第4話 酔ってるから仕方ないの
エンドロールと共に安い音楽が流れ、それをBGMに俺たちは呼吸を整えていた。
ソファに深く腰掛け、揃って天井を仰ぐ。
狭い部屋に、息遣いが二つ。少し身動ぎすれば左の小指の先が彼女の手に当たり、心地のいいやわらかさを感じる。
「はーっ、楽しかった。私、こんなに笑ったの初めてかも」
「言い過ぎですよ。たいした映画でもないのに」
「家とか皆の前だと、いいお嬢様じゃないといけないからさ。口開けて笑うのなんて、幼稚園ぶりとかじゃないかな?」
幼稚園ぶりということは、十五年以上も理想のお嬢様を演じていたことになる。
まさかそんな前から演技をしていたのは知らず、あまりの衝撃にふっと酔いから覚めた。
すごいと称賛を送りつつ、純粋に不憫だと思った。
彼女の周りを囲む面々は、どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのかと、やり場のない怒りを抱く。
俺は小学校に通う六年間を正義の味方に費やしたが、先輩はその倍以上。
皆に振る舞う美しい笑顔の下で、一体どれほどのストレスを蓄積させていたか想像もできない。
「糸守君、乾杯しよっ」
「い、いきなり何ですか?」
「いいからいいから。ほら、先輩が注いだお酒は吞まなきゃねー」
コーラが切れたため、代わりに炭酸水を。
琥珀色のウイスキーが薄まり、先輩の瞳に似た色のハイボールが完成する。
「……今、変なこと考えてたでしょ。私のことで」
「えっ。あ、いや、その……」
「誤魔化さなくていいよ。私、ひとの顔色読むのは得意だから」
コップを持ち上げ、片方を俺に渡した。
熱をもった頬を緩ませながら、「乾杯」と当てて涼し気な音を鳴らす。
「別に誰が悪いとか、そういう話じゃないんだよ。お金がある分、色々なところで楽をさせてもらってることを考えたら、当然の対価だなって思うし。ノブレス・オブリージュ……的な?」
ハイボールを口に含み、コクリと喉を鳴らす。
濡れた唇を舌で拭って、酒気混じりの息を漏らす。
「……でも、ありがと。糸守君ってほんとに優しいんだね」
そう言いながら、ソファの上で体育座りをした。
やわらかな材質なため、当然身体の軸は不安定になる。右へ左へと小さく揺れて、最終的に俺の方へと傾いてゆく。
「――っ!?」
こてん、と。
小さな頭が肩に乗り、それと同時に瑞々しいシャンプーとアルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。間近で見る彼女の髪は純金を引き伸ばしたようで、あまりの美しさに声も出ない。
「好きなところ、また一個見つけちゃったなぁ」
上目遣いで言って、ニシシと歯を覗かせた。
アルコールのせいで体温が上がり、にじみ出た汗の粒が陶器のような肌をつるつると滑っていき、情欲を駆り立てる胸元へと消える。
この状況も、その台詞も、俺にとっては強過ぎる刺激だ。
理性の崩壊を食い止めるため、ハイボールを一気に呑み干す。
「ち、近過ぎですよ! 俺が男ってこと忘れたんですか……!?」
「でも私、可愛いよ? 嬉しくない?」
「可愛いとか嬉しいとか、今はそんなのどうでもよくて――」
「可愛くないし、嬉しくもないってこと?」
「……っ! か、可愛いですし、嬉しいですけど!」
無理やり慣れない言葉を引き出され、羞恥心に悶えた。
対する先輩は、わざとらしく照れた素振りを見せて、外気に晒された胸元を腕で隠す。
「えぇー? 私、もしかして口説かれてるぅ?」
「めんどくせぇこと言わないでくださいよ!?」
すっと目を細め、ウヘヘと意地の悪い笑みを浮かべる。
完全に酔っ払いの目である。
「今、酔ってるし。酔ってるから仕方ないのー」
「ちょっと! どこ触って……あっ、あははははっ!」
「弱点はっけーん。脇腹が弱いのかぁ、このこのー!」
「ダメですってば! だめ! ははっ、あはははっ!」
脇腹をくすぐられ何とかやめさせようと藻掻くが、本気で抵抗して怪我でもさせてはまずいため、今ひとつ力を出せない。
更に酒を摂取した状態で身体を動かすと、より早く酔いが回る。
俺はアルコール特有の浮遊感で抵抗する気力をなくし、先輩も疲れたのか大きく息をつきながら元の位置に戻る。
「……もう一杯呑む?」
「……じゃあ、今度は俺が作りますよ」
買っていた炭酸水を使い切り、二杯分のハイボールを作った。
ウイスキーはまだまだ残っているが、今日はこれで最後だろう。
