第2話
その日のぼくは、朝九時に本社に出社して、タイムカードを切り、自席でスケジュールを確認していた。本社と言っても、社員総数三十名に対して、六名程度しか満足に活動出来ないような、雑居ビルの一室にある事務所だった。そして実際には、本社勤務をしているのは四名。お飾りの社長と、ぼくに直接指示を下す裏社会の人間、そして経理担当と、ぼく。たまに営業の人間が出入りすることもあるけれど、基本的には数名しか利用していない。名目上はぼくも営業ということになっているが、実際には営業なんてしていない。何故ならぼくは、日常的に犯罪活動をしなければならないからだった。
ぼくに直接指示を下す裏社会の人間——名前を
「
始業してすぐに閏流に呼ばれ、ぼくは彼の後ろをついて、雑居ビルの背面にある喫煙所へ向かった。ぼくは喫煙者ではないが、閏流はヘビースモーカーであるので、指令は主に喫煙所で下る。いくらなんでも、一般人の前で堂々と犯罪の指示を出すわけにもいかない。
「仕事ですか」
喫煙所について、閏流が一服してから、ぼくは尋ねた。これから犯罪の指示を受けるとは思えないような天気の良さだった。
「伊地知、朝飯は何を食った?」
「特に何も。朝は食べないことが多いので」
「あそう。昼飯はどうする? 食べる気がなくても答えてくれ」
「仕事次第ですかね。コンビニで買い食いするか、どこかに食べに行くか……」
「昼は特に会議もないから、時間通りに食えばいいよ。俺も昼は出る用事がある。用事がなくても昼には出るんだが」
「そうですか。じゃあ、昼は牛丼とかですかね。ランチ五百円とか」
「まあ、朝も昼も大して重要な食事じゃないから、適当にエネルギーを摂取出来ればいいだろうな。ただなあ……夕飯だけは大事なんだよ。そこに意味なんてなくても、夕飯は大事だ。でな、今日の夕飯はなあ、俺はチキンがいいなと思ってるんだ」
「チキンですか。いいですね」
自然か不自然かで言えば、あからさまに不自然な会話の運びだったが——まあ、ギリギリ許容範囲だろう。そもそもにして、閏流は日常会話からして不自然だから、どれだけ不自然なことを言っても、不自然という自然さを孕んでいる。
「夕飯はチキン」というのは、隠語だった。一口に隠語と言っても種類があるが、これは完全にぼくと閏流の間でしか伝わらない隠語で——むしろ、暗号と呼ぶ方が適切かもしれない言葉だった。
「晩飯、お前は何時くらいに食ってるんだ? 食ってなくても教えてくれ」
「自分はー……どうすかね、退社時間によりますね。バラバラです」
「二十時には食った方がいいらしいぞ、遅くとも。何がいいのかは知らんが」
「そうなんですか。分かりました」
これも暗号だ。というか、指令だった。
「まあ、俺も若い頃は仕事終わりに遊んでばっかりいたから、決まった時間に夕飯なんか食わなかったけどな。俺がお前くらいの時は、大体、仕事終わりはパチンコ打ってたよ」
「パチンコですか」これも暗号のような気がする。「スロットじゃなくてですか?」
「パチンコ派だなぁ、俺は。スロットはやったことないけどな」
わざわざパチンコを強調するということは、やはりこれも暗号なのだろう。このように、ぼくがすぐに判別出来ない暗号が送られてくることもよくある。というより、『チキン』のように決まった行為であれば隠語が用意されているが、受け渡しの場所なんかはその時その時で変わってしまうので、全てを全て暗号化出来るわけではない。
「閏流さんは、どの辺で打ってたんですか?」
「まあ、色んな場所で打ってたけど……そうそう、一番よかったのはあれだ、沖の峠の中腹に、廃墟になってるパチンコ屋があるの知ってるか? お前が知ってるのを俺は知ってるから聞いてるんだけどな」
「あー……」ぼくは記憶を辿り、その位置を特定する。過去に二、三度利用したことがあった。もちろん、遊戯目的ではなく、仕事として。「ハッピースターでしたっけ」
「おう。あそこはなあ、仕事中にサボってよく行ってたよ。遠いから、知り合いに会わねえし、駐車場も広かったからな。そもそも、誰もあんな峠道通らねえからな。いや、通るから峠道なんだけどな」
「ですねえ。まあ、道としては優れていても、立地が良いとは言えないんでしょうね。だからこそ潰れて、廃墟になってるんでしょうし」
閏流は煙草の火を消すと、手慣れた様子で二本目を取り出す。が、すぐには火を付けずに、「今日も外回りだろ、お前。予定がなくてもそうしてくれ」と、煙草を口元で揺らしながら言う。
「ですかね。直帰の予定はないです」
「じゃあ、帰ってきてからでいいんだが、定時前にちょっとミーティング入れていいか? よくなくても入れるんだが。あのー……どこだ、先週くらいにお前がやりとりしてた会社あるだろ? あるんだよ」
「はい」そんな会社はもちろん存在しない。「何か不備がありました?」
「いや、二、三確認したいことがあるだけだ。俺もこれから出なきゃいけないから、夕方じゃないと時間が取れなさそうでな。悪いんだが、四時、五時……くらいに戻って来てくれ。オンラインでもいいんだが、書類についての確認だから、対面の方が楽でな。何が楽なのかは秘密なんだが」
「了解です」
「ところで最近」閏流は二本目の煙草に火を付ける。「なんか新しいゲーム出たろ、すごい売れてるやつの、三作目? あれをうちのガキがずーっとやってんのよ」
ここから先は指令ではないと判断して、ぼくは閏流の話を話半分に聞き流しながら、内容の整理を始める。
この会話で一番重要なのは『チキン』という単語だったが、これは『麻薬』の『運搬』を意味する暗号だった。本来、暗号に意味など不要なのだが、それでも関連付けが出来た方が人間が理解しやすいということで、一応の理由がある。『麻薬』は白い粉なので、『片栗粉』や『小麦粉』に似ている。閏流はここから『小麦粉』を採用して、その最初と最後の文字を取って『コッコ』とした。コッコなので、にわとり。しかしここで『にわとり』としないところにはもう一捻りあって、つまりは『加工品』であることを意味しているらしい。となると、裏ルートで回ってきた粉そのものを横流しするのではなく、弊社が管理するようになった麻薬のうちのいくらかを、個別に販売するという意味を持つ。要は、○グラムが末端価格でいくら……というやつだ。
『チキン』を二十時までに食べた方が良いということなので、取引時間は二十時。そして取引場所は、沖の峠にある廃墟と化したパチンコ屋だ。ここは夜になると肝試しと称して若者が出入りしたり、お盛んな若者が酒盛りして乱交パーティをしたりと散々な扱われ方をしている稀有な場所である。車で二分も走れば、自作の工芸品を販売している喫茶店があったり、野菜の直売所があったりするのだけれど、この廃墟だけは十年以上手つかずのまま放置されている。あるいはその土地の権利そのものを、裏社会の誰かが握っているのかもしれないが——まあ、ぼくには関係のないことだ。
「あ、そうだ。閏流さん、あとで会議の時に直接聞けば良いかもしれないんですが……」
「うん?」
「その取引先との書類って、サインが必要な書類のことですか?」
閏流は一瞬の間を置いて、「確認するけど、多分必要なやつだったと思うよ」と答えた。『サイン』は『サイレンサー』を指す言葉だった。つまり、拳銃を携帯すべきという意味だ。
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