第6話

 取引自体は、何の問題もなく終わった。そもそも、麻薬の取引なんてものは、物品と金銭の確認さえ出来れば終わりなのだし、さらにそもそもを言えば、信用で成り立っているこの業界において、ブツを検める必要さえないと言えばないのだ。

 今回は金額が金額だから、直接取引という手法を選んではいるが——例えば駅のホームのベンチ裏であるとか、コンビニの喫煙所の灰皿の後ろであるとか、だれでもトイレの洗面台の裏であるとかにブツを置いて、交換するという方法もある。回収後に中身を確認をして、不足があれば事務的に問合せする。裏社会の人間は決して血気盛んというわけでもないから、出来るだけ穏便に物事を進める傾向にある。ほとんど、社会人と変わらない。いわゆるヤクザや暴力団とは、根底からして違う。もっと人目に付かない、一般人の口にも上らないような、深く深くに位置しているのだ。

 にも関わらず、ぼくはわざわざ渡された茶封筒から札束を取り出し、きっちり百万円あることを確認した。男も、『東京ばな奈』を開いて、中に入っていたビニール袋で包装された麻薬を確認して、あろうことか梱包材としての役割しかなかった『東京ばな奈』を食べてしまった。これも証拠隠滅なんだろうか。麻薬味でないことを祈るばかりだ。というか、本当に粉類だったのか。機密文書のコピーとか考えていたのが恥ずかしい。

「確認しました。ありがとうございました」

「こちらこそ」男は会釈をする。「またよろしくお願いします」

「……」

 本当に、何の問題もなく——取引は正常終了してしまった。

 正直言えば、女子高生がひとりこの世から消えたとしても、ぼくにとってはどうでも良いことだった。ぼくがこの場を去った数分後、彼女が殺されたとしても、死ぬ前に辱めに遭ったとしても——あるいは行方不明になって、歌舞伎町かどこかで風呂に沈められたとしても、どうでもいいことだった。今取引した麻薬のテスターとして生涯を終える可能性もあるが、それをぼくが止める理由にはならない。

 だからもう、心底どうだって良かった。

 彼女を助けたいという意志は、ぼくにはない。

 ただ——唯一、顔を見られたのには困っていた。もちろん、顔を見られたくなければ変装して来いと言われればそれまでで、それは完全にぼくの落ち度だ。釈明のしようもないのだけれど……仮に彼女が平和的解決を見せて——それはもちろん、家族に身代金を要求するという意味だが——また日常に戻れたとき、ぼくのことを覚えていたら、とても困る。

 ぼくというか、誰かが困る。

 町中でぼくを見て、通報なんかされたら、非常に面倒なことになる。

 たとえば、閏流うるうるとか。

 あるいは、両親とか。

「すみません、最後にひとつ」

 ぼくはやはり、遺恨を残さない方針を固めた。

「なんでしょう」

「やっぱり、この子が気になってしまって。あの、こうなった理由とか、そういうのはどうでもいいんですけれど、処遇というか……ぼくは顔をバッチリ見られたし、取引現場も見られたわけなので、彼女が今後どうなるかだけ、確認しても良いですか。上司にも、説明しなきゃいけないかもなので」

「ああ……そうか、そうですね。やっぱり、バラした方が良いですね」男は何でもない風に言ってのける。「いつもは目隠しとか、なくてもハンカチとか持ってるんですけどね、今日は鞄に入れていなくて。あとで考えようと思って、気が回っていませんでした。こちらも結構、急だったもんですから、うっかりというか」

「いえいえ、まあ……急な応対は困りますよね」

「お恥ずかしい限りです」

 男は軽く笑ったあと、ビジネス用のバッグに手を入れて、そこからサイレンサー付きの銃を取り出した。ぼくの使っているグロックとは別の種類のようだが、薄明かりの中では判別できない。

