第32話 ちょうだい?


「んぁっ……♡」


 艶めかしい声。

 驚いて飛び退こうとするが、先輩は俺の背中に手を回して元の位置に戻し、そっと頭を撫でてくれた。それが心地よくて、嬉しくて、甘い匂いも相まって脳みそが痺れる。


「ちゃんと綺麗にして。汚れが残ってたら怒るからね」


 怒られるのは嫌なので、もう一度クリームがついていた場所を舐めた。

 もう綺麗になったと言っても問題ないレベルなのだが、チロリと舌先でなぞるだけで先輩が甘い声で鳴くため、楽しくて中々やめられない。身体を震わせて、それでも律儀に俺の頭だけは撫でてくれる。もうずっと、こんな時間が続けばいいのにと思う。


「はぁ……んぅう……も、もう、十分なんじゃない……?」


 そう言われて少しだけ距離を取ると、先輩は蕩け切った顔で息を切らしていた。唇からこぼれ落ちそうな涎を拭う仕草に、心臓が痛いほど脈打つ。


「じゃあ、次は――」


 と、ケーキへ手を伸ばす。

 俺は咄嗟に、その手を取り上げた。


「ど、どうしたの?」

「……クリームがあるからって理由付けしてたら、結局お酒にせいしているのと一緒だと思って。もう大丈夫です。そんなのなくても、ちゃんと恋人っぽいことするので」


 手のひらと手のひらを合わせて、指を絡ませた。恋人がするように、硬く強く。

 ぱちりと金の瞳が瞬いて、次の行動に期待する。その期待に応えるべく、俺は先輩の腰に腕を回して引き寄せる。


「俺、その……先輩のこと、一生大切にします。……あっ、でも飽きたり嫌いになったりしたら、全然気にせず捨ててくれて大丈夫ですから」

「……やり直し。そこはさ、もうちょっとムードを大切しようよ。私のことはいいから、糸守君がどうしたいか教えて」

「俺がどうしたいか……?」


 半眼で睨みつける先輩。

 これはまずい。早く何か言わないと。


「えーっと……先輩を幸せにしたいです」

「うん。それはさっきも言ってたね」

「その、あのっ、一生大切にしますっ」

「それも聞いた。当たり障りのないことはいいからさ、もっと色々あるでしょ?」

「……さっき言ったことと矛盾しますけど、誰にも渡したくない、って思っています」


 先輩の手を一層強く握った。

 金色の双眼がぱちりと瞬いて、薄い涙の膜を震わせた。


「俺以外見て欲しくないですし、ずっと一緒にいたいです。……すみません、ワガママで」

「う、ううん。糸守君の気持ち、ちゃんと聞かせてくれてありがとね」


 こつんと、額と額を合わせた。いつかと同じように。


「……私もね、糸守君以外見たくないし、ずっと一緒にいたいよ」

「あ、ありがとうございます」

「でもそれは、今のところ、の話だから」

「……」

「だから、もっと糸守君に夢中にさせて? 私の頭の中、糸守君でいっぱいにして?」

「っ! は、はい……!」


 軽い口づけを何度か繰り返し、ふっと顔を見合わせてやわらかな笑みを交換した。

 次いで、小鳥のようにお互いの唇をついばむ。ちょっとした悪戯心で甘噛みすると、先輩はビクリと身体を震わせ、「もぉー」と棘のない怒りを口にして俺の首に腕を回す。


「はぁっ……♡」


 唇と唇の繋ぎ目で、舌先同士が触れ合う。

 調子に乗ったことをしたのではないかと不安に思うも、先輩の甘い声がそれを払拭してくれた。


 互いを貪り合う水音。

 ケーキを食べていたためか、先輩の唾液はやけに甘い。

 生温かくて、やわらかくて、鋭い快感が火花を散らす。


「はぁー……はぁー……っ」


 五分か十分か、夢中で求め合っていた。

 顔を放すと唾液が吊り橋のように糸を引き、最後にはぷつんと切れてドレスを汚す。先輩は肩で息をしながらふふんと笑い、俺の胸に顔を埋める。


「……これすごい。糸守君のこと、どんどん好きになる……」

「俺も先輩のこと、もっと好きになりました」

「ほんと?」

「こんなことで嘘つきませんよ」

「……じゃあ、証明して」


 ふっと上げたその顔には、何かを決意したような熱い感情が灯っていた。

 風に吹かれたような浅い口づけを交わして、繋いでいた俺の手を引っ張る。背中を撫でて欲しいのだろうか。先輩の意図を汲んで手を回すと、「もう少し上」とか細い声で言われた。


「背中のとこ、ファスナーがあるでしょ? それ下ろして」

「えっ? いや、それは……」

「早く」

「は、はいっ」


 ファスナーを下ろすと、先輩は頬を赤らめながらドレスを脱いでいく。

 白いドレスインナーがLEDライトの下に晒され、俺は今にも零れ落ちそうな胸元から目を逸らす。先輩はピッとリモコンで照明を落とし、テレビの明かりだけが俺たちを照らす。