「知らなかったなぁ、お酒がこんなに楽しいなんて。頭とか身体とかぽわぽわして、このままどっか飛んで行っちゃいそう」
「……俺もずっと一人で呑んでたんで、誰かと呑むのがこんなに楽しいなんて知りませんでした。たぶんもう、一人で呑む気湧かないです」
今夜は一度も、情緒不安定になっていない。
ふとした瞬間に襲来する、絶望感や焦燥感。死にたいという欲求が、先輩の陽だまりのような気に当てられて影すら見えない。
ただひたすらに楽しくて、嬉しくて、面白くて。
現実から逃避するためではなく、楽しい時間を過ごすために酒を呑んでいる。
「ふふーん。それはね糸守君、私と呑むから楽しいんだよ?」
「……すごい自信ですね。いや、否定はしませんけど」
そこらの一般人が吐けばただの誇大妄想だが、彼女が言うと説得力が凄まじい。
「俺も一回くらい、そういうこと言ってみたいですよ……」
嘆息気味に言って、ハイボールを一口呑む。
地元から離れた顔見知りが一人もいない私立の中学に行った途端、俺の黄金時代は終わりを告げた。
だからといって小学校の頃に戻りたいとは思わなかったが、父親の評判に乗っかっていただけ、という事実には今でも落ち込む。彼女と違い、魅力らしい魅力など何もない。
僅かに暗い気持ちが芽吹いた、その瞬間――。
先輩の手がそっと鼠径部のあたりに触れ、口の中のものを噴き出しそうになった。
それをどうにか呑み込むと、今度は耳元で「だーめっ」と甘い声で囁かれ、火が付いたように全身が熱くなる。
「糸守君が私みたいになったら、友達がいっぱいできて私が独占できなくなっちゃうじゃん。それは困るなぁ」
「いや、なりませんし、なれませんよ」
「でも、『小学生の頃、糸守君に助けられました!』って感じの人が沢山現れる可能性はあるんじゃない? そうなったら一気に人気者だよ?」
「大学生にもなって、今更そんな。地元からも離れてますし、あり得ないです」
言い切ると、先輩は「そっかぁ」と呟いてハイボールを呑み干した。
ぷはーっと酒の匂いが混じった息を落とし、両の瞳に妖しい熱を灯し俺を映す。
「……よかった」
圧倒的勝者を思わす笑みを唇で描いて、白く鋭い八重歯を覗かせた。
「誰かに友達をとられるとか、経験したことないからさ。もしそうなったら、私……何しちゃうかわかんないもん」
声量自体は小鳥の囀りのように小さなもの。
だがそれは、ライオンの咆哮の如き迫力を帯びていた。
誰が立ち塞がろうと、絶対に自分が勝つ。
常勝の星の下に生まれたことを如実に語る表情に、恐怖に似た感情を覚えると同時に、その力強さに胸が高鳴る。
……何をドキドキしてるんだよ、俺は。
真に受けるな、先輩は酔っ払ってるだけなんだから。
自制心に鞭を打つも、横へ視線を流せば見惚れざるを得ない笑みを浮かべており、しかもやたらと距離が近い。邪な感情が湧かないよう、必死に妹の顔を思い浮かべて相殺する。
「あれ……糸守君、もう炭酸水ないの?」
「さっきので全部です。コンビニまで買いに走りましょうか?」
「そんなの悪いよ」と首を横に振り、腕時計に目を落とした。
時刻は午後十一時前。先輩が来てから、かれこれ三時間近くが経とうとしている。
「……昨日は家に着くの遅過ぎてちょっと怒られたし、そろそろ帰ろうかな」
心底残念そうに言って、スマホを手にどこかへメッセージを送った。
昨日のように迎えを呼んだのだろう。
「今日はありがとね。今までの人生で一番楽しかったって言っても過言じゃないよ」
「いやいや、言い過ぎですよ。こんな汚くて狭い男部屋で、安酒しかないのに」
「高い安いなんてどうでもいいよ。好きな人と一緒にいられるなら」
蕩けた瞳を向けられ、ごくりと唾を呑んだ。
軽く咳払いして、先輩を半眼で睨みつける。
「さっきから安易に好きって言うの、やめてください! マジで変な勘違いしたらどうするんですか!?」
「えー? でも、さっきライクの方だって説明したでしょ? いちいち英語で話せってこと?」
「そこまでは言いませんが、せめて言い方を変えてくださいよ! 今まで彼女いたことない奴に配慮してください!」
「……じゃあ、大好き?」
「悪化してる!?」
「愛してる」
「酔ってるからって何しても許されるわけじゃないんですよ!?」
わかってやっているようで、悪戯が成功した子供のように笑って見せた。
姑息なまでに可愛いその表情に、俺は文句を噛み殺して閉口する。
やめてくれよと思う裏側で、この状況を心底楽しみながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます