第5話

 ぼくに何らかの意志があったのかと言えば、そんなことはなかったと断言できる。ぼくを無自覚に支配したのは、「まずい、二人いるかも」という、身の危険に対する、ほとんど脊髄反射に近い防衛本能だった。

 当たり前過ぎてわざわざ描写していなかったけれど、ぼくは車を路駐する際に、ギアを「N」に入れてから、グローブボックスに入れていたサイレンサー付きのグロックを取り出していた。全てのグロックに精通しているわけではないけれど、少なくともぼくの所持しているグロックには安全装置がない。正確に言えば、明確な殺意を持ってトリガーを引ききるまで、誤射することがない、非常に安全な拳銃だと言えた。「安全装置がいらいないくらい、安全な銃だ」とは、音園おとぞのの弁である。

 そんなグロックを、(安全だという先入観から)ぼくはかなり適当に、トレンチコートの内ポケットに忍ばせていた。麻薬入りの『東京ばな奈』に至っては、右ポケットに無造作に突っ込んである。そんな不抜けた精神状態だったにも関わらず、ぼくは廃墟から聞こえてきた男女の声に気付いた瞬間、反射的にグロックを取り出し、人差し指をトリガーに引っかけていた。無意識下の行動だった。自分でも、右手に突然グロックが握られている! と思ったほどだ。

 この中に、誰かいる。

 いや、誰かがいるのは問題ではない。

 複数の人間がいるのが、問題なのだ。

 午後四時に行われた閏流うるうるとのミーティングの、カモフラージュではない一割の時間で、相手方は単独であることを聞いていた。今回の取引に際して明確な契約書を交わしているわけではもちろんないけれども、ブツの取引をする際には一対一であるというのが、ここら周辺では紳士協定となっていたはずだ。相手方からどうしても複数人で来たいと言われれば(当然、物量によって二人以上必要な場合もある)、こちらもその人数を用意する必要がある。要するにこれは、信用問題だった。普通の社会と変わらない。こちらが営業と部長を立てて臨むなら、相手も同格の役職を持った人間を寄越すのが筋で、その辺の感覚は普通の社会と変わらない。

 いや——もしかして、会話ではなく、通話だろうか? その可能性は多いにある。今時、ワイヤレスイヤホンをしながら独り言みたいに通話している人は大勢いる。それと同じように、誰かと通話をしていたのだろうか? あるいは、動画を観ていたのだろうか。取引時間まで暇すぎて、YouTubeでも見ていたのかもしれない。いや、それにしてはあまりに肉声らしさがありすぎた。感覚的なものだが、この建物の中に、二人分の息遣いが感じられる。一度気になってしまうと、微細な物音が、二人分聞こえてくる気もする。

 ぼくはもう一度、グロックのグリップを強く握りしめる。

 月明かりを頼りに、腕時計を見た。

 午後七時五十八分。

 ぼくの役目は、麻薬を渡し、対価を受け取ることだけだ。閏流とのミーティングで、価格は一本だと聞いていた。つまり、百万円。

 そもそもにして、一口に「麻薬」と言っても、種類は様々であるし、定義上は「薬物」と呼ぶのが正しいらしい。そんな言葉尻はぼくにはあまり関心の及ばないところではあるが——だから、もしかすると、今回運んでいるものは「覚醒剤」なのかもしれない。覚醒剤は大体、一グラムあたり五万円から十万円程度の値が付く。例えば大さじ一杯の覚醒剤を『東京ばな奈』に詰め込んだとするなら、まあ百万円くらいの値が付いても不思議ではない。かなりふっかけている計算にはなるが。

 なんでこんなことを考えたかと言えば——とにかく、少量の薬物というのは、上振れも上振れで計算して、やっと価格が一本に達する程度の値打ちしかないのだ。大変に質が良い覚醒剤を大さじ一杯受け渡して、ようやく百万円の価値がある——可能性がある。ということは逆に言えば、実は薬物じゃないという可能性も考えられる。薬物とは別に、何かが入っているのかもしれない。今更になって、そんな不安が過る。というか、そう考えた方が理に適っている。例えば、公的文書のコピーの電子データであるとか、例えば、秘密裏に行われた会合の盗聴データであるとか。データ、データ。今時、大抵の証拠は小指サイズで収まってしまう。そもそも、物理的媒体を必要とさえしない。それでもわざわざ手渡しするのは、証拠を残さないため。

