第15話

 定刻通りに会社に向かい、自席でスケジュールを確認する振りをしようとしたが、すぐに社長室のドアが開き、お飾りの社長が「伊地知いじちくん、ちょっと」と声を掛けてきた。ぼくの働いている会社はもちろん、本部長という肩書きを持つ閏流うるうる雨竜うりゅうが実権を握っているのだが、お飾りとは言え社長の座についているこの男——沢村さわむらという名前だが、当然偽名だ——も、裏社会に通じている。というか、利用されているという方が正しいか。

「はい、すぐ行きます」

「うん。あ、昨日の件ね……」

 もちろん、昨晩回収した金の受け渡しだった。ぼくはスーツに触れ、内ポケットに代金が入っていることを確かめる。社長は主に、麻薬取引で回収した現金を洗浄する役割を担っている。というか、担わされている。昔は個人で悪いことをしていたようで、閏流に目を付けられ、下に着くことになったのだそうだ。もっとも、表向きはIT関係の職場に人材派遣をしている会社の社長でいられるのだから、待遇としては悪くないはずだ。役員報酬もそれなりに受け取っていることだろう。閏流はこのように、犯罪に加担させる人間に対し、かなりの飴を与える傾向にある。悪事に手を染めていると分かっていながらも、その環境から抜け出せないように、あえて甘やかす。ぼくだってそうだ。大した労働もしていないのに十分すぎる報酬を受け取っているから、抜け出せない。抜けだそうとも思っていないけれど。

「失礼します」

 社長室のドアをノックし、返事を待ってから入出する。一応、経理のおばちゃんの目を気にしての行動だ。あくまでも、普通の会社。社長室の中で、まさにこれから資金洗浄が行われるだなどと、おばちゃんは想像もしないはずだ。

「ああ、昨日はご苦労様。それで、その……上手く行った? 何も問題はなかった?」

 相変わらず、腰の低い社長だった。もっとも彼は、言い方は悪いが粗末な軽犯罪ばかりを繰り返すタイプの男なので、閏流やぼくのように、拳銃を扱ったり殺人に関与するようなタイプではない。つまり、ぼくらのことを本能的に怖れているように思う。

「特に問題はありませんでした」ぼくはあからさまな嘘をついた。が、見方を変えれば、取引自体は上手く行ったのだから、問題なしとしても嘘ではない。「金額も、過不足なく」

 ぼくはスーツの内ポケットから茶封筒を取り出し、社長の机に置いた。社長はすぐにその中身を検め、「うん、確かに。ご苦労様でした」と言って、背後にある金庫にそのまま納める。この後、この金は少しずつ洗浄される。洗浄方法は多岐にわたるのでぼくも全ては把握していないが、まずは社長のポケットマネーと交換され、社長が少しずつATMを通じて入出金を繰り返したり、居酒屋の支払いに利用する。両替をする場合もある。海外の犯罪映画のように、大掛かりな洗浄ではない。松野市の中で完結するような、小さくて小まめな洗浄を繰り返す。もちろん、そもそも通し番号を控えられているという可能性は少ないのだが——今のところ、その方法を採ることで洗浄出来ている。架空の銀行口座もなければ、架空の会社も存在しない。百パーセントの嘘はバレるが、真実の中に混ぜ込まれた三割程度の虚構は、誰も相手にしようとしない。

「そう言えば、今日は閏流さんは?」

「ああ、遅れて来るらしいよ。まあ今日は花金だし、ゆっくり来て、夜からまた大騒ぎなんじゃないかな」社長は困ったような笑顔を浮かべる。これは閏流に対する苦笑というよりは、自身が裏社会の会合に顔を出すことへの苦悩だろう。「伊地知くんは、今日は?」

「特に指示は受けてませんね」

「じゃあ、今日はおしまいかな。いつも通り、昼頃までアリバイ作りをしたら、適当に外回りしてくれれば良いから」

「わかりました」

 アリバイ作り、と言っても、これは隠語でもなんでもなく、経理のおばちゃんに怪しまれないためにデスクワークをしていろ、という意味だった。いくら営業という肩書きをもらっているとは言え、そう毎日外回りばかりしているわけにも行かない。顧客に対してメールを打っている振りをしたり、スケジュールを立てる振りをしたり、スマートフォンにアラームをセットして、存在しない顧客からの電話を受けたりする振りを繰り返す。実際の仕事——表向きの仕事の方だが——は、閏流が繋がっている会社から自動的に割り振られる。そう考えると、ぼくは社長以上にお飾りの存在なのかもしれない。もちろん、それで傷付けられるような自尊心を、ぼくは持っていないのだけれど。