「信用第一ですからね。この場でバラしましょうか。人は死ねば証拠になりませんから」

「今ですか? ……大丈夫ですか? 廃墟とは言え、表のシマですが……」

「あとでうちの者に回収させます。掃除も、業者に頼みます」

 まあ、周囲にはこの廃墟以外、大した建造物もない。交通量はまだ安定しているし、サイレンサー付きとは言え、殺しをするなら車通りの多い今の時間にやってしまった方が良いだろう。幸か不幸か、ぼくという証人もいる。推理小説なんかで出てくるアリバイ工作とはまた別の話になるが、我々のような人間が殺しをする場合、付近に誰かがいた方が都合が良いことが多々ある。一般的に——裏社会を一般的と言うべきか定かではないが——明確な殺意を持って誰かを処理する場合においては、殺しの現場は、同業者に確認してもらった方が都合が良いのだ。無関係な第三者がいれば、何かあった時、確実に処理した、という証拠になる。

「面倒に付き合わせてしまってすみませんでした」

「でも、本当にいいんですか? この子に、尾行の理由も確認せずに殺してしまって——あの、自分で言っておいてなんなんですけれども」

「確かに、気になるところではありますが——なんとなく、見当はついています。復讐とか、その辺りじゃないでしょうか」

 男はそう言って、銃口を、女子高生の脳天に突き付けた。作業としての殺しがこれから行われるのだ、とぼくは経験から感じ取った。そう、完全に無抵抗で身動きの取れない人間に対して、額やこめかみ、あるいは心臓を撃つなどという殺害方法は無駄と損失が多い。ぼくでさえそうなのだから、きっと彼も制服に利用価値を見出しているだろう。ならば、極力汚れないように殺すべきだ。脳天直下の銃撃は、少女の少女性を保ったまま殺せる。世の中には呆れた物好きが実在していて、たとえば少女の死体を剥製にして、その剥製に性的興奮を覚える趣向もあるのだ。であれば、傷は目立たない場所にある方が都合が良い。もちろん、そういう意味では毒殺か、あるいは血抜きによって殺してしまう方が効率は良いのだが——現状、短時間で成果を上げるためには、脳天に一撃与えてしまうのが最適解だろう。

「復讐ですか。大変ですね」

「まあ、慣れたものです」

 そう、慣れたものだった。

 男も、ぼくも、この作業に慣れてしまっていた。人の命を奪うという行為——だからこそ、感じ取ることが出来なかった。人の命が失われるという、本来であれば特別な、ともすれば日常と非日常のもっともわかりやすい境界線に立っているというのに、わかっていなかった。

 わからなかった。

 慣れすぎていて、気付けなかった。

 女子高生が、ひどく冷静であることに。

 否、もしかすると、この状況が特殊だったせいもあるかもしれない。本来、拘束というのは五感のほとんどを封じることを前提としている。視界を奪い、聴覚を奪う。触覚は奪えないにせよ、拘束により、能動的に得られる機会を奪う。味覚も同様だろう。徹底した人間であれば、嗅覚だって奪ってしまう。ほとんど使い物にならなくなった人間に最後に与えられるのは、痛覚——つまりはまあ、強制的に与えられる触覚だけ。そうして人は死ぬ。

 だが、彼女は身動きが取れず、口にガムテープを貼られているだけ——

 ——ガムテープ?

 そこでぼくは、やっとこの状況の異質さに気が付いた。それなりに場慣れしていて、経験豊富そうなこの男が——子どもを拘束して、それを放置することを躊躇わないような非道な男が——どうして、ガムテープを目隠し代わりにしなかったのだろう。普通に考えればわかることだ。目隠しは布じゃないといけない理由があるのか? 商品価値が下がるから? いや、いくらでもやりようはあったはずだ。スカートを脱がして顔に被せて、ビニール紐で縛るとか。あるいは、目の届かない——別の場所に縛り付けるという方法もあった。取引が終わるまで、その存在を秘匿する方法はいくらでもあったはずだ。

 なんでわざわざ、取引現場の近くに置いておいたんだ。

 逃げ出せないように、監視するため?

 暗闇の中で? わざわざ?

