『インクリネイションの錯角』
福岡辰弥
第1話
それが
まあもちろん、一般的な生活を送っている人であれば——あるいはよほど特殊な性癖でも持っていない限り——赤坂亜矢という単なる女子高生を個別に認識することなどないのだろう。しかし、曲がりなりにも(正確には成り行きで)裏社会というところに属しているぼくのような人間であれば、赤坂亜矢という要人については多少なりとも知っているのが、普通であるらしい。あくまでも、裏社会においての『普通』だが。
しかしこれは、ぼくが偶然どこかで知っていたのにうっかり忘れていた、という類のことではない。正真正銘、徹頭徹尾、知らなかった。ぼくは他人に対する興味がないだけで、記憶力が弱いわけではないのだ。むしろ、どちらかと言えば記憶力は良い方だと自負している。一度聞いた名前は忘れないし、一度見た顔も忘れない。まあそれは一般的な記憶力の範疇としても——たとえば、写真記憶とまでは行かないまでも、一度目にした情報を、少なくとも一ヶ月以上は記憶していられるだけの能力がぼくにはある。本を読んだとき、その字面が本の左右のページのどちらにあったか、あるいはノンブルまで一緒に認識していれば、何ページに配置してあったか、それが何行目にあったのかということを、事細かに思い出すことが出来る。もっとも、全ての状況においてその記憶力が発揮されるわけではない。自分なりに、「これは覚えておいた方が良い」と自覚的に記憶したり、あるいは「面白い情報だな」と無意識的に刻み込んだ情景は、そのまま覚えているというだけに過ぎない。一生のうちに記憶出来る情報はきっと限られているだろうから、その容量を圧迫しないように、日々取捨選択をしているのだろう。
だからと言うわけでもないのかもしれないけれど——とにかく、今更ながらに本題を話すと、一度文面で読んだ情報はよほどのことがない限り忘れないぼくは、いつの間にか裏社会に属していて、あまり人には言えないような生活を送るようになっていた。そして、赤坂亜矢と出会ったというわけだ。
因果関係が曖昧に聞こえるかもしれないけれど、要するにぼくはほとんど証拠らしい証拠を残すことなく、犯罪を全う出来る才能に恵まれていた。自分の仕事についてとやかく語るつもりもないけれど、たとえばわかりやすく——ただただわかりやすい例で言えば、何月何日の何時に、どこどこで、こういう顔をした女が殺人の取引を持ちかけてくるから、その場で事故死として処理しろ——と言われれば、それをメモすることもなく頭に叩き込むことが出来る。それが、何ヶ月先の仕事であろうと、意識的に記憶してしまえば、忘れることはない。
そんなことは普通の人間にも出来るだろ、と言われればそれまでだけれど、重要なのは、ぼくの場合は証拠を残さないというその一点に限る。通常、どれだけ物覚えの良い人間でも、万が一に備えて情報を記憶し、記録する必要がある。その記録を辿られ、お縄につくことも往々にしてある。しかしながら、ぼくは記録しない。スマートフォンも持たない。仕事の依頼は口頭か、あるいは手書きのメモから入手して、それを記憶し、証拠は破棄する。
どこにいても監視されていて、ほとんど全ての情報が電子的に保存される時代において、ぼくのような人間は使い勝手が良いらしいのだ。まあとは言え、それは必要条件でも十分条件でもないと言われればそれまでだ。記憶力が良いというスキルは、別に裏社会で生きるために必須のスキルではない。どころか、どんな環境においても優遇されるべきスキルと言える。じゃあなんで裏社会と称されるような場所で、お天道様に顔向けできないような仕事をしているのかと問われれば——どうしてだろう、多分、ぼくには意思らしい意思というものがないからだった。
生まれてこの方、ぼくは自らの意思で行動を起こしたことがないと言っても過言ではない。出来れば過言であってほしいと願うぼくもいるのだけれど、悲しいかな、本当にそうだった。多分、何らかの病気なんだろう。強い意志というものを持ったことがない。意思というよりは、意志。物心ついた頃には幼稚園に通っていて、それは言われるがままにそうしていたし、小学校にも義務教育だからという理由で通っていて、中学校もそうだった。高校は親に言われるがままに受験をして合格し、大学も親の勧めで地元の国立大学に通っていた。そこで出会った悪友にそそのかされ、記憶力の良さを悪用され、今に至る。ぼくだって、出来れば清く正しく生きたいような気もするけれど、じゃあ全てにおいて完璧な生活ってなんだと問われると、答えに窮する。要するにぼくには良いも悪いもない。好きも嫌いもない。なんとなくな望みとか、それっぽい嫌悪感とか、どちらかと言えばこうかもしれない——みたいな曖昧な判断基準はあるけれど、そこに強い意志が介在しているのかと言えば、そんなことは全くなかった。
じゃあ、意志を持てよ、と言われればその通りなのだが。
持とうとしても持てないから、ぼくはこんな生活をしているのだ。
二十八歳にもなって。
まあそれでも、裏社会とは言えど、体裁上は株式会社の社員ということになっているので、説明に困ることは今のところない。裏の顔として犯罪に手を染めている会社ではあるが、表の顔としては脱税もしていないし、帳簿に不審な点もない。完全な悪というわけではないわけだ。社員数三十人の中小企業で、数名の社員は複数の会社にほとんど派遣されるような形で常駐しており、そのうちの一割が本社勤務という名目で、裏の仕事をしている。ぼくがその中のひとり。自分がやっていることが犯罪であることは分かっているのだけれど、そこに対して強い嫌悪感もないし、拒否感もない。
何故かと問われるとやっぱり困るのだけれど、曲がりなりにも社会人であるぼくは、多かれ少なかれ、規模の大小はあれど、世の中の社会人の大半はぼくと同じ犯罪者だと知っている。脱税であったり、着服であったり、契約不履行であったり——まあ、契約に関しては契約自由の原則があるから実際には犯罪ではないのかもしれないけれど——みんながみんな、清廉潔白で生きているわけではないと知っている。
朝起きて、働く元気がなくて、仮病を使うとか。
他人の成果物を横取りして、自分の評価を上げるとか。
あるいは——残業代未払いとか、サービス残業とか。
まあ、犯罪と言うには過激な例ばかりだけれど、清廉潔白でないのは事実だろう。
だから、みんな犯罪者なんだ。
みんなみんな、犯罪者だ。
その一線を越えた後の大小なんて、誤差みたいなもんだろう。
そういう詭弁のような落とし所を見つけて(というか、説かれて)、ぼくは裏社会の仕事をしている。
かなり話が逸れてしまったけれども——とにかく、そんなぼくが、名家と呼んでも差し支えない赤坂家の一人娘である赤坂亜矢と出会ったことについて、軽く説明しておこうと思う。
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