「それじゃあ……失礼して、仕事に戻りますね」

「うん。あ、そうだった。閏流さんから昨日、変なことを聞いてね」と、社長は執務室に戻ろうとするぼくを引き留める。「音園おとぞのくん、覚えてるよね?」

「音園先輩ですか? ええ、はい。もちろん覚えてます」

 嫌な予感がした。ぼくが嫌な予感を覚えるときは、大抵自分の立場が危うくなるときだ。つまり、後ろめたさがあり、将来的に自分が不利になるという根拠があった。

「きみたち、仲良かっただろう? 優秀な人材だったから、音園くんがここを抜けちゃったのは今でももったいなかったなぁ……と思ってるんだけど。まあとにかく、閏流さんがね、裏で音園くんみたいな人の話を聞いたって言ってて。何か知らないか? ってさ」

「裏、ですか」

 裏、というのはそのもの、裏社会のことだ。つまり——全てを清算して、抜けられないはずの裏社会から足を洗ったはずの音園が、また裏社会で働いているのではないか、という疑問だろう。無論、そんなことは許されるはずがない。普通の生活に戻ると言って、数々の誓約書にサインし、違約金を納め、長期間の監視を経てようやく一般人に戻ったはずの音園が裏社会で暗躍しているのだとしたら——それは裏切りであり、処罰の対象となる。

「うん。きみたち、プライベートでも仲が良かったから、何か知ってるんじゃないかな、と思って」

 昨日の夜もそれなりに脳を働かせたつもりだったが、それ以上に、ぼくの脳は回転していた。なんと答えるべきか。どう答えるのがベストか。音園とはもう会っていません——というのは、嘘だ。彼は週に一度は家に来ている。ぼくがスマートフォンを持っていないから連絡手段はないけれど、もし持っていたとしても音園は連絡せずに家に来るだろう。頻繁に会ってはいるけれど、そんな話は聞いたことがない——と答えるのが、この場合はベストだろうか? 自分を守るために、自分を危険から遠ざけるために、どちらにつくべきなのだろう。

 

 音園を売るか、閏流に楯突くか——二つに一つだ。

「——そうなんですか? いや、正直、音園先輩とは今でもかなり親しくしていてよく会ってるんですけど……ほんと、ただの仲の良い先輩後輩という感じなので、仕事の話とかはしませんね。正直、今どういう方法で稼いでいるのかも、知らないくらいで」

 ……この辺が妥当な着地点だろう、と判断した。音園を売るわけでもなく、明確な嘘もついていない。実際、仕事の話はほとんどしないし、ぼく自身、裏社会の話を音園とするなと、閏流にはキツく言われている。それを知っているから、音園もぼくの近況についてはとやかく尋ねてこない。それに、音園の資金源を知らないのも事実だ。、ということは知っていても、具体的な内容については知らされていない。

「そうか。まあ、閏流さんも確信がある様子じゃなかったからね。ただ、ものすごい名手が現れたって言うから、ちょっと思い出したくらいだったよ」

 鎌を掛けた——わけではないだろうが、それなりにぼくから情報を引き出そうとしている口調だった。無論、今の回答で疑われた様子はない。だが、閏流や社長が疑うのも無理はないかもしれない。銃社会ではないどころか、銃自体に触れないまま死んでいく人間の方が圧倒的に多いこの日本において、なんてものが裏社会にそうぽんぽんと現れるはずもないのだから。

「名手、ですか。確かに、音園先輩を疑っちゃいますね」

「でしょう? むしろ、音園くんならいいなぁ、なんて言ってたよ、閏流さん。素性が分からないプレイヤーが急に現れたってなれば、こちらとしても驚異だもんねぇ」

「確かにそうですね。それこそ、音園先輩に戻って来てもらわないと困りますね」

「本当にね。抑止力っていうのは大事だよ、この界隈じゃあ」

 社長の口調から、会話の終わりを察知する。「仰る通りですね。音園先輩から何か聞いたら、共有します」と、それらしきことを告げ、ぼくは社長室を後にする。執務室に戻ると、経理のおばちゃんは呑気にスマートフォンをいじっていた。ぼくに気付いても軽く目配せするだけで、それをやめようとはしない。多分、暇なんだろう。実際、毎日勘定しなければならない支出はそうは発生しないのだから当然だが。

 ぼくは自席に座り、スケジュールを確認する振りを開始する。昼休憩時に会社を出るとして、あと二時間近くアリバイ作りをする必要があった。職場でやることがないというのも考え物だ。時間があまりに長く感じられてよくない。特に、自宅に危険な少女を匿っている状況であれば、尚更だった。

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