第14話

 ぼくの家にはドライヤーがなかったので、亜矢あやは苦肉の策でエアコンの送風を利用して髪の毛を乾かしていたが、それ以外には特に目立った会話はなく、ぼくは二十三時頃には就寝することになった。亜矢の方も、「起きてても別にすることないし」という理由で、素直に就寝することになった。ぼくはベッドで、亜矢はソファで。

 翌朝、七時頃に目覚めて、顔を洗ってリビングに向かう。亜矢はまだ寝ていて、ソファに置かれたクッションの上に未使用のバスタオルを巻いて、ソファに掛かっていたブランケットを掛け布団代わりにし、眠っていた。ローテーブルの上には、夜間に点検でもしたのか、亜矢の私物が広がっている。札束に、他人から盗んだスマートフォン、ペンケース、ノートが一冊、財布、ハンドクリーム、小さなポーチ。中身をあらためる気もなかったので気にしていなかったけれど、随分と持ち物が少ない様子だった。

 普段であれば八時頃までテレビでニュースを見て、通勤がてらコンビニに寄って朝食を買うのだけれど、今朝は自炊することにした。亜矢が勝手に外に出て行くのも困るし、とにかく会話をしておく必要がある。冷蔵庫から卵を取り出して、目玉焼きを作ることにした。食パンも在庫があったので、これも焼く。チューブ型のバターがあるので、ある程度は朝食の体裁ていさいたもてるはずだった。飲み物はインスタントコーヒーくらいしかないが、まあないよりはマシだろう。

 同じ空間で物音を立てているせいか、調理を始めてすぐに、亜矢が目を覚ます。

「ん……おはよう」

「おはよう」キッチン越しに挨拶をする。

「顔洗います」

 ローテーブルからポーチを掴んで、亜矢がリビングから出て行く。フライパンに少量の水を入れて、蓋をした。目玉焼きを蒸している間に、食パンを二枚取り出して、トースターに並べる。女子高生の食欲の平均値はわからないが、足りなければ勝手に食べてもらえばいい。

 それなりの時間を掛けて——具体的には、朝食の準備が整ってしまうくらいの時間を掛けて——亜矢はまたリビングに戻ってきた。他人の変化には疎いぼくだが、それでも、ある程度顔を作ってきたらしいことはわかった。身嗜みだしなみというか、彼女なりのルーチンなのだろう。ローテーブルの上に皿を並べて、コーヒーやら、塩やら、バターなりを並べる。

「ありがとうございます」と、腑抜けた様子で亜矢が言う。「すみません……」

「なんだか昨日に比べてダウナーだね」

「朝は、あんまり強くないので」言いながら、亜矢はぼくが勝手に端においやった私物を鞄の中に詰める。「朝食、ありがとうございます」

「あと三十分もしたら、ぼくは仕事に出るから」

 ぼくがソファに座ってテレビのリモコンを手に取ると、亜矢は何故か床に正座をして、コーヒーのカップに手を伸ばした。

「なんで床?」

「え? ああ……え? 隣に座れって言ってる?」

「いや、座れとは言ってないけど……なんでわざわざ床なんだろう、とは思ってる」

「ああ——そう、そうだった。響はそういう人だった」

 どういう人なんだろうかと聞きたくもなったが、聞いても聞かなくてもあまり結果に変わりはないような気がしたので、無視することにした。距離を置いて、ぼくと亜矢はソファに座り、見るともなく朝のニュースを眺める。また赤坂医院に関するニュースを目にするのではないかと思ったが、その手の報道はなかった。ぼくが起こした麻薬取引に関するニュースも、当然、映らない。人気アイドルグループの新曲が発表され、センターが新人に変わったという、どうでもいいようなニュースを大々的に報じていた。平和だ。

「響は何の仕事してるの?」テレビを見たまま、亜矢が問う。「二足の草鞋わらじ?」

「いや……基本的には裏の仕事しかしてない。でも、同じ会社に上司もいるから、その人に指示を受けるために毎朝出勤してる」

「リモートで良くない? ……って、この家、Wi-Fiもないか」

「Wi-Fiはある」

「あるんだ!? スマホ持ってないのに? ……あ、パソコンはあるとか」

「パソコンもないけど、人が来た時に使うのと、先輩がゲームをするために、回線は通してある」

「はー……本当に、自分ならではの生き方ってのがないんだ。これ、バカにしてるわけじゃなくて」

「別にどっちでもいいよ」

「まー……私のスマホも短い命だし、今のご時世、それっぽい検索しただけで怪しまれるかもしれないし——ネットは使わない方が良いかな。隠密行動するなら、今も昔もアナログなやり方が一番だしね」

