第8話 そばにいて欲しかったの


 飛行機が出せないと連絡を受け、俺たちは協議の結果、この家から脱出してホテルに向かうことにした。購入したばかりで一泊するには設備に不足が多く、食料も酒とおつまみ以外に何もないからだ。


 しかし、タクシーを呼ぼうと電話をかけたが繋がらない。どうやら通信障害が起こっているらしく、電話どころかネットも使用できない。

 外はバケツをひっくり返したような土砂降り。とてもじゃないが、身体一つでこの中を突っ切ってホテルに行くはかなり厳しい。


 まさに、クローズドサークルのような状況。


 ということで仕方なく、今日はここで一泊する流れになった。


 寝室にはクイーンサイズのベッドが一つだけ。

 言われるまでもなく、俺は寝室へ向かう先輩をリビングから見送る。「おやすみなさい」と手を振って。


「何言ってるの? 糸守君も行くんだよ?」

「……あのですね先輩、自分が何言ってるかわかってます?」

「にゃ?」

「にゃ、じゃねえよ」


 ワインと泡盛をちゃんぽんしてしこたま呑んだせいか、未だに酔いが回ったままの先輩。

 彼女の頓珍漢な受け答えに、俺は思わず敬語を忘れて突っ込みを入れる。


「ベッド、一つしかないんですよね。だったら俺、ソファで寝ますよ」

「ダメだよそんなの! 身体痛くなったりするかもだし!」

「……本当にいい加減、俺が男だってこと理解してください。もしものことがあったら、どうするつもりなんですか?」


 好きと言って惑わせたり、ボディタッチが激しかったり、水着姿を披露したり。今までだって相当なものではあったが、同じベッドで寝るのは流石にやり過ぎだ。


 もちろん、こちらから手を出す意思も度胸もない。

 それでも万が一には備えるべきだし、何よりも隣に先輩がいては緊張で眠れない。


「で、でも……っ」


 先輩はゆっくりとこちらに近づいて、いつかの時のように服の裾を弱々しく握った。

 薄い涙の膜が張った黄金の瞳がじっと俺を見上げて、やわらかな眼光を蠟燭の炎のように揺らす。


「……ここに連れて来たのは私のわがままなのに、そのせいで友達に嫌な思いさせるとか耐えられないよ。一緒に寝るのがダメなら、私がソファで寝るから糸守君はベッド使って」


 自分のことばかりで先輩の立場に立ってものを考えられておらず、ハッと息を呑む。


 確かに先輩の目線だと、この状況に責任を感じても仕方がない。

 今日中に帰れず、まともな食料もなく、寝床はソファ。せめて寝る場所くらいはまともなところを提供したい、という思いは十分に理解できる。


「……わ、わかりました。じゃあせめて、クッションか何かで間に仕切り作りましょう」

「一緒に寝てくれるってこと?」

「いやだって、先輩をソファで寝かせるわけにはいきませんし」

「……ありがと」


 俺の服を握ったまま、ぐいぐいと寝室の方へ引っ張る。


「実は私さ、雷の音が苦手で。……好きな人に、そばにいて欲しかったの」


 その顔は夏の日差しを浴びたように赤みがかっており、心臓が潰れそうなほどに綺麗だった。




 ◆




「……雨、止みませんね」

「……うん」


 午後十一時過ぎのこと。


 宣言通りベッドの間に仕切りを作り、俺たちはそれを背にして横になっていた。

 忙しなく鳴り響く雷の音。雨が屋根を叩く音。風が何かを転がす音。自然の大合唱があまりに煩くて、緊張などする暇もない。


「……ごめんね。ほんとに、ほんとに、ごめんっ」

「謝らないでください。今日はすごく楽しかったですし。自家用ジェットに乗って沖縄とか、B級映画観ながら高級ワインとか、死ぬまで使える自慢話ができました」


 暗い気持ちになって欲しくなくて、極力おちゃらけた声音で言った。


 実際、俺はこの状況を何とも思っていない。

 もちろん家には帰りたいが、あの六畳間に一人でいても寂しいだけ。それなら嵐の中で、先輩と一緒にいた方がずっとマシである。


「先輩ってこんな感じの別荘、世界中に持ってるんですか?」


 これ以上謝られても困るため、適当な話題を振った。


「ううん。ここだけだよ」

「へぇー。じゃあ、沖縄が好きなんですね」

「……沖縄が好きって言うか、この家には思い出があってさ」


 不意に、風の音が止んだ。

 雨音も弱まり、八畳余りの寝室を二つの息遣いが支配する。


「うちのママ、画家やってたの。ここは元々アトリエの一つで、小さかった私を連れて来て、一緒に絵とか描いたんだよ」

「元々ってことは、もう画家はやめちゃったんですか?」

「私が小学校あがる前に病気で死んじゃって。遺産を整理してく中で、管理できないからって手放しちゃったの」


 まずい、と息を呑む。


 完全に地雷を踏んだ。

 余計なことを聞いてしまった。


 どうしようと困惑していることに気づいたのか、先輩は「気にしなくていいよ」とやわらかな口調で言う。


「もう十年以上前の話だし。それに、糸守君には感謝しかないんだから」

「……別に俺、感謝されるようなことしてませんけど」


 ギシ、とベッドが軋む。

 その音で、先輩がこちらに顔を向けたことがわかった。


「ここを買い戻そうって決めた時、内見とか一切してないんだ。買ってから来たのも今日が初めて。……いざ入ってみて色々思い出して泣いちゃったら、ママも悲しむと思ったから。怖くてずっと来れなかった」


 先輩は自嘲気味に笑った。子供みたいでしょ、というように。


「だから、糸守君と一緒に行こうって思ったの。糸守君がいてくれたら、私、ずっと楽しく笑ってられるし。そっちの方がママも絶対に喜ぶでしょ」


 どこの馬の骨ともわからない男が一緒なのは母親的に大丈夫なのだろうか、とは思った。

 もっと他に相応しい人物がいるのでは、と。


 ただ先輩の声が本当に嬉しそうで、下手な突っ込みをする気が起きない。


「んーっ、何か今日はずっと頭ふわふわしてる。ちょっとお水飲んで来るね」

「ワイン一瓶空けて泡盛もあれだけ呑んでたら、そりゃそうなりますよ」

「やだなぁ。二日酔いとかになったらどうしよ」


 ブツブツと文句を言いながらベッドをおり、寝室を出て行った。

 途端にまた風が吹き荒れ始め、雨粒がバチバチと窓を鳴らす。


「……母さん、か」


 先輩の話につられて、自分の母親の顔が脳裏を過ぎった。

 ワガママを言って遊園地に連れて来てもらい、一緒に園内を歩いた日。もう二度と感じられない手のぬくもりを思い出し、目頭が熱くなる。


 それを振り払うようにうつ伏せになり、シーツに顔を埋めて低い唸り声をあげた。


 と、その時。


 凄まじい閃光と、直後に家を揺らすような雷鳴。

 どうやら近くに落ちたらしい。


「停電……?」


 寝室の常夜灯が消え、視界が真っ暗になった。

 先輩は大丈夫だろうか。そう思いながら目を凝らし、扉の方を見つめる。


「きゃああああああああああ!!」


 直後、彼女の悲鳴が鼓膜を揺らし、俺はベッドから飛び起きた。

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