第46話 朱日先輩


「えっへへー。糸守君、かんぱーい!」

「呑み過ぎです、先輩。一旦水とかにしときましょうよ」


 二時間後。

 ひとまず先輩の家に一時避難し、いつものように呑み会が行われた。

 ジンのオレンジジュース割り。いわゆるオレンジ・ブロッサムを先輩はいたく気に入ったようで、もう五、六杯は呑んでいる。


「やだやだー! だってぇ、今日は糸守君のバイト合格祝いだよ? 呑まなきゃ損じゃん!」

「い、いやまだ、やるって言ってませんから! 今日一日、泊めてもらうだけなので!」

「えぇー? そっかぁ……糸守君にとって私って、必要な時に寝床貸すだけの都合のいい女なんだ……」

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ!?」


 ぷくーっと頬を膨らませて、「もういいもん!」とコップの中身を呑み干した。

 酒気の混じった息を落として、アルコールで焼けた顔とは対照的に、少し冷めた目で俺を見る。……これはちょっと、わけを説明しないとまずい雰囲気だな。


「勘違いされたら困るんで言っておきますけど、別に先輩のことが嫌いとかじゃありません。ただ何て言うか、その、バカみたいな話なんですけど……」

「いいよ、言って。笑ったりしないから」

「……あ、あの俺、昔ある人に酷いことをしたんです。取り返しのつかないことを……その時のことがずっと、毎晩みたいに夢に出てきて。それがその、すごく怖くて、辛くて……」

「うん」

「でも、先輩と一緒に寝るとマシになるんです。途中からすーって無くなって、あとはずっと先輩が手を握ってくれてて、それがとっても温かくて」

「……そっか」


 そう言葉を返して、先輩の口は淡い弧を描いた。

 達成感を噛み締めるような、深くて力強い笑みだった。


「だったら、余計に一緒に暮らすべきじゃん。何が問題なの?」

「その夢が最近変わって……せ、先輩が酷い目に遭うんです。たぶん、先輩との関係が深まったのが原因だと思います。その上更に同棲とかまでいったら、もっと酷いことになるかも……」

「でもそれは、夢の話なんだよね?」

「いや、俺だってわかってますよ! こんなの現実じゃないってことは! ……でも、実際に先輩の身に何か起こるんじゃないかとか考えちゃって。俺がやったことの報いを、先輩が受けたらどうしようって。俺が今以上に幸せになるのは、もしかしたら間違ってるんじゃないかって……」


 二十歳にもなって何を言っているんだ、という自覚はある。

 夢の話を現実に持ちだして、お前はバカかと笑われても仕方がない。


 それでも、怖いものは怖いんだ。


 俺自身はどうなってもいい。

 だけど他人が……まして、先輩が傷つくのは耐えられない。迷惑をかけたくない。嫌われたくない。


「……はぁ?」


 呆れた声と共に、ソファの上に立った。

 酔っ払っているのもあり、身体は右へ左へと危なっかしい揺れ方をしている。


「ちょ、ちょっと何して――」

「うるさいばかー!」


 俺の顔面目掛け、手に持っていたクッションを投げつけた。

 痛くとも何ともないが、言動の意味がわからず脳内が疑問符で埋まり身動きが取れない。


「私の身に何か起こる? そんなのどんと来いだよ! 糸守君が何やったとかどうでもいいけど、私が報いを受けた分だけ糸守君が助かるなら別にいいよ! だって私、彼女だもん! 糸守君のこと好きだもん!」


 地団駄を踏み、そのたびにソファはもうやめてくれと悲鳴に似た音をあげた。


「あと、今以上に幸せになるのが間違いとかふざけんな! 意味わかんないよそんなの! 私誓ったよね、糸守君を幸せにするって! あれ、糸守君的には迷惑だったわけ!?」

「……そ、そんなこと、ありません。嬉しかった、です」

「だったら、私を理由に前に進むのを怖がったりしないで! 自分が幸せだと思う方に歩いて! 私の幸せを願うくらい、自分の幸せに一生懸命になって!」


 ふらりと身体の軸がずれて、先輩はテーブルの方へと倒れて行く。

 間一髪のところで俺は先輩の服を掴み、思い切り引っ張った。「大丈夫ですか?」と背中をさすると、先輩は俺の背中に腕を回して強く抱き締める。


「……同棲くらいでそんなうだうだ言われたら、もっと先に進めないじゃん。いつか私が、糸守君と家族になりたいって言ったらどうするの? 糸守君との赤ちゃんが欲しいって言ったらどうするの? 夢が怖いからって断るの?」

