第25話 可愛いって言えよー


「あのー……い、糸守君……」

「……」

「本当に大丈夫ですか? 今からでも、病院で精密な検査をした方が……」

「……大丈夫ですよ。ええ、大丈夫です……」

「で、ですが……」

身体そっちの方は全然、大丈夫なので……ははっ……」


 高級ホテルの一室。

 俺はバスローブ姿でソファに座り、真っ青な顔で項垂れる。


 普通に生きていたら一生縁がなかったであろう場所に来ても、ラグジュアリーなバスルームでシャワーを浴びても、今この時ばかりはまったくテンションが上がらなかった。


 遡ること数十分前。


 車から間一髪のところで猫を救った俺は、体勢を崩して前のめりになりながら、向こう側の歩道へ顔面からスライディングした。

 その際、猫だけは守ろうと両腕を高く挙げていたため、着ていたシャツとズボンはボロボロ、身体は擦り傷がいくつか。


 これはまずいと先輩はわざわざホテルで部屋を取り、傷を洗うため俺にシャワーを浴びさせ、ホテルの人に着替えを用意するよう頼んでくれた。


 その厚意はとてもありがたいのだが、俺からすれば服や傷などたいした問題ではない。


 猫を助けた瞬間、俺はプレゼントが入った紙袋を手放してしまった。

 紙袋は車に轢かれ、せっかく買ったグラスは一度も日の目を見ることなく無残な姿に。これでへこむなという方が無理な話である。


「……よしっ。先輩、今からもう一回買いに行きましょう! 俺まだ、お金に余裕あるんで大丈夫です!」

「あれほど高価なものをまた買っていただくのは、流石に申し訳ないです」

「で、でも……!」

「そもそも、紙袋を落としてしまったのは私のせいですし。糸守君が気に病むことではありません」


 それはそうなのだが、命を救おうと行動に出た先輩に非があるわけがない。

 ……本当に何してるんだ、俺は。何で紙袋放したんだよ。


「何かお金のかからない形で、糸守君から改めてプレゼントをいただく。これでどうでしょうか?」

「お金のかからないって、俺に何かさせたいことでもあるんですか?」

「考えておきます。今はまず、手当てをしないと」


 先輩はガーゼや包帯、絆創膏を手に、俺にバスローブを脱ぐよう促した。


「大丈夫ですよ。俺、自分でやるので」

「そうなったのは私のせいです。これくらいさせてください」

「いやでも、これ脱いだらパンツしか履いてないですし……」

「糸守君、早く」

「……は、はい」


 これ以上ごねても、沖縄の時のように半ギレで脱がされるのがオチだろう。


 ため息を一つ落として、バスローブを脱ぎ半裸になった。

 ……この人は大丈夫だとわかっていても、やはり古傷を晒すのは緊張する。あと単純に、パンツを見られるのが恥ずかしい。


「……服は酷い有様でしたが、傷はほとんどありませんね」

「一応これでも鍛えてるんで。家の中で軽く筋トレするくらいですけど」

「軽い筋トレで皮膚が頑丈になるなどあり得ません。……糸守君、本当に人間ですか?」

「ひ、酷いこと言わないでくださいよ!」


 慣れない手つきで、傷口を絆創膏で塞いでゆく。


 その過程で、先輩の指が俺の爛れた皮膚に触れた。ぐにょぐにょとした感触が面白いのか、ねり消しで遊ぶ小学生のように弄り回す。


「……何やってるんですか?」

「あまり触る機会がないので、つい。痛くないですか?」

「痛くはないですけど……先輩、本当に何とも思ってないんですか? 怖いとか、気持ち悪いとか……」


 どうでもいいと言ってくれたのは嬉しかったし、その言葉に嘘はないと思うが、それでもこうして再び肌を晒すと不安な気持ちが再燃した。


「糸守君の身体を見て、どうして私が気持ち悪いと思う必要があるのですか?」

「今までこれを見た人は、皆そうだったので……」

「糸守君の中で私は、〝皆〟とやらと同類であると」

「その、えっと! ただ、ちょっと不安に――」


 言い切るよりも先に、先輩は俺の爛れた皮膚に口付けをして、


「~~~~っ!?」


 真っ赤な舌を覗かせ、何の躊躇もなく舐めた。

 ソフトクリームでも食べるように、下から上へ。ゆっくりと。


 やめてくれと腕で前へ押し出すも、彼女はそれを振り払って再度距離を詰めた。


 サラサラと零れ落ちる黄金の髪を耳の後ろにかけ、もう一度舐めて、甘噛みをして、更に舌を這わせる。恐ろしいほど綺麗な人の粘膜が醜い古傷に触れている背徳感と、ぬるぬるとした甘い体温による快感で、抵抗する気力がどんどん失せてゆく。


