第45話 住み込みのバイト


「もうお腹いっぱいなのですか? 好きなだけ注文してもよろしいのですよ?」

「あっ。いや、あの……だだっ、大丈夫、です……」


 先輩が予約してくれた焼肉店は、おおよそ大学生や高校生が立ち入っていいような場所ではなかった。


 黒を基調とした内装に、高級感漂う照明。

 全席個室で部屋には肉を焼くスタッフが常駐しており、最高の焼き加減で提供してくれる。


 普通の焼肉店に連れて行けば、肉とは別に米を三合、更にデザートまでぺろりと平らげる霞。

 しかし今日は、ヘリでの遊覧飛行に金額無制限のショッピングともう色々とお腹いっぱいなようで青い顔をしている。


「では、少し休憩にしましょう。落ち着いたら、胃袋に余裕ができるかもしれませんし」


 先輩の言葉に、スタッフは一礼して部屋を出て行った。

 俺と霞は目を合わせ、ホッと息をつく。お互いに庶民生まれ、庶民育ち。富裕層の食事は、肩が凝って仕方がない。


「……マジですごいよ、兄貴。こんな彼女に、どうやって拾ってもらったの?」

「いや別に、拾ってもらったわけじゃ……」

「私の誕生日会で、大勢がいる前で告白されました。好きです、何があっても絶対に幸せにします、と」

「う、うわぁー! 何それ、ちょーいいじゃないですか! うちの兄貴にそんなことする度胸があったなんて……!」


 身内の前で、自分のセンシティブな部分に触れられることがここまで恥ずかしいとは知らなかった。

 なまじ嘘を言われていない手前、発言を遮ることができずもどかしい。


「こういうのを逆玉っていうんでしょ? よかったね、もう働かなくていいじゃん!」

「お前、失礼だぞ。俺は別に、先輩がいても働くし――」

「はい。糸守君は働かず、私との時間と家事にリソースを割くべきだと思います」

「それって専業主夫ってことですか!? すごいよ兄貴! 今の、天王寺さんからのプロポーズだ!」

「う、うるさいな! ちょっと黙ってろよ!」

「糸守君、私はうるさかったのですか?」

「いや、先輩のことじゃなくて……」

「では、私の言葉は届いていましたか?」

「あぁー……えーっと、は、はぁあ……」


 目線を右へ左へキョロキョロ。

 やけに渇く喉にウーロン茶を流して、あははと下手くそな笑みを返す。


「でも天王寺さん、本当にこいつでいいんですか? 腕っぷしが立つことは認めますけど、うちの兄貴、別に面白くないですよ?」

「面白いですよ。少なくとも、私にとっては。糸守君は素敵な男性です。いつも私のことを考えてくれて、私では手が届かない一歩先まで連れて行ってくれます。強くて、逞しくて、頼りになって……それなのに少し脆くて、私には弱い姿を見せてくれて。そういうところが大好きです」


 ……あぁ、ダメだ。恥ずかし過ぎて頭が痛くなってきた。

 何だこれ。身内の前で褒められるのって、こんなにもキツイのか?


