第9話

 彼女の説明はこうだった。

 人間には意志がある。多かれ少なかれ、人間は何か行動を起こす際に、意志を持つ。全てが全てじゃないのだけれど、たとえば今日の夕飯を何にするか考えるとき、たとえばコンビニで買い物をするとき、たとえば二度寝をするべきか悩むとき——人間は何らかの意志に従って行動する。

 もちろん、無意識下で行われる行動もたくさんある。朝起きて、顔を洗って、支度をして、家を出る——そのルーチンの中には、様々な無意識も同時に存在する。だからこそ、人は家の鍵を掛けたか不安になるし、完璧に準備を済ませたつもりでも、鞄にハンカチを入れ忘れるなんてことが起こる。日常的にこなしているルーチンの大半は、無意識下に行われるからだ。強い意志を持って家の鍵を掛けていれば、電車に乗ってから不安に陥ることなんて有り得ない。そう、明確な意志があれば、人は大抵のことを忘れずに済む。そして人間の行動の大半には、強弱はあれ、意志が伴う。

「私は、その意志を捻じ曲げることが出来る——そういう力を持っています」

 意志の捻じ曲げ方には主に二通りのやり方があるようで、彼女は実際に行った方法を説明してくれた。

 その方法とは——他人の意志を満足させること。

 たとえば今日起きた出来事で言うと、彼女が殺されそうになった瞬間、男が突然興味を失ったのがそれに該当する。冷静な男に見えたが、それでも多少なりとも、拳銃の引き金を引く際に——人の命を奪う際に、明確な殺意が生まれたはずだ。それを意志と呼ぶか、覚悟と呼ぶか、単なる殺意を呼ぶかはさておき——その意志を、彼女は満足させてしまうことが出来るのだという。

 だから彼は、引き金を引かなかった。

 殺すべきだ、殺さなければならない——と、強く抱いた意志そのものを、消し去られた。結果として彼は、殺さない方が良いのだと考えた。

 実際のところ、これは副産物的な効果らしい。つまり、「Aであるべきだ」と強く抱いた感情が消し去られた時、それが二元論であれば、「AでないならBであるべきだ」が成立するということだった。彼女が前置きしていた通り、普通はそんなこと有り得ないのだろうけれど、まあ正直、言われてみれば事象としては納得出来ないこともない。絵空事の説明としては、筋は通っているように思える。

「尾行が出来たのも、そういうことです。あの男にとって、自分の後を付けてくる私は怪しい人間だったはずですが、その『怪しい』という疑いそのものを解消させれば、『怪しくないなら着いてくるのが普通』だという認識になるんです」

「なるほどね。にわかには信じがたいけど」

「無理に信じて下さいとは言いませんけれど……事実なんです」

「それは、どうやってやるわけ? 念波を送るとか?」

「どうなんでしょう。理屈はわかりません。念波が送られているのかもしれませんけれど、実際にやっていることは、ただそうです。仕組みを理解出来ていなくても、人間は動きますからね。たとえば響は、固形物からどうやって栄養を吸収してるか、内臓がどうやって動いているか、理解してますか?」

「してないね。というか、まだ名前で呼ぶんだ」

「それと同じです」彼女はぼくを無視して続ける。「私は他者の意志を強く感じることが出来ます。テレパシーとか、サトリとかじゃないですよ。相手が何を考えているかなんてことは、私にもわかりません。ただ、好意とか、敵意とか、そういうのって、普通はある程度感じられるじゃないですか」

「いや……どうだろう。あんまり感じたことないな」

「あなたはそうでしょうね」呆れたように、彼女は言う。「でも普通の人間は感じられるんです。あ、この人私のこと好きなんじゃないかな? とか、うわ、こいつ私に敵意むき出しだ……とか。あるんですよ、普通の人には、そういうのが」

「ああ……まあ、多少は。両親には愛されてる感じがするし、先輩には可愛がってもらってたかもしれないかな」

「それは事実からの推察な気もしますが……まあ、広い考え方では、そういうやつです。響はそういう能力が人より劣っているんだろうと思いますが、私は輪を掛けて過敏なんです。強い意志……熱? みたいなものを、感じ取れます。で、そうやって感じた意識を、意志を、操作出来てしまうんです。何故かはわかりませんが」

