第61話 五体満足で帰さないからな


「好きにくつろいでください。今お茶を淹れます」

「あ、ありがとうございます! へぇえ……兄貴、こんないいところに住んでるんだ」


 程なくして霞さんが到着し、リビングへ案内した。

 緊張して強張った顔をしていたが、紅茶の味が気に入ったのかすぐにカップを空にし、「ちょー美味しいですね!」と爛漫な表情で言う。……やっぱり可愛いな、この子。どれだけでも甘やかしたくなる。


「にしても、ビックリしましたよ。兄貴に彼女ができたってだけでもビックニュースなのに、もう同棲までしてるなんて」

「霞さんが来た日から一緒に住み始めました。今のところ、とても楽しく暮らしています」

「……兄貴、断らなかったんですか? 一人暮らしの方が気楽だー、とか」

「一度は断られましたが、話し合いで解決しました」

「解決……したんですか」


 なぜか神妙な顔で呟いて、茶菓子をぱくりと頬張った。


「ところで、要君に話とは何ですか? 直接会う必要があるということは、よほど重要なことなのですか?」

「あー……うーん、いや重要っていうか。わたし、そろそろ地元に帰らなきゃいけなくて。その前に兄貴に確認したいことがあったんですけど、いないなら天王寺さんでもいいです」

「確認したいこと? 私でもいい、とは?」


 その問いに、霞さんはすっと真面目な顔を作った。


「……兄貴って、ちゃんと寝れてます?」


 膝に手を置いて若干前のめりになりながら、ジッと私の顔を見据える。


「一緒に住んでるなら、兄貴が毎晩うなされてること知ってますよね? あれ、今どうなってるのかなーって」

「……残念ながら、今もうなされています。ただ最近は少しマシというか……少なくとも昨晩は、朝まで何事もなく眠っていたと思います」

「ほ、本当ですか!?」


 バッと勢いよく立ち上がり、いきなりのことに私は目を見開いた。

 霞さんは安堵の表情で座り直し、ソファの背に体重を預ける。


「……そっか、そうなんだ。よかった、これでお父さんもちょっとは安心するかな……」

「あの……要君はどういう夢を見ているのですか? 彼、詳しくは教えてくれなくて」


 以前夢の話を聞かされた時、彼はかなりぼかして語っていた。

 あれでは何一つわからない。


 どうやら霞さんは全てを把握しているようだが、私の質問に対して、明らかに難しそうな顔をした。

 ふぅむと腕を組み、視線をあちこちへ泳がせて考え込む。


「……話してもいいんですけど、兄貴の前では知らないフリしてもらっていいですか? 兄貴にとってかなりデリケートな話なんで、たぶん天王寺さんには知られたくないんだと思います」

「わかりました。約束します」


 霞さんは視線を落として小さく深呼吸し、ふっと顔を上げた。

 そこに紅茶を飲んでいた時のやわらかさはなく、かなり大人びて見える。



「――……兄貴は、自分がお母さんを殺したと思っています」



 鼓膜を通じて流れ込んだ情報に、私の頭上は疑問符で埋め尽くされた。

 殺した? 要君が? 意味がわからない。


「心配しないでください、本当に兄貴が殺したわけじゃないので。お母さんが死んだのは車での事故のせいです」

「……では、どうして要君は自分が殺したと?」

「わたしが小二の頃、家族で遊園地に行こうってなったんです。ただ当日になって、わたしが体調崩しちゃって。兄貴、普段は全然ワガママとか言わないんですけど、その時はどうしても行きたいって言い出したんですよ。結局、お父さんがわたしを看てくれることになって、お母さんが兄貴を遊びに連れて行ったんです。……その帰りに、事故に遭って」


 重々しく、苦しそうに、霞さんは絞り出した。

 それを聞いて、要君の言葉が脳裏を過ぎる。


『昔ある人に酷いことをしたんです。取り返しのつかないことを』


 別に要君が悪いわけではない。

 しかし彼の性格的に、自分が駄々をこねたせいで、と思うのは必定だ。


「それからずっと、夢にお母さんが出て来るらしいんです。二人で車に乗ってて、事故に遭って……それで、お前のせいだってぐちゃぐちゃになったお母さんに言われるって」


 何か相槌を打とうと思ったが、声が出なかった。


 霞さんが小二の時ということは、要君は小四。つまり十歳。

 それから十年間、今もなおそんな悪夢にうなされる。


 その苦しみは、私の想像の限界を超えている。


「あちこちのお医者さんに診てもらって、色んな薬を試したんですけど、結局よくなりませんでした。……しかも兄貴、わたしたち家族が酷い目に遭う夢も見るとか言ってて。大学に進学した理由の何割かは、家族と距離を置くためなんです」