「――これで理解しましたか」


 ふっと俺から離れて、軽く涎で濡れた唇で言った。


「私の前で肌を晒しても、糸守君が不安に思う必要がありません。ご希望なら、あと一時間ほど続けますが」

「も、もう大丈夫です! 本当に、マジで!」


 これをあと一時間も続けられたら、確実におかしな性癖に目覚めてしまう。……いやもう、手遅れな気がするけど。


 必死に大丈夫だとアピールすると、先輩は背を向けてティッシュを取りに行く。


「……糸守君の気持ちは理解できます。ですが、私の全てを受け入れてくださった人を、私が受け入れない道理がどこにあるのですか」


 唇を優しく拭いながら、無感動で無機質な声をポツポツと零した。

 

「疑うのはもう、これっきりにしてください。その古傷を見て百万人が怖いと言っても、百億人が気持ち悪いと言っても、私の感想は変わらないので」


 ティッシュをゴミ箱に捨て、こちらに向き直った。

 何の表情もないが、しかしどこか力強い気を纏っており、不思議と絶対的な安心感がある。


 それがひたすらに温かくて、ありがたくて、眩しくて。

 ついに彼女を直視することができなくなり、ふっと視線を床へ落とす。


 〝皆〟から向けられた視線の数々が、嫌な記憶が、溶けていくような気がした。


 大切にされているという、確かな感触がある。

 暴力装置ではなく、一人の人間としてそこにいて欲しいと願ってくれている。


 ……よかった。


 この人を好きになって。




 ◆




 着替えと一緒に食事や酒などのルームサービスが届き、今夜はここで呑み会をすることになった。


 個室のある居酒屋を探してはいたのだが、確かにこういった場所の方が先輩にとって都合がいいだろう。個室といっても、完全に他の客の目を遮断できるわけではない。しかしホテルの客室であれば、誰かが勝手に入って来ることも、話し声を聞かれることもない。


「かんぱーい! いえーい!」

「か、乾杯……あの、先輩。ちょっと飛ばし過ぎじゃないですか? もうちょっとゆっくり呑んだ方が……」

「だって楽しいんだもん! ずっと糸守君と呑みたかったんだもん! 糸守君が悪いんだよ、私を一人にするからー!」


 ボトルで届いたシャンパンが、ものの十数分で空になっていた。

 すっかり無表情も溶けて、炎天下に置かれたアイスのような蕩けた表情で、先輩は下から俺を覗き込む。にまぁと白い歯を覗かせながら。


「……でも、今日はすごく嬉しかった。私の誕生日のためにここまで一生懸命になってもらったの、生まれて初めてかも」

「言い過ぎですよ。俺なんかより高価なプレゼント贈る人、山ほどいるんじゃないですか?」

「それはそうだけど……私の誕生日を祝いに来る人って、大半がだから。私にとって値段なんて、何の価値もないし」


 ふっと、先輩の顔に影が差した。


 どうでもいいとは、どういうことなのだろうか。

 それを尋ねようと口を開きかけたところで、先輩が「それよりっ!」と勢いよく立ち上がった。


「今日、まだ糸守君の口から一度も聞いていない言葉があります! それはなんでしょーか!」


 唐突に始まったクイズ大会。

 俺は口に含んでいた酒を呑み込み、訳がわからず首を捻った。


「……もしかして俺、先輩に何かしちゃいました? 謝れってことですか?」

「違う違ぁーう! ほんとさ、その自罰的なところ直した方がいいよ。もっと自分に自信持ちなって! 糸守君は最高なんだから!」


 そうは言われても、中高とボッチだった経験が俺から一切合切の自尊心を奪ってしまった。

 ……ただまあ、いい加減に何とかしなければなとは思っている。先輩にうざいと思われたくないし。


「んで、その最高な糸守君は、まだ私に言ってないことがあるわけ! ほらほら、あるでしょ! 言ってないこと!」

「えーっと……お誕生日おめでとうございます、とか?」

「違うっ!」

「わかりました! 先輩におはようございますって言われたのに、俺が返してなかったから――」

「違ぅー! もうバカバカ! 嫌いになっちゃうぞ!」

「そ、それは困ります! お願いですから、正解を教えてください!」


 必死に何度も頭を下げると、先輩はこちらを半眼で睨みつけながら、大きくため息をついて肩を落とした。グラスの中身をひと呼吸で空にして、けふっと可愛らしい曖気を漏らす。


「……可愛い」

「え?」

「……今日まだ、可愛いって言われてない。私、いっぱいオシャレしたのに」


 ぷくーっとフグのように頬を膨らませ、俺の脇腹をげしげしと小突く。


「可愛いって言えよー、褒めろよー! よしよししてなでなでして、いっぱい甘やかせーっ!」

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