第4話

 閏流うるうるとの会話に引っ張られたわけでもないけれども、夕飯は唐揚げ定食にした。

 埜水のみず市に入ってすぐのところに、複合商業施設がある。一応は『埜水フラワーモール』という名前がついているらしいけれど、ほとんどの人は「インター前のあそこ」と呼んでいる。幹線道路のインターチェンジがすぐそばにあるので、そちらの知名度に引っ張られているのだろう。

 午後七時十分に唐揚げ定食が提供されて、そこから二十分掛けてゆっくりと夕飯を平らげた。精神的には落ち着いているが、もしかすると最後の晩餐ばんさんになる可能性もある。平和な生活を送れることは望ましいことではあるが、今日のように、命のありがたみを感じられるというのも、妙な仕事をしている恩恵と言えるかもしれない。まあ、そんなに強く思っているわけではないんだけれど。

 スマートフォンを所持していないぼくは、夕飯を食べている間、ぼんやりと定食屋に備え付けられたテレビを眺めていた。今時、店の角の高い位置に、ブラウン管テレビが備え付けてある。今、この手のタイプのテレビってちゃんと映るのか? と疑問に思ったけれど、実際に映っているのだから映るのだろう。もしかすると、何らかの法に触れているのかもしれないが、ぼくにとってはどうでも良いことだった。世の中は犯罪が蔓延まんえんしている。誰もそれに、強い拒否感を示さないだけで。あるいは、関わり合いになりたくないだけで。

 ————今になって思い返してみれば、ぼくはここで『赤坂あかさか』という名前を目にしていた。本当に、名前を目にしただけだが。それが何で、どういうニュース内容だったのかは、残念ながら唐揚げに舌鼓したつづみを打っていて記憶していないのだけれど……それでも、立派な面構えの病院と、大勢の人間と、『赤坂香奈かな』という名前が表示されていたことを記憶していた。これは無意識的な記憶だった。実際、赤坂亜矢あやと出会うまで、そして同じニュースを見るまで、ぼくはその情報を記憶したことすら、記憶していなかったのだから。

 ともあれ、夕飯を食べ終えて八百円を支払ったぼくは、特に寄り道することなく、おきとうげへ向けてまた車を走らせていた。沖の峠は埜水市に属しているが、感覚的には松野まつの市と埜水市の間——という印象が強い。中継地点というか、通り道というか。多分、店らしい店がほとんどないせいだろう。実際、午後五時を過ぎれば、その辺に点在している施設はほとんど店じまいしてしまうし、一番大きな建物は廃墟と来ている。交通量は多いけれど、人が滞在することがない。そんな好都合な立地が、田舎にはいくつも存在している。

 犯罪の温床おんしょうだ。

 この世の中は、どこもかしこも。

 監視なんて行き届いていない。

 午後七時四十五分に、廃墟のパチンコ屋の前を通り過ぎた。いくら人目のない場所とは言え、さすがに廃墟の駐車スペースに車を駐めるわけにはいかない。ぼくはそこから四百メートルほど離れた路肩に車を駐めて、ハザードをいて置いておくことにした。万が一この路駐をとがめられた際には、電話をしていた、または小便が我慢出来なかった、という言い訳をすることに決めている。一度も使ったことはないけれど、備えあれば憂いなしということだ。

 路駐した場所から、四百メートル。大体五分ほど歩いて、パチンコ屋の前につく。取引時間まで、十分ほどあった。中で待っていても良いのだけれど、正直言って、この廃墟は幽霊を信じていなくても入場を遠慮したくなるような暗さを持っている。ここには以前、日中にも来たことがあったが、パチンコ屋という施設のせいか、昼間でも室内にほとんど陽が入らない仕様になっているのだ。加えて、床にはびたパチンコ玉が転がっていたり、破壊された備品が荒れ放題に散らかっているので、物理的にも危険である。可能であれば、時間になるまでは外で待っていたい。

 こんなときに喫煙の趣味でもあれば暇を潰せるのだろうな……いや、喫煙なんかしたら、証拠が残るか……などと考えながら、一応は車道から見えないように朽ち果てた看板(留め具が外れて、ポールに立てかけてあるだけのもの)の内側に身を隠して、月明かりを頼りに腕時計をじっと見つめていた。耳に聞こえるのは、断続的な車の走行音だけ。渋滞するほどでもないが、かと言って完全に途切れるわけでもない走行音は、なんとか十分程度、ぼくの退屈を溶かしてくれそうだった。

 が——

 まるで、海岸で一瞬、全ての波がリズムを揃えて音を消すように、凪の時間が訪れた。意識を奪われるような——ぼくに意識があるかどうかは別として——そんな感覚が、脳裏を過った。静けさだった。ほんの一瞬、聴覚か、あるいは世界に異変が起きたのではないかと思えるような静寂が、ぼくを襲った。あるいは、見放されたのか。

 そこで、ぼくは廃墟の中から、思いも寄らない音を聞くことになる。

 控えめながら不満気な男の声と、抵抗する女の声を。

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