第34話 二人分のグラス

 午後九時。


 ようやく全ての作業が終了し、俺はバイト代を受け取って帰路についた。

 想定していたよりも随分と遅くなってしまった。一応事前に先輩に連絡を入れているが、怒って帰っていなければいいが……。


 心配しつつアパートに到着し、階段を駆け上り家へ急ぐ。

 室内には明かりが点いており、晩御飯のいい匂いに迎えられた。玄関には先輩のサンダルがある。よかった、まだ帰っていないらしい。


「先ぱ――」


 居間に入ると、先輩はソファの上で寝息を立てていた。

 テーブルの上には、食べかけのアジフライとチューハイの空き缶が二つ。一人で呑んで眠ってしまったらしい。


「可愛いなぁ……」


 子供のようなあどけない寝顔があまりにも愛おしくて、無意識のうちに口が動いていた。

 起こしたら大変だ。足音を殺してそっとベッドに近づき、ブランケットを取って先輩にかける。帰る時間まで寝かせておこう。


「……んっ?」

「あっ」


 ブランケットをかけたのがまずかったのか、先輩の瞼がぱちりと開いた。

 ゆっくりと身体を起こして、眠いたい瞳を擦りながら周囲を見回す。程なくして俺と目が合い、にへらぁと溶けたアイスのような笑みを浮かべる。


「おかえりなさい、糸守君。ごめんね、寝ちゃってて」

「全然大丈夫ですよ。それより、こっちこそすみません。かなり遅くなっちゃって……」

「ほんとだよー。アジフライを作ったんだけどね、これがとっても美味しそうでさ。お酒と一緒に食べたらもう最高で、いっぱい吞んじゃった」


 へへへと白い歯を覗かせて、ソファを軽く叩く。ここに座れ、という意味だろう。

 大人しく従うと、「うにゃー」と声をあげながら俺の膝の上に頭を置いた。艶やかな金色の髪が散らばり、星のように輝く瞳が俺を映す。


「……でもね、糸守君がいないからすぐ寂しくなっちゃって、もう寝ちゃおってなったの」


 俺の手を取りムニムニと感触を楽しんで、そっと自分の頭の上に置いた。

 両の瞳がぱちりと瞬いて、もの欲しそうな光を宿す。


「んっ……♡」


 そっと頭を撫でると、先輩は甘い声を漏らして身をよじり、俺の腹部に顔をうずめた。腰に腕を回して抱き着き、嬉しそうに喉を鳴らしながら額を擦り付ける。


「ねえ、明後日って何か用事ある? 友達とお祭り行くことになったんだけど、糸守君もどうかな?」

「お祭りですか? 俺は構いませんけど、他の人たちは嫌がるんじゃ……」

「心配しなくてもいいよ。……私、浴衣着ようと思ってるんだけど、糸守君は見たくないの? 来なかったら、一条さんにひとり占めされちゃうよ?」

「行きます! 絶対に行きます!」


 勢いよく返事をすると、先輩は上機嫌に鼻を鳴らした。

 一条先輩のことだ。もし俺が行かなければ、あとから先輩の浴衣姿がどれだけ素晴らしかったか自慢気に語ってくるに決まっている。そんな悔しい思いはしたくない。


「せっかくの夏休みだし、他にも色々やりたいよね。プール行ったり、花火見たり、キャンプしたりさ」

「いいですね。先輩がやりたいこと、全部付き合いますよ」

「糸守君は何かないの? 海外旅行したいとかだったら飛行機出すし、船で世界一周してもいいけど」


 例え話がブルジョワ過ぎるが、この人なら本当に頼めば手配してくれるのだろう。


 それにしても、夏休みにしたいことか。難しい話題だ。

 去年の今頃は、ひたすらバイトをしていた。中高生の頃は勉強に費やしていた。面白おかしい夏休みなど、もう随分と送っていない。


 どうしたものかと考え込み、視線を落として先輩を見た。

 ふっと目が合い、彼女はへにゃりと甘い笑みを浮かべた。それが可愛くて、愛おしくて、俺の口は無意識のうちに言葉を紡ぐ。


「……先輩と一緒にいたいです」