「そういうもんか?」

 自分で言っておいて、すぐに、「そういうもんだな」と自己完結した。実際——ぼくらが行う取引や殺しは、ほとんどがアナログなやり方に頼っている。アナログ……と呼ぶべきなのかは定かではないけれど、とにかく、証拠は出来るだけ残さないように努めている。だからこそ、ぼくのような人間が重宝されているわけで、特に大した技術もないのに、記憶力が良いという一点を評価されて——あるいは、自我がない人形みたいな性格を利用されて——生かされている。

「何時に帰ってくる?」

「何もなければ、昼前には一度戻ってくる。で、本当に何もなければ、昼前に帰ってきたら、あとはずーっと家にいる」

「働いてないじゃん」

「毎日麻薬の取引があるわけじゃないし、毎日誘拐の依頼があるわけじゃない。暇な時は暇なんだよ。まあでも、今日は回収した金の受け渡しがあるから、多少は時間が掛かるかもしれないな。昼頃に帰ってくるんじゃないか」

「んー、わかった。じゃあ、家で待ってる。帰ってきたらさ、車出してくれない? 買い物したいんだよね。それに、勝手にコインランドリーに行ったら、響も困るでしょ」

「別に」

「私が下着も身につけずにコインランドリーにいて怪しい人たちに捕まって、伊地知響という男に全部喋っちゃいました、って言ったら響も困るでしょ」

「そもそも亜矢は捕まらないだろ、怪しい人たちに」

「まーそれはそう」亜矢は素直に認めてから、「でも、一対一とか、複数人相手くらいなら私は無敵かもしれないけど、善意の第三者に対しては無力なんだよ」と言う。

「まあわかった。徒歩じゃ行動範囲も限られるし……ぼくとしても、帰ってくるまで大人しくしていてもらった方が都合が良い」

「どうも」

 カチャカチャと食器類をぶつけながら、十分程度で朝食を済ませ、お互いなんとなく、無言でコーヒーを啜る。あまり、仕事に行きたい気分ではなかった。自分の気分がどうであれ、時間になればぼくは行動するのだけれど、それにしても珍しく、家を出るのが億劫な気分が、多少なり存在していた。

「なんか、いいねー……ぼんやり朝ご飯」

「そうか」肯定も否定もない発言をする。

「あんまり経験ないからかも」

「家を転々としてたんじゃないのか」

「私の脅威きょういを理解してない——って、昨日は言ったけど、実際、そこまで便利な能力じゃないからね、私の超能力。わかりやすく言うと……常に誰かの顔色を覗って、自分がどう見られているか考えて、何か自分にとって良くない評価が下りそうになったら必死に取りつくろう——みたいなことを、毎秒してるみたいな感じなの。だから、気が抜けないっていうか」

「それでも、お母さんが亡くなるまで、超能力を使わずに生きてたんじゃないのか? その間は、普通の生活を送ってたんだと思ってたけど」

「どうだろ。結構、人の出入りの激しい家だったし、家族の時間もあんまり合わなかったしね。まあ、何かと比較してるわけじゃないよ。ただ、今がいいね、って思っただけ」

「そうか」また、肯定も否定もない発言だった。「まあでも、ぼくもいいと思うよ」

「いい、とは思うんだ。まあそっか、自分から『これは良いものなんだ』って思おうとする感性って、本物っぽく思えないしね。そっか、自然な感性には、意志は必要ないのか」

 ぼくと亜矢は、見るともなくニュースを眺めて、時間が来るのを待っていた。お互いに、これからどういう一手を選ぶべきなのか、考えていないような気がする。亜矢にはプランがあるのだろうか? そもそも、昨日はどういう流れで、彼を尾行しようと思い立ったのだろう。組織と接点を持つためなのか? あるいは、それなりに思惑があったのか。ぼくにしてみても、亜矢をどうするか、しっかりと考えているわけではない。ただ、明日の朝には麗々瀬れれせの家を訪ねて、亜矢を押しつけたいと考えているくらいなものだ。亜矢にも、麗々瀬にも断られたら、このまま亜矢を家に滞在させるのかもしれないけれど——まあ、そこは今考えても仕方のないことだ。

「洗い物、やっとくから」と、亜矢がテレビを見たままで言う。「ごちそうさまでした」

「ああ、ありがとう。昼に帰ってこなかったら、適当にあるものを食べてくれて構わない」

「うん」

 亜矢はそう言って、コーヒーカップをテーブルに置くと、ソファの背もたれに寄りかかり、ふうと息を吐いた。

「久しぶりに、落ち着いちゃった。気を張らなくていいって、気楽だね」

 亜矢の問い掛けに、ぼくは素直に、「そうだな」と答えた。実際、ぼくも、死の危険が身近に迫っていない時——例えば昨日の夜のような、銃を構えて不確定要素に対して様々な疑問を思い浮かべる時間に比べれば、何も考えずに済む、今のような時間の方が、よほど気楽で、よほど素晴らしいと思えた。

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