 一気に疑問が湧いてくる。それも今頃になって。ぼくもそれなりに動揺していたということだろうか。あくまでも、取引を優先していたから、気にしていなかったのか。しかし、だからと言って、この状況がおかしいことには変わりがない。

「あの……」

「安心してください、あなたに迷惑は及びません」

 男は淡々とした様子で、人差し指に力を込める。一瞬にして、人の一生が終わる。それ自体に感慨はない。早いか遅いかの違いだ。むしろ、男の言い分を信用するのであれば、彼が誘拐したとかそういうことでもないのだ。女子高生が男を尾行して、ここまでやってきた。

 でも、そうか。

 こんなに用意周到で、場慣れしている男が——一時間以上も、女子高生に尾行されるか?

 こんな、車通りはあるけれど人気のない山道で——しかも、廃墟に辿り着くまで、一度も気付かずに?

 で、廃墟に到着した瞬間に尾行に気付いて、急いで縛り上げた?

 ……無理がある。

「やっぱり——」

 何かがおかしい——と、言い掛けた瞬間、不可解な現象が起こった。

 いや、自然と言えば自然なのかもしれない。普通、人は人を殺したくない。そうである方が自然だ。だから、彼が女子高生の脳天を破壊しなかったのは——自然だった。しかし、この後に及んで、裏社会の人間が、どうしてやめたのだ。

 まるで突然、興味を失ったかのように、撃つのをやめた。

「……ど、どうしたんですか?」

 ぼくの発言は、どうして殺さないのか、なんて非人道的なニュアンスは含んでいなかった。単純に、どうして突然、興味を失ったのか——それが気になった。しかし、彼はそんなぼくの問い掛けに対して、「ああいえ、よく考えれば、彼女はここに置いておく方が安全なんです」と言った。

 いや……。

 いや、いやいやいや。

 そんなはずない。絶対にそんなはずはない。

 あまりに堂々とした物言いに、思わず納得してしまいそうになった。けれど、そんなことがあるか。考えてみれば、さっきからずっとおかしかった。目隠しをしていないことにも、女子高生が唸り声を上げているのを放置していることも、尾行され続けたことにも——それよりも何よりも、

 せめて、麻薬と紙幣の取引くらい、彼女の目の届かない場所でやるべきだ。

 裏社会人としての矜持に欠けすぎている。

「それでは、私はこれで。取引、ありがとうございました」

「あ、いや——」ちょっと待って、何かがおかしいですよ、と言おうとした。言おうとしたのだけれど……ぼくは、最終的にはそうは言わなかった。「——はい、こちらこそ、ありがとうございました」と、そう言うに留めた。どうしてそうしたのかと言われれば、彼の行動を覆すほどの意志がぼくにはなかったからだ。

 性格上の問題だった。

 不満はあるけれど、不信感はあるけれど……場を乱すほどじゃない。

 それがぼくの、ほとんど全てだと言える。

 疑問があっても、不満があっても、それを飲み込んでしまう性質だった。

 証拠もないし、自分の一方的な判断で、他人の行動を制御するだけの自信もない。ぼくが間違っているのかもしれない。本当に、この女子高生は、このままの状態でここに縛り付けている方が、安全なのかもしれない。

 安全?

 誰にとって?

 絶対そんなことないと思うけれど、だからと言って、それを懇切丁寧に説明してやる義理もないし、強い意志もない。

 男は、LEDライトを回収する。すると途端に、廃墟の中は再び暗闇に包まれた。時間の問題か、それともLEDに目が慣れてしまったせいか、先ほどよりも暗く感じる。「では、お先に」と言って、男はその場を去って行く。慎重な足取りで、廃墟を出て行く足音が遠ざかっていく。

 何が起きたんだ。

 何がどうなれば、こんな違和感だらけな行動に説明が付くんだ。

 僕は呆気にとられたまま、暗闇の中で呆然としていた。な……何が、どうなってる。意味が分からない。いや、ぼくにそんなことを言う権利がないことは、ぼく自信が一番わかっている。他人からしてみれば、ぼくほど意味がわからない人間もいないことだろう。意志らしい意志を持たずに、言われるがままに行動をしていて、存在理由も持たないまま生きているぼくに、果たして他人の行動を批判する権利なんてないはずだった。

 にしても。

 とは言え。

 だからって。

 あんまりにお粗末すぎる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る