第26話 乱暴にしてもいいよ


「んっ」

「な、何ですか?」

「可愛いって言いながら撫でて!」

「……は、はあ」


 ずいっと頭を差し出され、俺は言われるがままそっと手を乗せた。


 最後に撫でたのは一ヵ月前。

 初めてキスをしたあの夜、あまりにも先輩が可愛くて、愛おしくて、手が勝手に動いてしまった。


 やわらかくて、艶々としていて、作り物のように綺麗な金の髪。

 頭のてっぺんからうなじに向かって撫でると、先輩は「へへへっ」と甘ったるい声を漏らしながら身をよじる。


「……可愛い、は?」

「あっ。は、はい、可愛いです。可愛いですよ」

「……どこがどう可愛い?」

「えっと……今日着てる服、先輩にすごく似合ってると思います。メイクもいつもより大人っぽい感じで、もの凄く綺麗ですし。あと、髪型も素敵だと思います。俺、全部好きです……!」

「ふーん、あっそー。へえ、そかそか。……まあ、及第点ってとこかな」


 余裕ぶった声でいいながら、その顔は大人なメイクが台無しなほどに蕩け切っていた。


 ……あぁくそ、可愛過ぎてこっちまでニヤけてきた。

 何となく顔を見られるのが恥ずかしくて、やや強めに撫でて視線を下へ押し込めた。強引なのが嬉しいのか、先輩は「うにゃー!」とわざとらしい声をあげて悶える。


「……ねっ。もうちょっと乱暴にしてもいいよ?」

「乱暴にって、どうするんですか?」

「犬と遊ぶみたいに、わしゃわしゃーって」

「それ、せっかくセットした髪が崩れちゃうんじゃ……」

「いいからいいから」


 ジッと、上目遣いで俺を見た。

 上気した頬。黄金の瞳がギラリと輝く。艶めかしい熱気に生唾を呑む。


「ひゃっ……♡」


 ぐいっと手を押し付けると、先輩の口から甘い音が漏れた。

 そのまま言われた通り、わしゃわしゃと撫でる。


 昔近所で飼われていたゴールデンレトリバーを思い出した。

 普段は飼い主にも愛想を振り撒かないのに、なぜか俺に撫でられるのが大好き。俺が近づいただけで、千切れそうなくらい尻尾振ってたっけ。


「んふふー、いいね。上手だよ、糸守君」

「そうですか? ……本当に頭ぐちゃぐちゃですけど、大丈夫です?」

「へーきへーき。あとでちゃちゃっと濡らして直しちゃえばいいから」


 「それよりさ」と、先輩は甘い笑みを咲かす。


「可愛いって言ってよ。もっともっと言って」

「……あ、はい。可愛いですよ、先輩。すごく可愛いです」

「でしょでしょー。ほら、手も休めないで。この一ヵ月、ずっと寂しかったんだから」

「俺以外と……友達とかと、遊んだりしなかったんですか?」

「そりゃ遊んだけど、それとこれとは違うじゃん。糸守君からしか摂取できない栄養素があるんだよ! イトモリンがないと寂しくなっちゃうの!」


 何だその新種の栄養素。


 言っていることの意味はよくわからないが、俺の手にされるがままの先輩は本当に可愛くて、どうしたって口元が綻んでしまう。


 ……これ、いきなりやめたらどんな反応するんだろ。


 うわぁ、しょげてる。

 先輩が犬だったら、絶対尻尾へにょんってなってるぞ。


 これはこれで可愛いけど、ちょっと可哀想なことしたな。


 なでなでを再開すると面白いくらいに顔が蕩けて、「へへっ」「えへへ」と唇から笑みが漏れて止まらない。動画に収めたいところだが、万が一流出したら大変なことになる。頑張って網膜に焼き付けよう。