「一緒に? えっ、それだけ?」

「いや、その……ちょっと俺、今以上の幸せって想像できなくて。すみません、つまらない回答で」


 先輩は仕方なさそうに、それでいて満足気に息をついて、「んっ」と両腕を伸ばした。

 意図を察して屈むと、先輩は俺の首に腕を回して引き寄せ軽く唇を重ねる。


「……今日、さ。糸守君がよかったら、お泊りしてもいい?」


 鼻先と鼻先が触れ合う距離。

 先輩はぱちりと目を瞬かせて、こちらの機嫌をうかがうように口を動かす。


 先輩の誕生日に初めてうちに泊まって、一昨日も一緒に朝まで映画を観た。既に我が家には先輩のお着換えセットが常備されており、洗面台には二人分の歯ブラシが差さっている。


「俺は全然いいんですけど、先輩は平気なんですか? 家の人に何か言われたり……」

「大丈夫! そこは問題ないよ!」


 一条先輩が言っていた不穏な台詞が脳裏を過ぎった。

 まあでも、今それについて考えるのはやめよう。先輩が問題ないというのだから、あまり突っ込みを入れて不機嫌になられても困る。


「じゃあ、また朝までお酒呑みながら映画でも観ましょうか。海外ドラマを一気見するのも――」

「糸守君っ」


 語気を強めて俺を呼び、ふっと頬に朱色を広げた。

 黄金の瞳を濡らして、半ば強引に俺の唇を奪う。呼吸のタイミングを見失うほど熱く交わって、一度唇を離して視線を絡め、今度は俺から彼女を求める。


 お互いの息が続かなくなり、先輩は首に回していた腕を解いた。

 俺の腹部にぐーっと額を押し付け、恥ずかしさからか真っ赤に焼けた顔を隠す。


「きょ、今日のお泊り、こういうことしたいお泊りだから。映画とかは、ほ、程々で……っ」

「……は、はい。わかりました」


 前回のことを思い出し、こっちまで恥ずかしくなってきた。

 ダメだ、もう少ししっかりしないと。

 もしかしたら、一昨日のお泊りもそういうことだったのかもしれない。なのに俺の察しが悪くて、今回先輩は強硬手段に出たのかもしれない。


「……ぷっ。ふふっ、んふふっ」

「な、何ですか? どうしました?」


 黙りこくっていた先輩が、突然笑いながらこちらに顔を向けた。


「さっき糸守君、私と一緒にいたいって言ってたよね。夏休み中、ずっと」

「はい、そうですけど」

「前も同じこと言ってなかった? 俺以外見て欲しくない、ずっと一緒にいたいって」

「そう、ですね……」

「糸守君、私のことちょー好きじゃん」


 えへへと口元を緩めて、子供が悪戯でもするように俺の頬を指でつまんで遊ぶ。


 この人と出会うまで、俺の毎日はただ漠然と目の前を過ぎ去っていくだけのものだった。道端に転がる落ち葉のように、吹かれて踏まれて朽ちて消えるだけの人生だと思っていた。


 でも、今は何もかもが違う。

 先輩がそばにいてくれるだけで、今日の終わりが惜しくて、明日の到来が待ち遠しい。彼女との時間が心地よくて仕方がない。


「あっ」


 せっかくのいい雰囲気をぶち壊すように、ぐーっと腹が飯をよこせと鳴いた。

 先輩はニヤッと歯を覗かせ、勢いよく身体を起こす。


「ご飯にしよっか。ちょっと温めて直してくる」

「ありがとうございます。俺、箸とか食器出しておくので」

「私のお茶碗はいいから。今日はお米よりお酒の気分だし」

「じゃあ、俺も一緒に呑みますよ」


 昨日、新しいグラスを買った。

 特別高いものではないが、先輩と一緒に選んだものだ。


 ほんの少し前まで一人で使っていたテーブルに、今は二人分のグラスが並ぶ。


 それが未だに嬉しくて。

 溢れ出す思いが、口に弧を描いた。

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