「そ、それは……」


 先輩の不安はもっともだ。

 今は彼女彼氏だが、いつまでもこのままとは限らない。


「怖がるのが悪いって言ってるんじゃないよ。そうやって私のこと大事に思ってくれるのは嬉しいし。……でもさ、糸守君は神様じゃないんだから、私を全部から守るなんて無理だよ。私もそこまでのことは望んでないし」

「……そう、ですか」

「もっと私のこと、信用してくれてもよくない? 仮に糸守君のせいで傷ついたからって、それで嫌いになったりしないし、目の前からいなくなったりもしないよ。……それとも糸守君は、私のせいで嫌な目に遭ったらすぐにいなくなっちゃうの?」

「そんなことないですっ! い、いなくなるとか、絶対に……!」

「じゃあ、私の気持ちわかるよね。自分だけが頑張ればいいとか、我慢すればいいとか、そんな風に思わないでよ。頼って、寄りかかって、迷惑かけてくれなきゃ、恋人やってる意味ないじゃん」


 身体を少し離して、俺の肩のあたりにがんっと拳を振り下ろした。

 ちょっと小突いた程度。痛みなどないのに、凄まじい衝撃が身体の芯にまで達する。

 

 嬉しくて、ありがたくて、肩の荷がおりたようで、熱い思いがこみ上げてきた。

 それを見られまいと先輩をキツく抱き締め、顔を見られないようにして波が引くのを待つ。……しかしこっちの魂胆など筒抜けなようで、先輩は意地悪っぽく笑いながら俺の後頭部を撫でる。


 ……やっぱり、先輩は強い。


 俺の心配事をどうでもいいと切って伏せて、その上でついて来いと道を示してくれた。こんな人と一緒に寝てたら、そりゃあ悪夢も失せるわけだ。


「とりあえず今日一日泊まったら、明日は一回帰ります」

「……うん」

「それで、その……着替えとか諸々持って戻って来ます。結構多くなると思うので、迷惑じゃなければ車回してくれると嬉しいです」

「いいよ、それくらい。っていうか荷造り、私も手伝うし」

「ありがとうございます、先ぱ――」


 続く言葉を飲み込んで、髪をそっと撫でた。

 腕を解いて顔を見ると、彼女はへにゃりと笑みを作る。ぱちりと瞬いたその瞳には、俺だけが映っている。



「ありがとうございます、あっ……朱日、先輩」



 言い直して、照れ隠しの下手くそな笑みを浮かべた。

 彼女は目を大きく見開いて、すぐにすっと細めて。こつんと額を合わせ、上機嫌に鼻を鳴らす。



「どういたしまして、要君」



 お互いの鼻息を感じる距離。

 そっと浅く唇を交わして、小鳥が囀るように小さく笑う合う。


「わざわざ先輩なんて付けなくていいのに。……まあ、いいけどさ。その方が呼びやすいなら」

「そっちも別に、君付けじゃなくていいんですよ? 普通に呼び捨てにしてくれた方が……」

「要君が呼び捨てにしてくれるなら、私もそうするよ」

「えっ? いや、朱日先輩を呼び捨てにするなんて、すぐには無理です……!」

「じゃあ、お互いに少しずつ慣れていこうね、要君」


 ただ、下の名前で呼ばれただけ。

 たったそれだけなのに、胸中に熱いものが灯る。


 嬉しい。この感情を表現するのに、他に言葉が見当たらない。


 向こうも、俺と同じ気持ちだったらいいな。


 ……そう思って、用もないのに彼女の名を呼んだ。


 朱日先輩は、夏の日差しのような眩い笑顔を見せた。

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