「へえ……でもじゃあ、拘束される必要なんてなかったんじゃない? 疑いを満足させて、解消させて、それでそこにひっそりと立っていれば良かったのに。何が目的だったのかは知らないけど、もしぼくが君と同じ力を持っているなら、そうすると思う」

「そこは……使い所ですね。意志は意志であって、性格じゃありませんから。変え続けることは難しいし、全く違うものに塗り替えることも出来ません。たとえば、どうしても欲しいものがあるとするじゃないですか。スマホの新機種が出ると聞いて、絶対に買おう! と思うけど、一週間後には興味がなくなっているとか」

「普通はそうなのかもね」

「普通はそうなんですよ。そういう、『あ、これ欲しいな』と強く思わせる感覚が、私の能力だと思ってください。一時的に認識をすり替えられるんです。だからと言って、永遠にすり替えることは出来ません。それにそもそも、こんな場所に誰とも会う用事がないのに来るはずがないですし、私の目的は被害者の振りをして会話を聞くことだったので——ある程度は拘束もやむなし、というところだったわけです。拘束されていた方が、周囲は無防備になりますから」

「うーん、ぼくにはわからない感覚だけど、君が言うならそうなのかもね」

「ある程度満足させて、ある程度は自由にさせる……その方が、人は自分の行動に違和感を持たないんです。まあ……そうなんだ、程度に思ってください。こればかりは感覚的なものですから、無理に理解してくれとは言いません。たとえばそうですね……残業続きで薄給な仕事は堪えられないけれど、定時退社か、高給取りか——どちらかが約束されていれば、人は働き続けられるみたいな話です。全てが上手くいってなくても、ある程度望みが達成されれば人は満足する。そういう機能が備わっているんですよ、きっと」

 嫌な話をする女子高生だった。が、まあ言わんとしていることはわかる。

「なるほどね。理解はできないけど、納得はしたかもしれない」

「ちなみに目隠しを拒んだのは、どちらかと言えば聴覚を奪われたくなかったからです。視界は別にどっちでも良かったんですよ、本当に。ただ、聞こえなくなるのは困るので」

「現象については、粗方理解したよ。でも、一番気になっている部分が解決していないから、そこも教えて欲しいな。そうしたら、君の拘束を解く」

「契約不履行じゃないですか? 秘密を話したら、拘束を解いて、車で家まで送ってもらう約束です」

「ぼくは実は、悪い人間なんだ」良い人間の定義がわからない以上、自分は悪者だと定義する他ない。「まあそれは軽口だとしても……やっぱり、目的のわからない人間は怖い。だから、目的を教えて欲しい。そんな、超能力者を自称するような人間を自由にするのは、ぼくには恐ろしい」

「だから、あなたには効かないんですよ」と、不服そうに彼女は言う。「あなたに効くなら、今頃私は自由の身です。こんな人間がいるとは思わなかったんです」

「そういう可能性があるなら、身動きが取れなくなるまで拘束されなければ良かったのに」

「どうせ男なんて、人目に付かない場所で女子高生を見つけたら悪さをするものだと思ったんです。そういう、下卑た性欲を上手くコントロールして、逃げ出そうとしていたんです」

「しかし、誰かが来る保証はなかったはずだ」

「さっきも言いましたが、誰とも会う予定がないのに、こんな廃墟に来るとは思えません」と、彼女は正論を口にした。「それに、そもそも彼を尾行しようと思ったのは、取引をする——というようなことを口走っていたからです。私もそこまでバカじゃありません」

「でも、女が来る可能性もあった」

「——それは、そうかもしれませんが」と、彼女は素直に認めた。「しかし女だったとしても、意志を引き出すことは出来ます。性欲じゃなくても、殺意とか、敵意とか、そういうものを引き出すことは出来たはずです」

「ああそうか、意志の解消だけでなく、操作も出来るんだっけ。なるほどね。ぼくみたいな人間だけが想定外だったってことか。じゃあ、君は運が悪いね」

「まあ……そうですね、こればかりは読みが甘かったかもしれません。しかし、まあ……ここで黙秘してても埒があきませんから——ほとんど話しちゃいましたし、そろそろ自由の身になりたいので、目的について話しますね」彼女は辛そうにしながら言う。本当に、身体が限界なのかもしれない。「私が彼を尾行していた目的は、お母さんの敵討ちをするためです」

