第7話

「……か、帰ればいいのか」

 それとも、ぼくがこの女子高生を殺すべきだろうか。要するにぼくは今、二択を迫られている。彼女を放置する——すなわち助けるか、今ここで殺すか。

 しかし、べつに彼女が生きていてもぼく自身は一向に困らない。困るのは、閏流とか、両親とか、会社の人たちとか、ぼくを取り巻く人たちだ。ぼく自身は、どっちでもいいっちゃいい。出来れば死んでくれた方が都合が良かったけれど——不用意な状態で殺人を犯す方が、今は都合が悪いとも言える。

 損得勘定をするなら……正解はどちらだろう。

「んー!」

 そんな風にぼくが逡巡していると、突然——突然でもないのだけれど、女子高生が抗議の声を上げた。抗議というか、不満気というか。先ほどまでは、断続的に唸り声に近い嗚咽を上げていただけなのに、打って変わって、若者らしい不平不満ぶりだ。とは言え、ぼくにはどうすることも出来ない。何しろ、廃墟はほとんど真っ暗なので、彼女の輪郭を捉えることくらいしか出来ないのだ。

 不可解なことには……一旦、目を瞑ろう。いや、この場合、瞑るも何も視界はほとんど機能していないのだけれど——とにかく、次の一手を考えなければいけなかった。

「んーー!」

 うるさい。

 思考が乱されるのは、どちらかと言えば嫌いだ。憤るほどじゃないけれど。

 なんで急にこの子が騒ぎ出したのか、それすらも不明瞭だ。本当に、わけがわからない。説明がつかない。

「あんまり騒ぐと、誰かに見つかるかもしれない。だから、静かにしてほしい」ぼくは、彼女の行動に対して、怒りが湧くでもなければ、殺意を覚えるでもない。意志らしい意志は浮かばない。ただ、常識人らしい行動を取るのが精一杯だった。相手が人間だから、言葉を使う。それだけだ。「良かったね、生きてて。良かったのかどうか、ぼくにはわからないけど。とにかく、死ななかった」

「んんん! んー!」

 何を言っているかわからない。

「んー! ん!」

 今の彼女には、恐怖というか、余裕のなさというか——なんというか、必死さが伝わってくる。先ほどまでの、違法な取引現場を見ていた彼女にはなかった、死への恐怖みたいなものが感じられる。

 …………いまさら?

 彼女は両手を背後で縛られ、両脚は揃えて拘束され、椅子にぴったりと固定されている。その上で、左右の椅子にもビニール紐は伸びており、体を回転させることも出来ない状態。確かに、声を上げるくらいしか出来ないだろう。だがそれにしても、声を上げるくらいしかないというのなら、さっきそうすれば良かったのだ。あるいは、罠なのか? 誰かがぼくを試しているのだろうか? ぼくが殺さないと、誰かに怒られるのか? なんで?

「んー! んー! んー!」

「うるさいよ。いくら車通りが多いとは言っても、そう何度も叫ばれると、誰かに気付かれるかもしれない。黙れない?」

「ん!」

 元気なお返事だった。

 黙れと言っているのに。

「黙れないのか。どうしたら黙ってくれる? 黙れなくても、静かにしてくれると嬉しいんだけど。というか、まあ、ぼくが早くここを立ち去ればいいだろって言われれば、それはその通りなんだけど」

「んーん」

 否定的なニュアンスを孕んだ唸り声だった。

 暗闇の中で、彼女の頭部から生えた長い髪の毛が、左右に揺れている感覚がある。輪郭しか分からないが、それでも、首を振っているらしいことはわかった。つまり、立ち去らないでくれ、という意味なのだろうか。

「少なくとも、意思疎通の意思があるということでいいのかな」

「ん!」

「わかった。正直、ぼくは現状の意味がわからない。なんであの人は君を殺さなかったんだろう。どうして目隠しをしなかったんだろう。どうして口だけは閉じたんだろう。制服を脱がせないのも不思議だ。利用価値があるなら、紐で縛るだけでも価値は下がる。毛皮と一緒だからね、女子校の制服は」

「んー……」

 ニュアンスだけで、引かれているようだと理解した。別に、ぼくが制服を欲しがっているわけじゃないので、なんだか不満が募る。

「とにかく、ぼくは君をどうすべきかわからない。どうにかしたいという意志もない。そういう時は、とりあえず考える環境を作るように、昔の先輩に言われてる。だから、叫び声を上げるのをやめて欲しい。ぼくは今、安全な状況を作りたいんだ」

「んーーーーーーー、んっ!」

 ぼくの発言に、彼女は暗闇の中で、ゆっくりと顔を右から左に動かした。そして、最後に顔を大きく上に跳ね上げる。動きが音と連動しているなら、漢字の「心」の二画目の払いを実演しているように思えた。いや、違うか。ファスナーを閉めるような動作というか……あるいは煙草のフィルムを開ける仕草……あ、違う、ガムテープを外すジェスチャーだ。

