第8話

 知らないよ、こっちが聞きたいよ。

 そう言いたかったけれど、ぐっと堪えて、「もう少しボリュームを落として」とぼくは言った。暗闇の中、姿が見えない相手に語りかけるとして、通常より声が大きくなってしまうのは仕方がない。だから、手本を見せるように、ぼくは控えめな音量で、彼女に話しかけた。囁き声でさえ、この空間では明瞭に聞こえるのだ。

「あ……すみません」

 驚くべきことに、話の通じる相手だった。もし彼女が叫び声を上げたら、次なる手段として平手打ちでもしなければならないんじゃないかと身構えていたのだけれど、そんなことにはならなかった。なんでならないんだ。なんでこんなに冷静なんだ。おかしいだろ。

「あの、すみません……本当に、お願いばかりで申し訳ないんですけれど、床に私のスマホが落ちていませんか?」と、女子高生はぼくが指示した通りの囁き声で、申し訳なさそうに言った。「絶対に落ちているんです。落ちてないはずがないんですけれど、今のところは確認出来ません。とにかく電源が切られているんですが、電池はあると思うので、再起動すると明かりになると思うんです」

「なるほど」

 主導権はこちらにあった。この子をどうしたいという想いもなければ、どうするべきだという確固たる信念もないまま、ぼくは言われた通り、床に触れる。明かりが欲しいのは本当だった。少なくとも——現状、ぼくは大金を持っているだけのしがない一般人である。まあ、銃刀法違反をしているとか、不法侵入をしているとか、拘束された女子高生が目の前にいるとか、言い逃れできない状況ではあるけれど……麻薬を持っている時と比べればいくらか精神的に余裕はあった。あるいはそれは、無事に取引が終了したから——という、次に予定が控えていない状態によるものだったかもしれないけれど。

 とにかくぼくは、現状を一歩進めることにした。ぼくには脱出ゲームみたいに、次にやるべきことが明確な状況を好む習性がある。とりあえず、その次の一手さえ達成すれば、現状がより良くなるという期待があるのだろう。

 LEDが消灯してから時間が経ったせいか、また少しずつ、暗闇に目が慣れてくる感覚があった。男が待っていたこの辺りは、比較的床が綺麗になっているというのも好都合だった。奥まった場所だから、普段から誰かが利用しているのかもしれない。

 数分掛けて、ぼくはようやく、スマートフォンらしき形状の板に触れた。その間、女子高生は一切口を利かなかった。またガムテープを貼られるのはごめんだ、という強い意志でもあったのだろう。それはぼくにはないものなので、多少なり尊敬の念を覚える。

「あった。どうやって起動すればいい?」

「右側にボタンがあります。長押ししてください。右側というのは、つるつるした側を表とした場合の右側です。つるつるした側というのは……」

「ガラス面ね」そこまで言わなくても分かる。ぼくは小学生とでも思われているのだろうか。

 画面右側にある突起を長押しすると、リンゴのマークが淡く光った。ぼくは職業柄——加えて性格上、スマートフォンは持っていないけれど、人類のほとんどがスマートフォンを所持している現代において、不所持がイコールで無知というわけではない。ボタンを長押ししながらしばらく待っていると、どこぞかの風景を切り取った待ち受け画面が表示された。

「一、三、八、六、二、九、です」

「なんて?」

「パスワードです。一、三……」

「ああいや、数字は覚えた」ロックバーをスライドして、言われた通りに数字を打ち込む。ロックが解除されて、ホーム画面が表示される。「ん、よく考えたらロック解除なんかする必要なかったか」

「あ、言われてみればそうですね。もう一度ロックしてください。中見ないでください。お願いします。お願い出来る立場じゃないのは分かってるんですが、そこをなんとかお願いします」

 そう言われると、無理して中を見る気にもならない。ぼくは画面を一度ロックして、画面左下にある、懐中電灯のマークをタップした。閏流うるうるに操作させられることが多いので、基本的な操作方法くらいは知っている。

「とりあえず、これを明かりにしよう」言って、ぼくは古びたパチンコ台にスマートフォンを立てかけた。「ぼくからは君がよく見えるし、君からもぼくが見える状態になった」

「はい。ありがとうございます。感謝しても仕切れません。感謝するくらいしか出来ることはないので、それ以上を要求されても困るんですが」

「そこをなんとか、それ以上を要求させて欲しい」

「ひぃっ」女子高生は怯えた声を上げる。どこか空々しい気がするが、気のせいか。「ごめんなさい、ごめんなさい。謝ることくらいなら出来るので、謝らせてください」

「さっきまでの君の態度と、今の君の態度を見比べると、同一人物とは思えない。さっき——あー、ぼくも名前は知らないんだけど、ぼくと話していた人がいたでしょう。彼に対しても、同じような言動を取れたはずなのに、君はそうしなかった。よくわからない。どうして君は、急にそんな風に、怯えた態度を取っているの?」

