたみやそねみの感情がかさなって、いつかぼくは神様みたいなものに罰を下されるのではないか——車を運転しながら、そんな非生産的なことを、ぼくは考えていた。

 考えたところで意味がなく、おびえたところでせんない話だが、ときどきぼくはそんなことを考える。自分の安全が保証されていていないことが不安だからだ。もしかすると、社長から妙な話を聞いたせいかもしれなかった。いつか必ず罰は下るんだ、という不安が、ぼくにそんな妄想に駆り立てる。

 アパートの駐車場に車を駐めて、なんとなく周囲に人がいないことを確認してからドアに鍵を差し込み解錠する。体をすべり込ませるようにして家に戻る。玄関に亜矢のローファーは存在していない。家を出るときに、僕が靴箱に入れたからだ。万が一、ぼくが不在の時に誰かが来てもすぐに気付かれないように、という思惑おもわくからだった。

 廊下をて、リビングに続くドアを開ける。亜矢の姿がすぐに目に入った。と同時に——面倒なことになったようだ、とぼくは気付いた。いや、時期が早まっただけだろうか。亜矢の超能力とやらの効き目や、そのこうしょうについてきちんと聞いておかなければならないと感じる。

「お帰りなさい」と亜矢が言う。「本当にお昼前に仕事終わるんだ?」

麗々瀬れれせだ……」ぼくは言う。「最悪だ」

「あー、この人? ね、ほんとタイミング悪かったね」

 亜矢はなんでもないように言う。

 亜矢はソファに座っていた。今朝、朝食を食べた時と同じ位置に座って、テレビを見ていたようだ。そしてその隣に——女性がいる。体を丸めて、眠りこけていた。麗々瀬寧々ねねという名前の、ぼくの知り合いだった。土曜日になったら、亜矢を彼女の家にかくまおうとしていたのに——どうしてこんなに都合悪く、麗々瀬がここにいるんだろう。

「何があったか聞きたい」

「だろうねえ」亜矢はのんびりと答える。「何から聞く?」

「君の超能力? とやらが、どのくらい他人に対して効き目があって、それに後遺症があるのかどうかということから」

「相変わらず保守的だなぁ」亜矢は笑いながら言って、ローテーブルのリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を落とした。「私は何もしていなくて、この人が勝手に寝ちゃってるという可能性は?」

「絶対に有り得ない」

ひびきにしては断定的」

「超能力で起こせるのか? 起こして、亜矢がここにいたことを綺麗さっぱり忘れる、とか」

「どうだろ? そんなことやったことないし。でもまあ、自然に起きるのを待った方が良いかも」

「多分、麗々瀬は今日仕事を休んでいて、ぼくの家に合鍵を使って押し入った。玄関に靴はなく、つまり誰かがいる可能性すら考えなかったはずだ。亜矢はテレビでも見ていたのか、何もしていなかったのか分からないけど、玄関が開いた音で誰かが来たのを察知さっちした。で、リビングに入ってきた麗々瀬に対して、バレないように死角しかくから超能力を使った。そして今、麗々瀬は昏睡こんすい状態におちいっている」

 ぼくが状況分析ぶんせきを口にすると、亜矢は「うーん、ほぼ正解?」と言う。

「ほぼ」

「最近色々あってゆっくり休めてなかったし、昨日は一応、気をつかって短めに済ませたけど、やっぱり長風呂したいなーって気分だったから、響が出てすぐ勝手にお湯をためてお風呂に浸かってたのね。二時間くらい。で、流石に汚れた制服に着替えるのも嫌だったし、脱いだパジャマそのまま着て、髪の毛乾かすためにエアコン付けてテレビ見てたの。そしたらこの人が入ってきて、『私のパジャマ!』って言って怒鳴り始めたから、眠ってもらったの」

「ああ、最悪に輪を掛けて最悪だ」

「この人、響の彼女?」

「……いや、彼女ではない」

 正確に言えば、一瞬そうした関係だったこともある。が、現時点の最新情報で言えば、彼女は音園おとぞのの交際相手だ。いや……より正確に言えば、音園と別れた麗々瀬が一時の気の迷いでぼくの家に入り浸っていたが、すぐに音園とよりを戻したので、恋人関係だったかも疑わしい。