「……そろそろ、さ」


 ぽつりと言葉を落として、湿り気を帯びた瞳で俺を見上げた。


「ぎゅってして。……糸守君を、充電させて」


 ゆっくりと広げた両腕。

 髪はぐちゃぐちゃで、頬は紅潮しており、呼吸は乱れている。


 酒をあおって緊張する自分を追い出し、軽く深呼吸。

 すぐに先輩に向き直り、要望通りぎゅっと抱き締めた。


 相変わらずのいい匂い。頬に触れる心地のいい髪の感触。汗ばみそうな体温。


 先輩も俺の首に腕を回し、そっと力を込めた。

 豊満な胸がむにゅりと形を歪め、特有のやわらかさに理性が飛びそうになる。どうにか歯を食いしばって踏みとどまり、気を紛らわすように先輩の頭を撫でる。


「あぁー……すき、これ好きだなぁ。イトモリンが充電されてくー……」

「……俺も好きです。何か、安心するっていうか」

「おっぱいが当たるから?」

「ぶほっ! ごほっ、んっ……い、いきなり変なこと言わないでくださいよ!?」

「だって糸守君、私のおっぱい好きだし。母性的なものを感じて安心するのかなーって」

「ち、違いますよ。そういうのじゃ――」

「ほれほれー、おっぱいだぞー」


 俺の首に腕を回したまま、身体を右へ左へ動かし胸を押し付けた。

 頭の中で火花が散り、じりじりと身体が熱くなる。


 このままでは性欲に負けてしまう。

 どうにかしようと、先輩が動けないほど強く抱き締めて動きを阻害する。


「んっ……い、糸守君、何か変なスイッチ入っちゃった?」

「違いますよ、先輩が動かないようにやってるんです。お願いだからやめてください。俺、一応男なんで」

「わかったわかった。……その代わり、さ。もっと強くぎゅってして」

「も、もっと? こうですか?」


 一層腕に力を込めると、先輩は苦しそうにうめき声を漏らした。

 これはまずい。すぐさま緩めるが、「気にしなくていいから」と不機嫌そうな声が飛ぶ。


「いやでも、痛くないですか? 俺、結構力強い方ですよ?」

「痛くていいの。……っていうか、い、痛くして欲しいなって」


 不穏な発言に身体が硬直するが、早くやれとばかりに先輩は俺の背中を叩いた。

 ……仕方ない。言われた通りにしよう。一ヵ月分の埋め合わせ、なのだから。


「……んっ。そうそう、うん、いい感じー……うわぁ、糸守君、力つっよいなぁー……」

「ほ、本当に大丈夫ですか? 骨とか折れてません?」

「あはは。私のこと、豆腐か何かだと思ってる? へーきへーき……もっと強めでもいいくらい」


 本当に大丈夫なのか。まあ、やって欲しいならやるけどさ。


 更に強く抱き締めると、先輩は苦しそうな、しかしどこか甘い声で鳴いた。

 虫や小動物をイジメたくなるような気持ちが、ぞわぞわと心の壁面を這う。本当はしたくないのに、同時に先輩を放したくない。


「……私さ、雑に扱われるの、わりと好きっぽいんだよね。今みたいに、力任せにぎゅーってされたりするの。過保護に育てられた反動かな……?」


 先輩のしなやかな指が、そっと俺の後頭部を撫でた。

 加虐心を満たしながら優しくされるという特殊な状況に、胸の内側でどす黒いものがふつふつと沸騰する。


「でも……でも、ね。糸守君、だけだよ。いつもいっぱい優しくしてくれて、私のことを誰よりも大事にしてくれる糸守君だから……、して欲しいって思うんだよ? 優しい糸守君も、優しくない糸守君も……全部、私のモノにしたいから」