「それは……それは、言えません」

 なんでだよ。

 言えよ。

「あの、ここで見たことは、絶対に誰にも言いません。あなたのことも忘れます。だから、見逃してください。本当にすみませんでした。出来れば、無事に返してください。制服も売られたくないです。さわられたくもないです。本当にすみませんでした」

「いや……まあ、別にそれでもいいんだけど」

 本心からの言葉だった。彼女を信じているわけではないのだけれど、だからと言って、疑っているわけでもない。ぼくの中には、確固たる信念がなかった。別に、どうだっていい。ただ、理由もなく逃がすわけにも行かない。いかにぼくが無気力な人間だったとしても——ぼく以外の人間に迷惑を掛ける可能性がある人間を、放置するわけには行かない。これはぼくの意志というよりは、義理とか人情に近い理由だ。

「ただやっぱり、説明はしてもらわないと家には帰せないし、拘束も解けない。悪いとは思うけど、ぼくも上司に詰められたくはないし。とにかく、まずは、お互いを知る必要がある。いや、お互いじゃなくて、ぼくが君のことを一方的に知る必要がある」

「あ……やっぱり、知りませんか、私のこと」

 まるで自分が有名人だとでも言いたげだったので、ぼくは記憶のデータベースにアクセスしてみる。ガムテープを外しても、目鼻立ちの良い美人であることは確かだったが——歳を取れば取るほど若い女性は美人に見える傾向にあるので、絶対的な指針にはならないだろうし、そもそもぼくは彼女に見覚えがなかった。

「うん、知らない」

「そうですか。さっきの人は知っていたんですけど」

「うん?」そんな素振りは見せていなかったように思うが。「つまり君は、有名人ってことなの? 若そうに見えるけど。実はそれ、コスプレ?」

「正真正銘のLJKです」

「LJK? 誰? 海外の人?」

「らすとじぇーけーです」

「余計に意味が分からない。おじさんにも分かるように説明して」

「最後の女子高生、つまり、高校三年生という意味です」彼女は不本意そうに説明する。「すみません、高校三年生と言うべきでした。ごめんなさい。殺さないでください」

「いや別に怒ってないけど……まあ、ひとまず君の言うことを信用するとして、高校三年生だということにするとして——君は、誰で、何者?」

「出来れば言いたくないんですが」

「スマホを調べれば、ある程度はわかる。調べるのが面倒くさいから聞いてるんだよ」

「そうですね、そうでしたね。すみませんでした。あのー……うーん……そうですね、今、絶体絶命ですね、私。話すしかありませんね」

 自分で自分に言い聞かせているのか、彼女は逡巡してから、ぼくの目を真っ直ぐ見て、自己紹介を始めた。

「私の名前は、赤坂亜矢あかさかあやと言います。赤坂医院の一人娘です。赤坂医院くらいはご存じかと思いますが」

 この時点でのぼくは、取引前に定食屋で見たニュースの内容を照合出来ていなかった。しかしながら、『赤坂医院』という音には聞き覚えがあった。裏社会は、常に権力者と密接である。そして、権力者の大半は、医者と議員だ。特に、『赤坂医院』は松野まつの市においては覇権的存在だと言えた。かく言うぼくも、幼い頃に通っていた経験がある。地域に根ざした開業医で、裏社会との繋がりもある。

 そこの一人娘だと言うのなら——確かに、ぼくが知っていてもおかしくないし、取引相手の男が知っていても、不思議はない。むしろ、ぼくが知らない方が異常と言えた。

 まあ、そこはそれ、仕事で絡んでいない人間には興味がないから仕方ないのだが。

「事情はわかった。そう考えると、また疑問が湧くな。普通、名家の一人娘が廃墟で拘束されていたら、誘拐されて身代金を要求するための交換材料になったんじゃないかと思えるわけだけど——さっきの人の言葉を信用するなら、君は彼を尾行していたらしいじゃないか。立場が逆転してる」

「あのー……出来れば、ほとんど説明したくないんですけど。出来ないわけじゃなくて、したくないだけなんですけど……したくないから、しなくていいですか? 説明」

 彼女の性格なのだろうか。それとも、開業医の一人娘という恵まれた生き方をしているせいだろうか。彼女の言い方はひどく、他人を苛つかせることに特化しているように思えた。ぼくが苛ついているわけではなかったけれど、客観的に見て——そう思う。

