第3話
約束通り、午後四時に会社に戻り、閏流と打ち合わせをした。打ち合わせのうち九割はカモフラージュだった。ぼくがわざわざ会社に戻ったメインの理由は、その後に行われた、「先方からいただいたお菓子」という名目で、小袋に入った麻薬を閏流から受け取ることだった。
どこまでカモフラージュを完璧にしたいのかは謎だけれど、この手のブツを受け渡しする際は、本物のお菓子が利用されることが多い。お菓子の箱を開けて、そこからひとつ包みを取り出し、ぼくに渡してくる。そして、何も知らない経理担当のおばちゃん社員には、本物のお菓子が渡される。もちろん、お飾りの社長にも渡される。正真正銘の一般人であるおばちゃんをまきこむのは忍びないけれど——一般人が周りにいるからこそ、慎重さが保たれるというわけだった。
今日の場合は『東京ばな奈』が採用されていた。箱を開けると『東京ばな奈』が八個分、個包装されていて、その中のひとつを閏流が手に取り、ぼくに渡す。一見すると、判別がつかない。見た目は完璧に、ただの菓子だ。恐らくは本物の『東京ばな奈』の中に、ビニール袋に包まれた麻薬が入っているのだろう。見るからに少量なので、結構強めの薬なのだろうと判断する。ぼくもそれなりに麻薬の種類を記憶しているが、中身が何なのかは別にどうでも良かった。むしろ、知らない方が安全とも言える。
八個入りの『東京ばな奈』のうち、ひとつが麻薬入り。ふたつは社長と経理担当のおばちゃん社員の手に渡ったので、残りは五個。会社にそのまま置いておいて、おばちゃんのおやつになるパターンもあるし、閏流が家に持ち帰って、妻子と分け合うパターンもある。今日の場合は前者だった。
「もう一個もらってもいいですか?」とぼくが尋ねると、「晩飯前なんだから、食べるのは一個にしとけよ。一個も食べなくてもいいけど」と閏流から忠告が入った。もちろん、『間違えるなよ』という意味の忠告だ。何も知らない経理のおばちゃん社員は「子どもが怒られてるみたいねえ」などと平和な発言をしていた。この平和さこそが、裏社会においては重要なのかもしれない。
何か奇を衒ったわけではなく、本当に『東京ばな奈』が食べたかっただけなので、ぼくは安全な方の『東京ばな奈』を一口に放り込んで、定時までパソコンを開き、マインスイーパーをして過ごした。定時になるとおばちゃん社員は颯爽と立ち上がるので、本社には残業という概念がない。とてもホワイトだ。ぼくの仕事内容はブラックだけれど。
午後六時に退社し、会社の駐車場に駐めてある自分の車——ぼくはタントに乗っている——に戻り、シートを倒して沖の峠までのルートを反芻した。
タントのグローブボックスは二重構造になっていて、通常通りに蓋を開けたあと、ギアを「N」に入れた状態で内部の天井部分を上に押し上げると、そこが外れる仕組みになっている。仕組みにはなっているが、どういう仕掛けになっているかぼくは詳しくは知らない。サイレンサー付きの拳銃——グロックというモデル——は、そこに丁重に保管してある。月に一度の整備を義務づけられているが、割とサボりがちなのが正直なところだ。先輩社員であった
二十分ほど瞑想したあと、今日の仕事のスケジュールを組み立て、ようやくエンジンを掛けた。沖の峠までは、この駐車場をスタート地点としても、おおよそ五十分程度で到着する。あまり早くに行っても人目につく確率が上がるだけだし、かと言って渋滞や工事が発生した場合、取り返しのつかないことになる。となれば、沖の峠を通過して、
諸々の想定を済ませたぼくは、サイドブレーキを外して、ギアを切り替え、雑居ビルを後にした。これからぼくは、犯罪行為に手を染める。否、麻薬を所持している時点でアウトだ。常日頃からこうした悪事の片棒を担いでいるけれど、流石に言い逃れできない状態になると、多少は緊張する。かと言って、それを嫌だとも思わないし、好ましいとも思わない。言われたからやっている。裏社会の人間と言えば聞こえは良いけれど、ぼくがやっていることはそこら辺のサラリーマンとほとんど変わらないんじゃないかと、ときどき思ってしまう。
だってぼくは、上司に言われた通りに、仕事をしているだけなんだから。
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