 敵討ち。

 耳慣れない言葉だったけれど、しかし、そう言えば確かに——先ほどの男は、『復讐』という言葉を口にしていた。復讐。まあ、ニアリーイコールで、敵討ちと似たような意味合いだろうか。それにしても——お母さんの敵討ちとは、なんとも物騒な表現だ。

「お母さんが、誰かに殺された?」

「そうです」

 なるほど。

 超能力が実在する——という話に比べれば、まだ辛うじて理解出来る範疇の発言だった。事実、殺人は日常的に行われている。人が死ぬ理由は大きく分けて、寿命、事故死、病死、殺人、自殺——それくらいなものだろう。そのうち、寿命や病死はその通りだとしても、事故死や自殺のうち、半分くらいは殺人だと言える。実際、事故死なのだけれど。自殺なのだけれど——それらは他人によって引き起こされる。

 いや、「交通事故は相手がいるから、実際は殺人と同じだ」というようなことが言いたいわけではない。「事故死」として片付けられてはいるけれど、実際には「偶然起きてしまった事故」ではなく、「起きるべくして起こった事故」である場合が大半だし、自殺にしてみても——自殺をする以外の選択肢を奪って、自殺するように仕向けるという場合が大半なのだ。そしてその大半の事象に、ぼくたちのような人間が関与している。

 ぼくもこの世界に暮らして長いが、プロが絡んだ事故死や自殺は、報道されることさえほとんどない。ないのだけれど、事実として、自殺と事故にはほとんどの場合、ぼくたちのような人間の影がある。

「ということは、お母さんは自殺か、事故死でもしたってことかな」と、ぼくはわざわざそんな聴き方をした。「不審な点があったんだろう、君にとって」

「お母さんは事故死でした。でも、絶対にそんなこと有り得ないし——もしお母さんが誰かに殺されたんだとしたら、次は私が死ぬことになります」

「ん……よくわからないな」まあ、さっきからわからないことだらけだけど。「まるでぼくが尋問してるみたいで申し訳ないんだけど……」

「申し訳ない、なんて思ってないですよね」

「思ってないね」素直に認める。「社会人としての口癖だと思って聞いて欲しいんだけど、とにかく……なんでお母さんが殺されると、君が殺されるわけ?」

「えっと……ああ、あの、全部話しますから、とりあえず拘束を解いてくれませんか?」と、彼女は諦めたように言った。「私が逃げだそうとしたら、撃てばいいじゃないですか。私も流石に、体が痛くて。自由になりたいんですよ。話も長くなりそうですし」

「でも、君を撃とうとしたら、ぼくは君の超能力とやらで、操られちゃうんじゃない?」

「そうかもしれませんね。そうであれば好都合です。というか、響の中に『絶対に拘束を解きたくない』という強い意志が生まれない限り、私の拘束は解かれるわけですが」

「生まれたら生まれたで、操られるというわけか」

「そうなりますね。なのでまあ、どちらにせよ拘束を解くわけですから、早めに解いてください。いくら超能力者でも、鬱血には逆らえません」

「いや……まあ、どっちでもいいか」

 ぼくは少し思案したが、どうやら彼女の言う通りであるらしいと判断する。それにそもそも、そこまで強く、彼女の拘束を解きたくないと思っているわけでもない。

 プロによる拘束はそうやすやすと解けないので、刃物で片付けた方が早い。が、コートを探しても、ぼくは刃物らしきものは携帯していなかった。

「残念ながら、刃物を持ってない」

「床にペンケースが転がってますよね。私のです。そこにカッターが入っています」

「なるほど」

 ぼくは言われた通りに、透明でシンプルなデザインのペンケースを拾う。開いてみると、確かにカッターナイフが入っていた。それを取り出して、少しだけ刃を出してみる。視界の悪さの中でも、ほとんど使われた形跡がないことがわかる。つまり、切れ味は良さそうだ。

「君の言うことを信じるなら、君は被害者なのかな。よくわからないけど——まあ、ある程度理由はわかったから、拘束は解く。どのみち、ぼくが車に乗せなきゃ、君は家に帰れないだろうし。赤坂医院まで、車で一時間は掛かるわけだからね。歩くのはちょっとしんどい」