「私も同じようなことを言われました。先輩が酷い目に遭う夢を見ると……」

「でも、兄貴は天王寺さんと一緒に住む道を選んだ。だからさっき聞いた時、ビックリしたんですよ!」


 パンと太ももを叩いて、さっきのシリアスさはどこへやら、霞さんは明るい表情を作る。


「兄貴はずっと罪悪感を抱えてて、自分が幸せになるのは間違っているって、そう思い込んでるんです。でも、今は確実にいい方向に進んでいます! 天王寺さんのおかげです、ありがとうございます!」


 深々と頭を下げられ、やめてくれと私は慌てた。

 お礼を言われても困る。私はただ、自分がしたいことをしているだけなのだから。


「たぶん兄貴は、天王寺さんを幸せにするには、自分も幸せになるしかないって諦めたんじゃないですかね? あの……だから、これからも全部諦めさせてやってください。不幸になろうとしても無駄だぞって、わからせてやってください。それはわたしたち家族には、できなかったことなので……」


 そう口にしてすぐ、「重いこと言っちゃったかな」と頬を掻きながら反省する霞さん。「大丈夫ですよ」と私は声をかけて、紅茶で唇を濡らす。


「ここだけの話、私は要君と結婚する気満々なので、そんなふざけた願望は全て諦めさせます。一つ残らず、確実に」

「け、結婚!? ……え、マジですか?」

「私と霞さんの秘密ですよ。……流石にこれは、重いと思われかねないので」

「あー……まあ、確かに。……えっと、じゃあ、お姉ちゃんって呼んじゃおう、かな?」


 へへっと照れ臭そうに後頭部を掻いて、「じょ、冗談ですよ!」と顔を赤くする。

 末っ子の私にとって、その呼び方は妙に魅力的だった。顔に装備した無表情を突き破り、口元が自然と解れる。


「でしたら私は……霞ちゃん、とお呼びしても?」

「えっ! あ、はい、大丈夫です! えーっと……お、お姉ちゃん!」


 うわ、何だこれ。バカみたいに嬉しい。

 お姉様の気持ちが少しだけわかった気がする。


「それにしても、兄貴遅いですね。どこに行ってるんですか?」

「実は私も把握していなくて。連絡も繋がらないので、何かよくないことに巻き込まれていなければいいのですが……」

「大丈夫です、お姉ちゃん。うちの兄貴をどうこうするのって、ゾウと素手で闘うより難しいですから。お姉ちゃんが待っている以上、絶対無事に帰って来ますよ!」

「……」


 比較対象が、ゾウ……?




 ◆




「ちょ、ちょっと! あんた何やってんのよ!?」


 私を地面に組み敷いていた糸守が、おもむろに立ち上がった。男に銃を向けられたまま。

 こういう時どうするのが正解かわからないが、少なくとも動くのは得策ではないだろう。下手に刺激して撃たれたら元も子もない。


「……その銃、俺以外に向けるなよ。朱日先輩の家族を傷つけたら、五体満足で帰さないからな」


 喉元にナイフを突きつけられたような鋭い声に、私はすぐさま閉口した。

 男は銃を持ちながら、それでも一歩後退る。しかしグッと歯を食いしばり、額に汗をにじませながら前に出る。


「テメェ、この状況がわかんねぇのか!!」


 躊躇なく引き金を絞り、鼓膜を割るような火薬の音と共に弾丸が射出された。

 糸守は毛ほども臆さず前に進みながら、顔を僅かにずらした。……もしかして、今避けたの? 弾を?


「な、何だよお前! 何がしたいんだよ!」

「何って、こっちには飛び道具がないんだし、こうやって近づかなきゃどうにもならないだろ。俺一人で逃げたら、雪乃さんがどうなるかわからないし」

「だからって、頭おかしいのか!? 命が惜しくねえのかよ!!」

「惜しいよ、今は。それに朱日先輩と怪我しないって約束したから、ちゃんと守れるかヒヤヒヤしてるし」

「は? や、約束?」


 何でもなさそうに会話をしながら、着地に前へ進み。

 今、糸守と男の距離は三メートルほど。糸守はようやく立ち止まり、僅かに腰を落として構える。


「この距離だったら、あんたが引き金を引くより先に腕を折れる。……だからもう、よくないか? 一緒に雪乃さんに頭下げるから、そっちのやつと海外に逃げろよ。それでもう、二度と顔を見せないでくれ」


 銃と素手。本来なら絶望的状況なのだが、この場の空気を支配していたのは糸守だった。

 私は素人だが、あのヤクザが勝てる未来が見えない。絶対に外すわけがないこの距離で、ただ引き金を引けばいいだけなのに。


「……ふ、ふざけんなよ。何が腕を折れるだ! やってみろってんだゴラァ!!」


 声を張り上げ、引き金にかかった指に力を込める。

 私が瞬きをした僅かな隙に、糸守は宣言通り男の腕に蹴りを入れた。手から銃が零れ落ち、腕はあらぬ方向に曲がり、ちょっとしたオブジェのような形に仕上がる。


「もうそっちの負けでいいよな?」

 

 後ろに控えていたもう一人の男に、糸守はそう尋ねた。

 その問いの答えは、もはや言うまでもない。

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