 ……まずい。

 まずいまずい。絶対にまずいぞ、これ。


 何でそんなこと言うんだ、この人は。

 やりたくないはずなのに、メチャクチャにしたくて堪らない。絶対に嫌なのに、先輩を泣かせたくて仕方ない。強引に押さえつけて、どういう顔をするのか確かめてみたい。


 優しくしたいし、優しくしたくない。

 どちらも本当の感情で、打ち消し合って自分自身がわからなくなる。


「……糸守君、ストップ。もういいよ、ありがと」


 悶々とする中、トントンと背中を叩かれ先輩を解放した。

 よかった。助かった。あと数秒遅れていたら、自分を制御できなくなっていたかもしれない。


「はふぅー……満タンになったぁー」


 汗ばんだ真っ赤な顔で微笑み、グラスにシャンパンを注いで一気に吞み干した。

 かなり酔いも回っているようで、上機嫌に鼻歌をうたいながら左右に軽く揺れる。


「……ん?」


 ふと首に違和感を覚えて手をやると、いつの間にかネックレスがかかっていた。

 シンプルなデザインでありながら、素人目にも気品を感じるシルバーのネックレス。明らかに先輩の仕業であり、「何ですか、これ」と尋ねる。


「何って、誕生日プレゼントだよ。糸守君、もう二十歳ってことは、四月に入ってから誕生日迎えてるんでしょ?」

「四月十日が誕生日ですけど……でも、それはもう終わったことですし。俺がプレゼントもらうなんて変ですよ」

「出会うのがちょっと遅れたってだけで、私だけお祝いしてもらうなんて悪いじゃん。いいから受け取ってよ。糸守君のために選んだんだから」


 家族以外から誕生日プレゼントをもらうなんて小学校以来だ。

 しかも先輩からのプレゼント。嬉しくないわけがない。


 ……ただ一つ、問題がある。


「嬉しいです。ありがとうございます。……ただこうなると、余計に俺も何か買った方がいい気がするんですけど……」


 あのグラスをプレゼントできていたら、もっと晴れやかな気持ちで受け取れていただろう。


 現状、ギブ&テイクが成立していない。

 先輩の誕生日であることに変わりはないのに、俺は何も提供できていない。


「お金のかからない形で何かお願いするって、さっき言ったでしょ? だから誕生日会、手ぶらで来ないと怒るからね。変な気遣わないでよ」

「いやでも、俺……っ」

「本当に大丈夫だから。……その代わりってわけじゃないけど、誕生日会、絶対に来てね。一緒にいてくれたら、私も楽しく過ごせると思うから」


 ……妙な言い方だ。

 それだとまるで、俺がいない誕生日会は楽しくない、みたいに聞こえてしまう。


 先輩が俺に好意を寄せてくれていることはわかるが、だからって誕生日会が楽しくないなんてことあるのか。年に一回の一大イベントだろ。


 よくわからないが、やるべきことはハッキリした。

 俺はネックレスに軽く触れて、小さく深呼吸する。


「……わかりました。当日は先輩が楽しいって思えるように最大限努力します! 一発芸でも何でも任せてください!」

「うん、ありがと。約束だよ?」

「はい、約束です」


 すっと差し出された小指。

 子供の時にしたように、先輩と指切りをした。

 終わった後、少しだけ恥ずかしくなり、お互いに照れ笑いを交換する。


「お酒、なくなってる。注いであげよっか」

「ありがとうございます。じゃあ俺も、先輩に」


 グラスにシャンパンを注ぎ、何度目かわからない乾杯をした。

 かなり高価なお酒だというのに、先輩はこれといって味わうことなく胃袋へ流し込んでゆく。コーラでも飲むように。


「あぁー……酔ってるー、今すっごく気分いいなぁー……」


 右へ左へふわふわと揺れて、最後に俺の肩に頭を乗せた。

 ニシシと笑い、猫の愛情表現のように額を俺の胸のあたりに擦り付ける。甘く爽やかなシャンプーの匂いに、否応なく心臓が高鳴る。


「……糸守君も酔ってる?」

「ええ、まあ。結構呑みましたし」

「そうだね。酔ってるよね、私たち」


 「だからさ」とソファの肘置きに手をついて上半身を持ち上げ、もう片方の手を俺の手の甲の上に置いた。なでなでやぎゅーを求めてきた時とは違う、粘度の高いどろどろとした熱が、黄金の瞳の中で呼吸をしている。


「――……ちゅー、したいなって思うんだけど、ダメ?」

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