「家はもっと遠いです」

「じゃあ、まだぼくとの交渉の材料は残ってるわけだ。いいよ、拘束を解こう」

 普通の人間なら、きっと拘束を解いたりしないのだろう。こんな見るからに——聞いてさえ怪しい人間を、自由にするはずがない。もっとも、普通の人間であれば、彼女の超能力とやらで既に拘束を解いているのかもしれないけれど。結果が同じなのであれば、別にどちらでも良いだろう。ぼくは拘束を解きたくないわけでもないし、解きたいわけでもない。であれば、より強い意志を持った人間に手を貸すべきだ。

 ぼくはカッターナイフでビニール紐を乱暴に切る。もちろん、彼女の肌に直接触れている部分だけは、付近の紐を切ってから弛める、という方法を採用した。これも経験によるものだ。拘束された人間を自由にするという行為も、過去に数回経験している。ガムテープを外した回数よりは少ないはずだが、それでもまあ、手慣れたものだった。

「……ありがとうございました」不本意そうに、彼女は礼を言った。「自分で言っておきながら、こう易々と——超能力に頼らずに会話のみによって目的が達成されると、違和感がすごいですね。本当に響って、こういう世界の人間なんですか? 私が知っているタイプとは、随分違いますね」

「君が今まで会ってきた人たちとぼくは、別人だろうからね」ぼくは答える。「で、どうしてお母さんが殺されると君が死ぬのか、教えてもらっていいかな?」

「その前に、一回だけ、スマホを確認しても良いですか? 誰かから連絡が来ているかもしれないので……あの、助けを求めようとしているわけじゃないです」

「いいよ」

「いいんだ」彼女は驚いたように言って、椅子から立ち上がる。「本当に、よくわからない……自意識とかないんですか?」

「さあ……」

 彼女はライト代わりになっているスマートフォンを取り上げて、数秒だけ操作した。暗闇が戻ったのは一瞬だけだった。実際、助けを求めるつもりはなかったらしい。ボタン一つで救援が呼べる仕組みが出来上がっているならまだしも——普通に文字を打つような時間すら取らずに、彼女はスマートフォンを元に戻した。

「誰からも連絡は来てませんでした」何故か不服そうに、彼女はぼくに報告した。「これは、またここに置いておきます」

「ありがとう」

「で、じゃあ……話しますけど」

 彼女は——多分、一時間以上は拘束されていたのだろう、間接を曲げたり、筋肉を伸ばしたりしながら、ぼくに言う。目上の人間に話をする態度とは思えなかったが、思えないだけで、別に不満を覚えることもなかった。

「私のお母さんも、超能力者なんです。……だった、んです」

 屈伸しながら、彼女は言う。そこに悲哀の念は感じなかった。理知的で冷酷な性格——というわけではなく、恐らく、その悲しみはずっと昔に乗り越えてしまったのだろう。

「超能力って、遺伝するんだ」

「わかりませんけど、もしかすると。で……端的に説明しますけれども、超能力者は、秘密裏に殺されているんです。日常的に。この世に超能力者がいないのは——インチキ超能力者がタレントとしてテレビに出るのが関の山なのは——本物の超能力者は、その存在を検知されたら、すぐに殺されるからです。殺されて、その能力の存在自体を、消し去られるからです」

「なんだか映画みたいな話だ」

「でも、事実です。響とか、さっきの男とか……小さな犯罪に手を染めている人たちよりも、もっともっと深い部分に、闇の世界はあります。一般人が知り得ない、響のような非一般人さえ知り得ない——選ばれた人間だけが知っている世界が、この世にはあります」

「なるほどね」まあ、そういうことも有り得るだろう。「でも……なんで君がそんなことを知っているわけ? それに、超能力者狩りみたいなことが有り得るなら、お母さんが今まで——今までというのは、君を産んで、大きくなるまで——生きていたのも不思議だし、君が今まで生きていたのも不思議だ。運良くバレていなかったのが、突然バレてしまった、とか?」

「まあ、そうですね、運良くと言えば、運良く……バレていなかったと言えば、バレていなかった……その通りですね」

 彼女は両腕を大きく前に伸ばし、んーっ、と控えめに声を上げる。

「県内で、超能力者の処分を請け負っているのは『赤坂医院』です。つまり、私の家なんです。私と母は、そこの人間だから、今まで殺されることなく、生き続けてこられたんです」

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