第9話 ついでですよ
「大丈夫ですか!?」
スマホのライトで顔を照らされ、私は眩しさから目を細めた。
よかった。糸守君が助けに来てくれたらしい。
……ただちょっと、困ったな。
ありがたいけど、状況的に近づいて欲しくない。
「雷でびっくりしてコップ落としちゃって、割れたのが足に刺さって……! わ、私は大丈夫だから動かないで。糸守君まで怪我したら大変だからっ」
刺さったガラスは、それほど大きいものではなかった。
かなり出血しているが、動けない怪我ではない。
糸守君には離れてもらい、自分でキッチンから脱出しよう。糸守君にまで怪我させちゃうし。
……そう思っていたのに、なぜか彼はライトを頼りに床のガラス片を払い、こちらに近づいて来る。
「先輩、失礼します」
「えっ。ちょちょちょっと! わきゃー!」
突然足を攫われ、身体が床から離れた。
いわゆる、お姫様抱っこである。
「何してるの!? あ、危ないって!!」
「一旦、ソファまで運びます。あんなとこに置き去りにできませんよ」
お姫様抱っこなんて初めてだが、彼の身体は驚くほど安定感があった。
薄闇の中、少し下から見るその顔は台詞と状況も相まって妙に凛々しく、痛みが吹き飛ぶほどに心臓が高鳴る。
初めて会った日のことを思い出した。
ここ最近は一緒に呑んで騒いでばかりで忘れていたが、おそらく彼は男性の中でも『強い』に分類される。筋力というわかりやすい雄的な要素を見せつけられ、いやにドキドキする。
「じゃあ、おろしますね」
十秒と経たずソファに到着。
ゆっくりと座らされ、すぐさま血で真っ赤な足にライトを向けられた。
「そんなに傷は深くないですね。消毒液と絆創膏ってどこにありますか?」
「えっと……ご、ごめん。用意してない。そこまで頭、回ってなくて……」
今思うと、お酒よりもDVDよりも優先すべきものだった。
怪我をしたのが私だからよかったものの、糸守君だった時は呆れられていただろう。もしかしたら、嫌われていたかもしれない。
申し訳なくて、情けなくて、私は視線を伏せる。
糸守君は「そうですか」と軽く返して、すくっと立ち上がり踵を返す。
「どこ行くの?」
「近くのコンビニで消毒液とか買って来ます。停電してても営業はしてると思うので」
「そ、そんなのダメだよ! 危ないって!」
外は依然として、凄まじい雨風が吹き荒れ雷光が迸る。
仮に車があったとしても、出歩くべき天気ではない。傘もカッパもない生身なら、尚更。
「私が用意してなかったのが悪いのに、そのせいで糸守君が損するとか耐えられない!」
「でも、放っておいて万が一のことがあったら……」
「だったら私が行く! 糸守君はここで待ってて!」
立ち上がって一歩、二歩と歩いたところで、激痛に襲われ前のめりに倒れた。
まずい――と、その瞬間、糸守君に身体を受け止められ事なきを得る。
「私が悪いのに……っ! 私が……私が……っ!」
自分でコップを割って、勝手に怪我をして、救急箱を買っておかなかったのも自分で。
更に彼に迷惑をかけっぱなしで、あまりの醜態三昧に涙が溢れて来た。……こんなはずじゃなかったのに。今日の呑み会は、糸守君にいっぱい楽しんで欲しかったのに。
「ダメですよ、先輩。この家で泣かないために、俺を連れて来たんでしょう?」
糸守君の指が、零れ落ちかけた涙を攫った。
すっと視線を上げると、彼はやわらかな笑みを浮かべいる。
「別に誰が悪いとか、そんなのどうでもいいじゃないですか。完璧なお嬢様じゃなくてもいいって先輩に言ったの、俺なわけですし」
「で、でも……っ」
「迷惑をかけてるとか思わないでください。むしろ先輩の役に立てる機会が巡って来て、感謝してるくらいですよ」
「……感謝って?」
「中学でも高校でも、大学に入ってからもずっと一人で毎日寂しかった。でも、先輩が友達になろうって言ってくれた。やっと出来た友達のために頑張るチャンスを、俺から奪わないでください」
……ずるい。ずるい言い方だ。
奪わないで欲しいと言われては、何も言えなくなってしまう。
閉口するほかない私をソファに座らせて、彼は「それに」と眉を寄せながら頭を掻いた。
「うちも母親いないんで、先輩がお母さんのために笑いたかったって気持ち、何となくわかります。……だから、帰る瞬間まで笑っててください。お母さんも、それに俺だって、そっちの方が嬉しいので」