 霞も霞で顔を真っ赤にしており、自分から話を振っておいて「そ、そっすね」と目を泳がせる。

 ふざけるな、せめて茶化せよ。じゃないと、俺がどういう顔すればいいかわからないだろ。


「でも」


 ふっと霞は顔を上げ、俺と先輩を交互に見た。

 その表情におふざけの気配はなく、純粋な疑問の色に染まっている。


「二人が仲良しなのはわかりましたけど、何で未だに先輩とか糸守君とか、そんな他人行儀な感じで呼び合ってるんですか? 下の名前かあだ名が普通じゃありません?」


 思いがけない質問に、俺と先輩は顔を見合わせた。

 言われるまで一ミクロも気にしていなかったが、確かにそうだ。恋人としてやることをやっておいて、なぜかそこだけ変わっていない。


「ん? お父さんからだ」


 霞はスマホを片手に、「ちょっと失礼しまーす」と部屋を出て行った。


 お昼ぶりの二人だけの時間。

 先輩はすすっと俺に近づいて、誰の目もないのをいいことに肩に頭を乗せた。硬く塗り固められた鉄仮面が徐々に解れ、内側からやわらかな笑顔を顔を出す。


 桜色の唇が、何かを紡ごうと薄く開いた。


 しかしそれはすぐに閉じて、また戸惑いながらも開いて。

 膝の上に置いた俺の手の上に手のひらを重ね、瞳の奥でゆらゆらと炎を揺らす。


「……最初は、糸守君から呼んで欲しいな」


 先輩が言わんとすることは理解できる。


 下の名前で呼ぶだけ。

 これまで二人でしてきたあれこれに比べれば、何のことはない。


 当然で、当たり前なこと。

 だからこそ、俺から言って欲しいのだろう。


「ほら、早くっ」


 先輩はニッと白い歯を覗かせて、期待するように目を細めた。


 先輩の手を握り返して、大きく深呼吸する。


 落ち着け。たかが名前だ。

 むしろ、今まで呼んでこなかったことの方がおかしい。


 ただ間違いを正すだけ。軌道を修正するだけ。

 焦ったり緊張したりすることは、何一つない。


「っ……あっ……け、あけっ――」

「うん、うんっ。それじゃ」


 電話を終えた霞が部屋に入って来た。


 密着する俺と先輩。その姿が、今にもキスでもしそうに映ったのだろう。

 霞の手からするりとスマホが零れ落ち、目を大きく剥きながら頬を赤らめる。


「あっ、その……えーっと、ご、ごゆっくり……!」

「違う違う! 変な気遣わなくていいから!」


 スマホを拾い荷物を片手に帰ろうとする霞。

 何とか誤解を解こうと、俺は先輩の隣を抜け出した。




 ◆




 霞さんにかかって来た電話は、大学での練習に戻るように、という連絡だった。

 大学の人が霞さんのお父さんに伝言をお願いしたらしい。


 流石に実父に反抗する気はないらしく、面倒くさそうに嘆息する霞さんを連れて店を出た。

 糸守君はトイレに行っており、私と霞さんはその帰りと迎えの車が来るのを待つ。


「今日は本当にありがとうございました。とっても美味しかったです! ……あっ、でも、トロフィーとかは大丈夫なんで。他にも色々言っちゃいましたけど、全部冗談ですから! 本当に!」

「そうですか? 私は別に構わないのですが」

「わたしが構います! 無理です! パンクしちゃいますって!」


 しなやかな身体を振り乱し、もういっぱいいっぱいだと訴えた。


 うーん、そういうことなら仕方ない。

 まあでも、今日一日で私の好感度はいくらか上がっただろう。これから仲良くしてくれたら嬉しいな。霞さん、すごくいい子だし。


「そうそう。お父さんに天王寺さんのこと話したら、ちょっと変な感じの反応されたんですよ」

「変な感じ、とは……?」

「何ていうか、うーんと……天王寺さんのことを知ってる、みたいな? うちのお父さんと面識あったりします?」

「……知りません。写真などはございますか?」

「あー、はい。この人です」


 スマホに映し出されたのは、夏の砂浜で豪快に笑う海パン一丁の中年男性だった。


 ……な、何だこの人。

 首から下にビッチリとタトゥーが入っており、糸守君など比較にならないほど古傷だらけ。筋肉量も尋常ではなく、おおよそ一般人には見えない。


「どうですか? 見たことあります?」

「……いえ、ないと思います」

「ですよね。まあ私の勘違いだと思うんで、気にしないでください」


 正直なところ、既視感はあるのだが……。

 単純に糸守君と似ているからでは、と思ってしまう。少なくとも、顔を合わせたり直接会話したことは一度もない。


「お待たせしました。何の話してたんですか?」

「天王寺さんに、うちのお父さんの写真見せたんだよ。去年海行った時に撮ったやつ」

「食後にそんな汚いもの見せるなよ……よりにもよって先輩に……」




 ◆




「……家、メチャクチャだったの忘れてた」


 霞を大学前で下ろし、車は俺の家へ向かった。

 扉を開けて待っていたのは、人が寝泊まりするにはあまりにも非文化的過ぎる部屋。俺は盛大にため息をついて、そっと振り返り後ろの先輩を見る。


「すみません、今日はもう帰ってください。こんなところに先輩を泊められないので……」


 そう言うと、先輩は怪訝そうに眉を寄せて首を傾げた。


「でしたら、私の家に来ればよろしいのでは? ……というか、部屋の復旧は可能なのですか? もうほとんど買い直しになると思いますが」


 こうなったのは霞のせいだ。

 あいつに請求する手はあるが、向こうは向こうで先輩を守ろうとしたわけで。先輩絡みの善意の結果を咎めるのは、俺としては非常に心苦しい。


 かといって、全て買い直す金など今の俺にはない。

 ……どうしよう。マジでどうしよう。


「糸守君っ、糸守君っ」


 弾んだ声で言いながら、俺の服の裾を引っ張った。


 ニヤニヤとした猫のような笑み。

 ふんすと鼻息を荒げて、黄金の瞳を眩いほどに輝かす。


「……とっても条件のいいがあるんだけど、やらない?」

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