 証拠。

 そう、証拠はない方が良い。これがただ単に、広義の意味での麻薬取引であれば、それは非常に平和的な取引だった。裏社会において、特殊詐欺の受け子であるとか、麻薬取引であるとか、人身売買であるとか——そういったものは、どちらかと言えばお気楽な仕事と言える。裏社会の人間が、裏の物品を取り扱うだけなのだから。つまり、身内同士の取引なのだ。そこに、悪意は介在しない。犯罪ではあるけれど——決して褒められることではないけれど、まともに、普通に、通常通り、何も知らずに生きている人々にとっては、何の影響もない仕事だ。だから気が楽だ。麻薬を欲している人間に、麻薬を持っている人間が、麻薬を売る。そんなものは、ジャズ愛好家の間で、チャーリー・パーカーの初版レコードが法外な値段で取引されることと、何ら変わりないことだ。好事家同士が、好事家しか興味を示さないブツを高値で取引していることと変わらない。こっちは犯罪だから身を隠しているだけで、やっていることは変わらない。ぼくが今日、麻薬を売ったところで、世界は何も変わらない。少なくとも、表向きは。

 だが——万が一、これが麻薬ではなく、国家を揺るがすような大事件に繋がる情報だとしたら、話は変わる。どう変わるかと言えば——ぼくという証拠を消す理由になる、ということだ。この情報に関わった人間を、片っ端から消していく。そんな頭のおかしい行動を実現させようとするだけの理由になってしまう。

 ただお気楽に過ごしているだけのぼくだって、自分の命が危険になれば、身構える。

 どちらかと言えば、死にたくない。

 強い意志があるのかと言われれば、正直言って——微妙なのだけれど。自分が死にたくないという理由よりも、車を路駐したままだとか、会社に迷惑が掛かるとか、妙な仕事をしているとバレて両親を落胆させるとか、結局最後の晩餐が唐揚げ定食かよとか、そういった、様々な——まあ、本当に様々な理由から、出来れば死にたくないな、と思う。

 でも、ここで死んでもいいか、と思う自分がいるのも本当だ。

 だから、強い意志があるわけではない。

 なかった。

 なかったからこそ、ぼくはこの出来事を思い返せているのだけれど————とにかく、ぼくは半ば諦め気味に、グロックを持った右手に左手を被せ、体の前に両手を持って来て、一見すれば紳士的な状態で、廃墟に足を踏み入れた。いろいろ逡巡したけれど、午後八時、時間が来れば腹を括るしかない。それが悲しき社会人なのだ。

 廃墟に足を踏み入れると、表の走行音は急激にトーンダウンして、室内の息遣いが鮮明に聞こえてきた。不満さを孕んでいた男の声は今は聞こえず、苦しそうな女の声だけが定期的に響いている。苦しそう? つまり被害者か? 一瞬、警戒を解きそうになる。苦しそうというのは、妙だった。ということは、仲間ではないのか? いや、推理に意味なんてないか。現実だけが真実だ。

「山田商事です」

 ぼくはここら辺でよく使われている隠語を口にした。古き良き暗号である「山、川」をもじった挨拶だ。ほとんどギャグみたいなものだが、だからこそ、この場に相応しいと思えた。耳を澄ませ、意識を研ぎ澄ませる。室内は足音が強く反響する。であれば、中にいた人物には、ぼくが入場したことは当に知られているはずだ。

 ぼくは相手方の返事を待つ。相変わらず、男の声は聞こえない。むしろ、ぼくが室内に入ったからこそ、男は存在感を消そうとしたのかもしれない。順当に考えればそうだ。にも関わらず女の声が残っているということは、意思疎通が取れていないということになる。であればやはり、仲間ではないのか。

 一瞬、遠くで光が放たれた。

 反射的に、身を屈める。壊れたパチンコ台に身を寄せる。光の方向は、アナログ時計の十時方向。建物の左隅に、誰かがいる。元より聞こえていた女の声も、そちらから聞こえてきている。一瞬だったが、位置関係は把握出来た。

「川口工務店です」

 返事があった。ああ、ああ……よ、良かった……ぼくは、思わず息を吐いていた。安堵だった。良かった。話の通じる相手だった。同時に、光の正体がスマートフォンであることにも見当がついた。きっと、彼は時間を確認したのだろう。真っ暗闇の中、時間を確認せずにいたから、ぼくの声を聞いて、現在時刻を確認したと考えるのが妥当だ。犯罪中にスマホで時間を見るな、なんてことは今のご時世言いたくないが、もうちょっと気を遣って欲しい。

 しかしそうなってくると、二名分の息遣いは、余計に不可解だ。

 話が通じる相手だと分かったからこそ、ギャグの暗号を交わせる程度には慣れている相手だと分かったからこそ、気になることがある。

 女の声は、一体何なのか。

 ——まさか、幽霊ってこともないだろうし。

 ぼくは一瞬の光と男の声を頼りに、ゆっくりと暗闇の中を進む。

「足下、危ないですよ」と、控えめな心配の声が上がった。やはり、取引相手は話の分かるやつ——というか、ただ単に同業者であるらしい。もちろん、そう装っているだけという可能性も考えられるが、少なくとも空気感はいつも通りだ。「こんな場所で取引させてもらって、わざわざすみません」と、労いの言葉も降ってくる。