そう口にして、急に恥ずかしくなったのか、顔を赤くしてわざとらしく咳払いした。
暑くもないのに顔をパタパタと手で扇ぎつつ、リビングを出て行く。
「それに俺、お腹空いて死んじゃいそうだったんで、ちょうどコンビニに行こうと思ってたんです! ついでですよ、ついで!」
照れ隠しの見え透いた嘘を吐き、彼は玄関の扉を開け悪天候の中へ身を投げ出した。
◆
「ただいま帰りましたーっ」
「あっ!」
往復で三十分ほど。
何とか帰り着いて扉を開くと、リビングから先輩が出て来た。よたよたと片足を引きずりながら。……って、うわうわ、何してるんだこの人っ。
「せ、先輩、立ってて平気なんですか!?」
「私のことはどうでもいいの! 怪我はない!? 糸守君、雷に当たったりしなかった!?」
「雷に撃たれてたらここにはいませんよ。ゴム人間じゃないんですから」
やれやれと肩をすくめて、握り締めていた袋を揺らして存在をアピールする。
「無事に買えました。とりあえず消毒するので座ってください」
と言い、もう一度お姫様抱っこをしようとして「あっ」と声が漏れた。
今の俺の身体は、頭の先からつま先まで風呂に浸かっていたようにずぶ濡れ。
ぽたぽたと水滴が滴り、床にはちょっとした水溜まりができている。この状態で先輩に触れば、濡らすことは避けられない。
「私よりまず糸守君だよ! 早く脱がないと!」
「うわっ! ちょちょ、ちょっと!?」
「このままじゃ風邪ひいちゃう! ほら、大人しくて!」
「自分で脱ぎます! 自分で脱ぐんで、手を放して――」
必死に抵抗するが、雨風の中を歩いたせいで体力の消費が著しく、また先輩の力も凄まじかった。
強引にTシャツをはぎ取られ、彼女のスマホのライトが俺を照らす。
「……っ」
息を呑む先輩。
しまった――。
もはや隠しようのないそれを見られ、俺は内心頭を抱えた。
傷、傷、傷。
服で隠れていた部分には、痛々しい古傷がひしめいている。
その中でも特に酷いのは、肩のあたりの皮膚の爛れ。それは背中全体にまで広がっており、自分のことながら目を背けたくなる悍ましさだ。
『期待を裏切らないために、いつも傷だらけでした』
一ヵ月前、彼女に吐いた台詞は比喩でも何でもない。
ヒーローごっこの末路。皆から称賛され、慕われた代償。……何て言えば多少格好いいかもしれないが、要するにバカのし過ぎである。
「……ご、ごめんなさい。変なもの、見せちゃって」
中学時代、この傷を見られたことで怖がられ周囲から浮いてしまった。
高校の頃は傷を見られたくなくて、ひっそりと黙って過ごした。
大学に入ってバイトを始めたが、ちょっとした事故でこれを見られて妙な噂が広がり、結局今年の四月で辞めることになった。
いつだってこれは、俺の人間関係を破壊してきた。
何度も、何度も、何度も。修復不可能なほどに。
「今日はやっぱり、俺、ソファで寝ますよ。……だ、だからその、あ、安心してください」
声が震える。
きっと怖がられた。引かれた。気持ち悪いと思われた。
それでも先輩に嫌われたくない一心で、何とか安心を勝ち獲ろうと言葉を並べる。
「とりあえず……服、返してもらっていいですか? 消毒を済ませたいので」
身体を隠すため、先輩が持つずぶ濡れのTシャツに手を伸ばした。
バッと、彼女はその手を振り解く。
Tシャツを後ろへ放り投げ、スマホをポケットにしまい、今度は俺のズボンに手をかける。
「何で脱いだ服着ようとするわけ!? 風邪ひくって言ってるでしょ!」
怒声を飛ばして、ガチャガチャと慣れない手つきでベルトを外す。
その様子を呆然と眺めて、ベルトが外れたところでハッと我に返り、ズボンがずり落ちないよう押さえる。
「ままっ、待ってください! 何とも思わないんですか!?」
「どうでもいいよ、そんなの! 早く脱ぐのー!」
「ど、どうでもいい……」
まさかの言葉に全身から力が抜け、僅かな隙が生まれた。
先輩はそれを見逃さず、「えいっ」とズボンをずり下ろす。
運悪く、パンツごと。
「うわぁああああああああああああああ!?」
その絶叫は、雨にも負けず風にも負けず、嵐の彼方まで響き渡っていった。
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