「その道理は通らない。申し訳ないけど。ぼくもそこまで興味があるわけじゃないんだけど、要人が関わってるとなると、余計に見過ごせないよ。ぼくにもまあ……守るべきほどじゃないにせよ、立場ってものがあるから。情報は仕入れておかないと」

「……なんで怒らないの」と、これはぼく宛に言ったわけではなく、ほとんど独り言のような発言だった。「感情とかないんですか?」

「それ、さっきも似たようなこと言ってたね。意志がどうとか」

「言いました。記憶力はいいんですね」

「ありがたいことに」言いながら、彼女の口調が変化していることに気付く。「ああ、なるほど、ぼくを怒らせようとしていたのか」そしてようやく、ぼくは彼女の行動理由に気付いた。行動理由には気付いたけれど、意図は不明だ。果たして——彼女は一体、何を狙っているのだろう。「理由は分からないけれど、もったいぶった言い方とか、冗長な話し方をして、ぼくを苛立たせようとしていた。でも、なんだか上手く行かない。で、君は焦ってる、で合ってる?」

「……まあ、大体は合ってます」と、彼女は素直に認める。「今、正直言って、すごく焦ってます。こんなに怖いのは生まれて初めてかもしれません」

「そうなんだ。かわいそうに」心の底から労いの言葉を吐く。「で、話を戻すけど、なんで松野市の名士とも呼ばれる『赤坂医院』の一人娘が、裏社会の人間を尾行して、廃墟で拘束されているわけ? なんで目隠しされていなかったの? なんで殺されなかったの? なんで彼に連れて行かれなかったの? なんでさっきまでは怯えてなかったの? これらの疑問を解決出来る回答、出来る?」

 ぼくが矢継ぎ早に問い掛けると、彼女は信じられないことに「出来ます」と言った。そんなことがあってたまるか。どんなびっくりミステリーならそんな回答が有り得るんだ。よほどのご都合主義でもない限り、この現状に説明を付けられるはずなんてない。

「本当に、出来ます。出来ちゃいます。立ち所に解決出来ちゃいます。でも——それを言うと、私、とても危うい立場になります」

「今よりも?」

「……正直、今が人生で一番、絶体絶命です」

「じゃあ、喋るしかないね」

「嫌すぎる……」彼女は項垂れて、心情を吐露する。これも、ぼくに宛てた言葉ではなかった。「私はどちらかと言うと、お金のために体を売る女性たちのことを軽蔑しているんですけれど、今、少しだけ理解が出来ました。もし、秘密を喋らなくていいなら、体で払うとか、この制服を売られるとか、そっちの方がマシって気がしてます」

「そう。でもぼくはそういうのに興味ないんだよね」

「でしょうね。わかります。私に興味ないですもんね、あなた、さっきから。そもそも、何に対しても興味ないんじゃないですか?」彼女は少し怒った様子で、ぼくを睨み付ける。「これはこれで不愉快ですね。なんていうか……すみません、冷静になるとあなたに対して理不尽な怒りをぶつけているんですけれど、不愉快です、すごく」

「それは……申し訳ない」

「申し訳ないなんて思ってないくせに」

 痛いところを突かれたな、と思ったけれど、正直痛くも痒くもなかった。慣用句としては正しいのだけれど、心はまったく痛まない。だからだろう、そういう言い方をされても、ぼくは怒らないし、怒れなかった。

「君の言う通り、申し訳ないなんて思ってなかった」

「はあ……やばい、やばいやばい。こういう人もいるんだ……」焦るような、不安がるような彼女の様子を見て、心配——というか、こちらが不安になる。「あの、逆に言えば、安心はしてるんです。安心? 安全か。安全だとは思ってるんです。多分私は殺されないし、襲われない。逆に、殺されそうとか、襲われそうなら、対処出来るんです」

「なるほど? よくわからないな」

「逆に大丈夫なのかな……あの、もし私が、今から言う秘密を絶対に黙っていてくださいってお願いしたら、黙っていてくれますか? さっきあなたが……ていうか、あなたも名乗って下さい。なんで私だけ素性を晒してるんですか?」

 そんな急な物言いの変化も、ぼくに揺さぶりを掛けているだけなような気もした。ヒステリックな話し方というか、態度というか——まあ当然、ぼくは動じることもなかった。相手が子どもだからと言って、接し方を変えるでもない。もちろん口調や態度くらいは変わるけれど——根っこの部分では、同じ人間なのだし。