「にしては結構な怒りっぷりだったよ。簡単に操作出来るくらい」

「感情の量によって操作が楽になる、というわけだ」

「かも。今なら響も操れたりして」

 亜矢はふざけているのか、両手をぼくに突き出し、マジシャンがやるように指先を動かした。あるいはゾンビの真似事か。

「ぼくが心配しているのは、君と麗々瀬が険悪けんあくな関係になったということが麗々瀬の記憶に残って、君を彼女の家に預けるという予定がおじゃんになること」

「おじゃん?」

「パーになること」

「なくなるってことね」と、亜矢は古い言葉に対する突っ込みもなく言って、「流石の私も記憶を消すってのは難しいけど、ことは出来るかな」と続ける。「それこそ、昨日の取引相手の人? にしたみたいに。私のことはもう気にしなくなる」

「それじゃあ君を匿ってもらえないだろ」

「あるいは元々超仲良しだと錯覚さっかくさせる、とか? まあ大丈夫、やりようはいくらでもあるよ。響と違って、感情の起伏きふくが激しい人みたいだし」

 褒め言葉ではないだろうから、実際、相当な暴れようだったのだろう。

「で、効き目と後遺症は」

「私も人に対して意図的に能力を振り回すようになって日が浅いので、正確なところはさっぱりですね」と、亜矢はわざと敬語で言って、てのひらを天井に向ける。「でも、記憶障害とか、そういうことは起こらないはず。物理的なダメージもないし、脳の機能を破壊したわけでもないからね」

「超能力者に物理をかれてもな」

「まーでも、響が嫌ならこの人にはもうしない。響もちゃんと説明してくれるんでしょ? だったら、私も誠心誠意せいしんせいい謝る。謝って理解してくれるような人なんでしょ?」

「……まあ、事情を話せば」

 それが一番良い着地点だろう、とぼくは考える。ぼくに危険もなく、麗々瀬も無事で、亜矢に被害も及ばない——ただの勘違いで済んだのなら、そこが落とし所だろう。

「さて。洗濯したり、部屋着買ったりしたいんだけど……この人放置ってわけにも行かないし、どうしよっか。三人で行く? 寝かせたままで」

「流石に寝かせたまま車移動というのはまずいかな。途中で起きたら面倒なことになる」

「だね、近場じゃないと。じゃあ響がひとりで買ってきてくれる? ユニクロとかでいいんだけど」

「女性物はわからない」

「制服洗いたいって思ってたけど、よく考えたらコインランドリーって結構時間掛かるよね? 使ったことないからわからないんだけど、冷静に考えると普通に洗濯する間待ってなきゃだもんね。かと言ってお店にも出せないし……この際洗濯機買わない? あ、あと響の家ってアイロンないよね。アイロン買わなきゃ」

 亜矢は何日も着ているであろう制服のあちこちを触りながら、汚れを気にしている——素振りを見せている。他人の感情などわからないぼくでも、亜矢が何を画策かくさくしているのかはわかった。ぼくは腕組みをして、考える。この子は相当に頭が良いのだ、ということが理解出来てきた。昨日の時点でもそれなりに理解していたつもりだったが、誘導力というか、なんと言うか——多分、ボードゲームなんかが上手いタイプなんだろうと思う。

 人を詰ませるのが上手い。

「わかった、麗々瀬の家に行こう」

「あ、わかってくれた」亜矢は嬉しそうに言って、素直な笑顔を見せる。「車の鍵は持ってなさそうだったし、Suicaの利用履歴もなかったから、この人の家、徒歩圏内けんないだろうなーと思ってたんだよね」

「かと言って、流石に麗々瀬を負ぶっていくわけにも行かないからな。車で行って、近くのコインパーキングに駐めよう」

「だね。さ、そうと決まれば行動しよう。ついでにどこかでお昼も買って行きたいなー、お腹空いちゃった」

 そう言うと、亜矢は着ていたパジャマを脱ぎ始める。僕は腕組みをしたままそれを眺めていたが、流石に見ない方が良いのだろうな、と判断して、「ぼくも一回着替える」と言ってリビングを出て行くことにした。亜矢に気をつかったわけではなく、彼女が着替えている間に麗々瀬が目を覚ましたら、自分の立場が危うくなるだろう、という不安に対する反応だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る