「ガムテープを外せって言ってる?」

「ん! ん!」

 そう、そう! と言っているような気がする。

「いや、流石にぼくもそんなにバカじゃないから、どうかな……ぼくに利点はないわけだし。君を助ける義理もないし」

「んー! んーー! んーーー!」

 ガムテープを外さないなら叫び続けるぞ、という意図を感じる。まあ、そうだろうな。ぼくだって、言葉を封じられたらせめて会話させてくれ、という気持ちになるだろう。だからって、本当にわけが分からない。こんなに意思疎通を図る元気があるのなら、なぜさっきまでいた男を頼らなかったのか。まあ、自分を縛り上げた人間に助けを求めるという賭けは分が悪いというのもわかるが、かと言って、ぼくもそれほど安全な人間ではない。

 実際、彼女は目の前で麻薬と紙幣が取引されている現場を見ているはずだ。

 いや——厳密には麻薬かどうかの判断はつかなかったのか。あくまでも、『東京ばな奈』から何かを取り出して、迅速に鞄にしまったところしか見られていないはずだ。いやいや、それでもぼくが拳銃を持っているところは見られている。安全なはずがない。無理矢理理由を見つけようとしても、結局どこかで破綻する。

 やはり、今の状況は、何かがおかしい。

 説明のしようがない。

 であれば——彼女からその〝説明〟とやらをしてもらうのが、得策か。

「んー!」

「わかった、わかった。うるさいよ。じゃあ、こうしよう。一時的にガムテープを剥がす。君は会話が可能になる。ぼくと意思疎通が取れるようになる。その代わり、大声を出さないで、騒がないで、冷静に会話する。また騒いだら、ガムテープを貼って、ここに放置して帰る。あるいは騒ぎ度合いによっては即刻殺す。それでいい? 約束出来る?」

「ん!」

 そう言うと、彼女は大人しくなった。大人しくというか、静かにというか……とにかく、考える時間が欲しかった。冷静に、静粛に、粛々と、考えたい。自分の次の一手が分からなくなった時は、とにかく落ち着ける環境を作れとぼくに言ったのは、先輩である音園おとぞのなのだけれど——確かにその通りだ。これは金言と言っても良い。特に、ぼくのように自由意志に基づいて何かアクションを起こすことのない人間にとって、次の一手が不明瞭な状態というのは、ほとんどパニック状態に近い。学校に行って、授業を受けて、給食を食べて、掃除をして、授業を受けて、時間が来れば帰る——というようなシステマチックでない状況下において、果たして自分がどんな行動を取るべきか分からないというのは、恐怖なのだ。

 ぼくにとって、彼女のガムテープを剥がすという行為は、目覚ましのアラームを止める行為に似ていた。寝ぼけ眼で、今から何をするべきか、わからない。起きた次の瞬間、どうすべきなのか、何を優先すべきなのか、全くわからない。それでも、唯一この部屋で耳障りなアラームが鳴っている。だったらとりあえず、それを止めよう。止めて、それから次のアクションを考えよう。騒音を嫌悪するのは、意志というよりは、反射だろう。

 ぼくは、暗闇の中で彼女の輪郭を探す。なんとなく、顔がどこにあるかというのは判別がつく。が、そこまでの距離感はわからなかった。手当たり次第に——文字通り、手が当たるかどうかという判断基準で、ぼくは女子高生に手を伸ばした。

「ん……」

 左手の中指の先端が、どこかに当たった。硬い感触だったので、額だったのかもしれない。自分の体の位置関係はわかるので、その左手に、右手を沿わせる。「ん」髪の毛があった。やはり額らしい。なんとなくな位置が把握出来たので、両手で彼女の頭部を左右から掴んでみる。「んっ」先ほど首を振っていた時に感じた通り、ボリュームのある髪の毛だった。右手が少しだけ、髪の毛とは違う感触を覚える。耳だ。ということは、そのすぐ近くに——人肌とは違った感触があって、すぐにそれがガムテープであることがわかった。

 端を持って、可もなく不可もない速度で剥がす。

 普通に生きていれば人の口に貼られたガムテープを剥がすなどという経験はしないだろうが、曲がりなりにも裏社会に生きているぼくは、これで人生五度目の経験だった。何事も、経験を積み重ねるとそれなりに上手く出来るようになる。

「——ぷぇ」

 それは声というよりは音に近かった。ガムテープを剥がす際に、自然と出た音らしい。先ほどまでの唸り声も、声というよりは音だと判断するなら——彼女がぼくに対して発した第一声は、あるいは彼女がこの空間で放った第一声は、再びぼくを困惑させた。

「はあっ……ありがとうございました。ひとまずありがとうございましたですし、よくよく考えるとありがとうございましたと言うのもなんだかちょっと違うんですけど、とにかく、ありがとうございました。あの、で、助けていただいておいてなんなんですけど、どうしてあなた、そんなに意志らしい意志がないんですか?」

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