「秘密にしろと指示を受けているわけでもないから答えるけど、ぼくは伊地知響いじちひびき

「ありがとうございます。じゃあ、響の疑問を解決する秘密を教えるから、その秘密については、誰にも話さないって誓ってもらえます?」

「名前で呼ぶんだ」

「嫌でした?」

「や……別に」

「でしょうね」

 なんなのよ、と吐き捨てるように言って、彼女は拘束された体を乱暴に揺らした。かなり怒っているようだ。感情の起伏が平坦なぼくにしてみると、彼女のように感情表現が豊かな人間は、見ていて面白い。

「でもまあ、少しずつ把握出来てきました、あなたのことが。子どもから名前で呼ばれても動じないし、バカにされたとも思わないんでしょうね。じゃあもう、うーん……どうしたらいいんだろう。揺さぶりを掛けたところで意味もないし、バカにしても意味なくて、下手に出ても、色仕掛けなんかしても、無意味なんですよね」

「多分……どうだろう、ぼく、別に君のこと好きじゃないからね」

「頭おかしいよこの人」失礼な物言いだった。「こちとら花のJKなんですけど」

「とにかく、ぼくの疑問に答えて欲しい。もし答えてくれるなら、君の秘密は守ると約束する。まあ、約束なんて信憑性のない行為に何の価値もないかもしれないけど……言うつもりはない」

「さっき言ってた、上司って人に問い詰められても?」

「まあ……別に上司が全てじゃないからね。よほどのことでもない限り、約束はした順番に守ることにしてる」

「わからない。あー、わかんなくなってきた」彼女は投げやりな態度で言う。

「声が大きい。静かにして」

「そこがわからないんです」囁き声に戻して彼女が言う。「私の見立てでは、響は無気力無感動人間に見えます。こんな風に名前で呼んでも動じない。自分のことなんてどうだって良さそう。なのに、私が大声を上げたりすると嫌がるし、疑問を解消しようとしますよね。なんなんですか? それ。他のことに興味がないなら、放っておけばいいのに」

 言われてみると、確かに何故だろう、という気がした。ぼくは自他共に認める——現状、〝自〟は自分で、〝他〟は彼女のことだが——無意志人間のぼくだけれど、確かに疑問に対して固執している部分がある。放っておけばいいと言われれば、それまでだ。彼女がここで野垂れ死のうが、別にどうだっていい。彼女が要人だろうが、好きにすればいい。なのに、ぼくは何故、今日起きた不可解な一連の現象に、疑問を覚えていて、その秘密を知りたがっているのだろう?

 ————一分くらい、時間を掛けて考えてみた。

「多分、怖いから」と、ぼくは答えを口にした。「どうでもいいことと、どうでもよくないことの間には、恐怖という概念がある」

「よくわかりません」

「だろうね、別にそれでいいよ」

「いやいや、教えてください。すみませんでした。話を切り上げないでください」

「うーん……ぼくの意志というか、ぼくの自覚というか——死にたくないって思ってるわけじゃないんだけど、死を回避する癖みたいなものが、ぼくにはあって。今日ここで死んでもまあ仕方ないか、とは思うけれど、出来れば回避したい。刃物が近くにあったら危ないとか、酔っ払いとは距離を取るとか、熱が出たら休むとか、そういう本能的な感覚だと思う」

「余計わかりませんけど、まあ……そうなんでしょうね。じゃないと説明が付きませんし」「何に対して?」

「私の秘密に対してです」

 と、彼女は言って——ぼくの顔をじっと見つめる。整った顔だと思うけれど、それだけだった。恋をするわけでもないし(相手は子どもなんだから当然だけど)、魅力を感じるでもない。ただ、金持ちの家の子どもは、総じて美人である確率が高いな、と感じる。

「秘密を話したら、拘束を解いて、車で家まで送ってくれませんか」

「要求が多すぎない?」

「でも、響はそうしてくれる」

 まるで確信にも似た言い草だったが——多分、ぼくはそうするのだろう。正直言って、どちらでもいい。どちらでもよければ、言われた通りにする。ぼくの行動理念はそんなところだ。

「……わかった、いいよ。ぼくが君の秘密に納得出来れば」

「納得なんて、するタイプなんですか?」

「納得くらいするよ。ぼくをなんだと思ってるんだ」

「自我のない人間」

 まあ、当たっているかもしれない。

「まあ確かに、自我の有無と、納得や理解の有無は無関係かもしれませんね。わかりました、話します。話しますけど、前提として——納得は出来ても、理解出来ない、信じられないことだということを、先に伝えておきます。有り得ないように聞こえるかもしれません。でも、事実です。なので、ちゃんと聞いてください」

「聞いてるよ」

 どうだか、というような呆れた表情を見せたあと、彼女は意を決した様子で口にした。

「私——実は、超能力者なんですよ」

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