「これも後ろにホックがあるの。……糸守君、外せる?」

「ちょ、ちょっと待ってください。何のつもりですか。お風呂に入りたいなら、脱ぐのは向こうで――」

「全部言わないとわからないの?」

「……っ! わかります……わかりますけどっ」

「けど? けどって何? 私に魅力がないからシたくない?」


 そんなわけがないと首を横に振った。


「俺たち、付き合い始めてまだ一日も経ってないんですよ? もう少しお互いを知ってからじゃないと、だ、ダメだと思います……っ」


 これくらいスピーディーに事が進むのは、成人していれば当たり前なのかもしれない。だとしても、今ここで先輩に手を出すのは気が引ける。


「お互いを知るって、私もう、糸守君のことたくさん知ってるよ。糸守君も私のこと、いっぱい知ってるでしょ?」

「だとしても、万が一俺がロクでもないやつだったら――」

「本当にロクでもない人はそんな心配しないって」


 くすくすと笑って、俺の頬に手を当てた。


「今年は無かったけど、誕生日会で私に触ってくる人とか珍しくなくてさ。そのたびにすごく嫌で、怖くて、汚されてるような気がして。……だから、糸守君で上書きしてよ。大好きな人に全部触って欲しいって思うのって、いけないことなの?」

「いけなくは……な、ないと、思います」

「それにさ、もしかしたら忘れてるかもしれないけど、私まだ糸守君から誕生日プレゼント貰ってないんだよね」

「……っ!」

「糸守君の全部、私にちょうだい?」


 甘美な誘いに、理性の糸が音を立てて千切れた。

 抑えつけていた本能が、濁流のように凄まじい勢いで身体中を巡り火を灯す。


「んっ……」


 先輩を抱き寄せ唇を奪う。

 もうダメだ。流石の俺でも歯止めが効かない。


 それにまあ、据え膳食わぬは男の恥、って言葉もあるわけだし。

 ここまで先輩にさせておいて、何もしないのは逆に失礼だろう。……と、思うことにする。


「ホック……両手の方が外しやすいと思うから。うん、そう……あぅっ」


 初めてな上に見えない中での作業はかなり手こずったが、何とか外すことができた。

 テレビの光だけが頼りの薄闇の中、圧倒的な存在感を放つそれから目が離せない。そんな俺の顔が面白かったのか、「すけべーっ」と先輩は恥ずかしそうに笑って両腕で胸を隠す。


「もっと見たい?」

「えっ……」

「見たくないの?」

「み、見たいですっ」

「触りたい?」

「は、はい……!」

「……じゃあ、ベッドまで連れてって」


 沖縄での夜にしたように、お姫様抱っこでベッドへ運ぶ。

 大学入学と同時に買った、格安のシングルベッド。二人分の体重を支える日が来るとは思わなかったようで、ギシギシといつも以上に悲鳴をあげる。


「糸守君も上脱いで。ぎゅってしよ?」


 寝転ぶ先輩に覆いかぶさったまま、先輩は俺のワイシャツのボタンを一つずつ外していく。

 ワイシャツを身体から抜き取り、インナーと一緒に床へ放った。


 ……あれだけ古傷を見られるが嫌だったのに、先輩の前ではもう何とも思わない。

 むしろ、この人なら大丈夫だと、ただ安心だけが心を照らす。


「寒くないですか? エアコン、切りましょうか?」

「ありがと。大丈夫、平気だよ。……寒かったら、糸守君に温めてもらうから」


 そう言って腕を伸ばし、俺の首に絡めた。

 俺も先輩の背中に腕を差し入れて、潰れないよう、壊れないよう、やんわりと体重をかける。胸に感じるやわらかいものに、否応なく身体が反応する。


「ネックレス、ちゃんと着けてくれてたんだ」

「先輩から貰ったものなんで。当然ですよ」

「そっか。嬉しいなぁ」


 スーツには合わないと思い、ワイシャツの下に隠していたシルバーのネックレス。首に回した手で留め具のあたりを弄りながら、先輩は熱い息を俺の耳元に吹きかける。


「私、初めてだからさ。色々迷惑かけるかもだけど、頑張ってくれる?」

「俺も初めてですけど……せ、精一杯優しくするので、安心してくださいっ」

「……別にちょっとくらい乱暴でもいいけどね」

「いや、最初くらいは優しくさせてくださいよ」

「ふーん。糸守君、もう考えてるんだ」

「違っ! 今のはその、言葉のあやというか……!」


 白い歯を覗かせてニシシと笑う。

 無邪気な表情に当てられ、俺の頬も自然と綻ぶ。


「好きだよ、糸守君。……ライクじゃなくて、ラブの方の好き。大好きっ」

「……俺も好きです。大好きです、先輩」

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