「いえ、こちらこそいつもご贔屓いただいていて——」

 男(たち)がいる建物の角は、恐らく、一番闇の深い場所だった。入り口からの光も、入り口から見て右手側にある窓枠から申し訳程度に入る月明かりも届かない、完全なる闇の部分。それでも、暗闇に目が慣れると、物の輪郭程度は判断出来る。

「商品のお届けに参りました」

「ありがとうございます。これから、電気をつけますね」

 言って、男は今度はスマーフォトンではなく、LEDライトを付けた。ランタンのような形をしているが、プラスチック製だろう。温かみのない、効率だけを求めたような白光が周囲を照らし——ぼくは、ようやく全貌を把握する。

 実際、取引相手と思しき人間は、男がひとりいるだけだった。

 が、女もいる。

 そしてその二人は、どこからどう見ても、仲間のようには思えなかった。

 男が立っているすぐ近く——比較的形を保っているパチンコ台の前に、床に固定された椅子の上に——声の主はいた。苦しそうな、くぐもった声を上げていた女が——固定されていた。抵抗の意志があるようには見えないが、体勢の問題か、それともビニール紐で縛られているからか、あるいはガムテープによって言葉を封じられているからか——断続的に、苦しそうな、喉を鳴らすような声が漏れている。

「こちらは」

 ぼくは思わず、そう問わざるを得なかった。知っている制服だった。何度か、取引をしたことがある。県内で一番のお嬢様高校の制服だ。つまり、女子高生だった。背もたれの低い椅子に縛り付けられている。だが、椅子を回転させて音を出さないようにか、左右の椅子にもロープで縛り付けて、固定してある。口元にはガムテープ。足下には学生鞄。中身は床に広げられている。

 強姦でも、あったのだろうか。

 いや、足首と膝でも縛られているから、単に拘束されているだけのように見える。まあ、足首と膝を拘束していても一方的に行為には及べるだろうが、律儀に身なりを整えたりはしないだろうから、まだ事前段階なのだろう。

「今回の取引とは無関係です」

 男は言った。詮索するな、という意味だろう。

 女子高生はヘッドフォンはしていないし、目隠しもしていなかった。彼女は、何故かぼくを見ている。まさか、こんな不可抗力的な形で犯罪現場を一般人に見られることになるとは。いや、一般人ではないのか? それとも、これから先、彼女は一般人には戻れなくなるのだろうか。鼻から上しか見えないが、整った顔立ちだった。いや、人間は鼻から下がない方が綺麗に見えるだけなのかもしれないが。

「あ、これ、念のためです」ぼくは自分がグロックを握ったままだったことに気付いて、まず言い訳をした。「二人いるな、と思ったので」そして、内ポケットにしまう。

「いいですよ、大丈夫です。むしろすみません、突然のことで。取引もあるし、応援を呼ぶわけにも行かなかったので、とりあえずこれは拘束しました」とりあえずで拘束なんてことが有り得るのか。「取引場所に、想定外の人間がいれば、誰だって警戒します。だから、あなたが警戒するのも当然です。気にしていません」

「……突然のこと、と仰ってますけれど、私が来るまで随分待たれたんですか?」

「いえいえ、一時間前に着いたくらいですよ。車で来ると危ないので二時間ほど歩く予定だったんですが、思ったより早く到着しまして」

 ああ、車じゃないのか。

 警戒レベルで言えば、ぼくよりもよっぽど裏社会の人間らしい動きをしている。ならなんでスマホで時間を確認したんだよと言いたかったが、案外、そういう小さい部分は気にしても仕方のないところなのかもしれない。考えてみれば、彼は大金を持っているだけなのだから、今のところ何の犯罪も犯していないのだ。女子高生を拘束している、という一点に目を瞑れば。……いや、廃墟に不法侵入しているというところにも目を瞑る必要があるか。世の中は本当に、犯罪だらけだ。

「実は……私は車で来ているんですが。少し先のところに駐めてあります。お困りでしたら、力になりましょうか? これは、サービスで」

「いえ、誰かに取りに来させますから、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 男は、見た目はただのサラリーマンという雰囲気だった。サラリーマンの中でも、十把一絡げの分類の、である。見た目に気を遣っているとも言いがたい、どこにでもいそうな、中堅サラリーマンだ。もし万が一、警察にこの現場を見られても、女子高生とパパ活していました、趣味で青姦に興じていました、緊縛プレイが大好きなんです、と言えば、通りそうですらある。それくらい、犯罪とは無縁の見た目をしていた。もちろん、捕まるは捕まるのだろうけれど……麻薬所持に比べたら大したことはないだろう。いや、そういう話じゃないか。世の中が犯罪だらけで、よくわからなくなってきた。

「この子、バラすんですか?」

「まだ何も」決めていない、ということだろう。「一時間ほど前に到着して、この子に襲われそうになって、慌てて固定しました。かと言って、取引前に外部と連絡を取るわけにも行かなかったので、どうするかは保留中です」

「そうですか」

「じゃあ、取引、しましょうか」

 男の顔は、雑談は終わりだ、と物語っているようだった。

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