第2話 好きになってしまいました
「袋はどうされますか?」
「あ、大丈夫です」
先輩を家に招いたはいいが、まともに出せる飲み物が水道水くらいしかなく、結局俺は再び家を出てコンビニに来ていた。
「……にしても先輩、迂闊過ぎるだろ」
会計を終わらせて店内をあとにし、小さくため息をこぼす。
家までの道中、どうしてあの二人組に捕まっていたのか訳を聞いた。
先輩は今まで酒を呑んだことがなく、ものは試しと友達が絶賛していた店に一人で行ったらしい。そこで男たちに声をかけられ、あれよこれよと強制的に呑まされて、気づいたら外にいたという。
「お嬢様だって噂だし、世間知らずなんだろうな……」
先輩の家は政財界に顔が効く由緒正しい名家だと、どこかで聞いたことがあった。
実際、身に着けているものはどれも明らかに高価だし、金持ちであることは間違いないだろう。
「……それに意外だったな。普段はもっとこう、大人な感じなのに。酔うとああなるのか」
先輩と直接話したのは今日が初めてだが、取り巻きとのやり取りを目にする機会は何度かあった。
年齢も間柄も関係なく、誰に対しても一律丁寧な口調。
眉も口元もほぼ動かさない無表情。
あの見た目とオーラだから何の違和感もないが、常人がやればキャラ作りだと思われてもおかしくない。
「まあ、どうでもいいけど。……とにかく、適当なとこで帰ってもらおう」
と呟いて、家の鍵を開けた。
「…………え?」
扉を開けた状態で、俺は素っ頓狂な声を漏らした。
玄関先に積まれた、数十万円分の札束。
それをどうか受け取ってくれというように、先輩は金の髪を惜しげもなく床に散りばめながら、綺麗な土下座をしていた。
◆
彼がコンビニに行ったことで一人残された私は、ようやく酔いが覚め始めて冷静な思考が出来るまでに回復していた。
「うわぁああああ!! や、やっちゃったぁああああああ――ッ!!」
ソファに座ったまま頭を抱え、額から滝のように汗を流す。
「あ、あんな子供みたいに泣いて、しかも家にあがり込んじゃって!! 絶対にまずい!! こんなことが皆に知れたら、私のイメージが……!!」
数百年の歴史を持つ天王寺家。
そこに生まれた私は、幼い頃から気品高く尊敬を買う人間になるようにと教育されてきた。
この見た目のせいで、周囲からも深窓の令嬢のように振る舞うことを期待されてきた。
バカみたいに丁寧な言葉を使って、表情も極力制限して、水の上を歩くように静々と足を運べば、皆が喜んでくれた。
他人の胸に顔をうずめて泣き喚いて、服の裾を掴んで一緒に歩くなど解釈不一致だろう。
「いやでも、仕方ないじゃん! 酔ってたんだもん! ちょー酔ってたんだもん!」
今日まで酒を呑まずにいたのは、酔った時にどうなるのか不安があったからだ。
一応、知りうる限り親族に酒乱の類はいない。
それならきっと、自分も大丈夫のはず。
……と思って、初手で家呑みではなく店を利用したのが間違いだった。
誰かに絡まれて呑まされることをまったく想定していなかったし、まさか酔うとキャラを保てなくなるとは。
「そ、それに助けてくれて嬉しかったし、すごく格好よかったんだもん……!!」
アクション映画のようなドロップキックでの登場。素人目にも熟練者だとわかる打撃技。
大柄の男たちを一瞬でのした後ろ姿を思い出し、頬を焼きながらベシベシとクッションを叩く。胸の内を焦がす感情を、どうにか外側へと逃がす。
『汚い手でいつまで先輩に触ってんだよ!!』
不意に、彼の言葉が脳裏を過ぎった。
瞬間、サーッと顔から血の気が失せていく。
「あの人、私のこと先輩って呼んだよね……? もしかして、同じ大学……?」
まったくの赤の他人だったら、情報が流出する危険性はまだ低かった。
しかし同じ大学である以上、彼は私が天王寺朱日であることを知っている。そして今頃、先輩って実際はあんな感じなのか、と落胆しているに違いない。
「あの人が大学でこのこと喋ったら終わりじゃん!? み、皆に嫌われる!! 終わりだ!! 私の大学生活は終わりだー!!」
ドクドクと激しく脈打つ心臓。
呼吸は荒く、視線は一点に定まらない。
「お、落ち着きなさい、天王寺朱日。もうずっと、完全無欠のお嬢様を演じてきたじゃない! この程度の難所、乗り越えられないわけないんだから……!!」
と、硬く拳を握り締めたところで。
コツコツと音を立てながら、家の前の廊下を誰かが歩いて来る。
きっと彼だ。
アルコールのせいでオフになっていたお嬢様スイッチをオンに切り替え、いつものすまし顔を装備。
財布に入っていたありったけのお札を手に玄関へ急ぎ、スケート選手並みの滑りを見せながら土下座をする。
「…………え?」
扉を開き、彼の声が降って来た。
私は一瞬顔を上げて彼の顔を確認し、すぐさま額を床につけた。
「これで今日見たこと、全部忘れてください」
◆
帰宅するなり大学のマドンナの土下座と大金を見せつけられ、俺の脳みそはショート寸前だった。
まったくもって意味がわからない。
コンビニへ行っていた十数分の間に何が起こったのか。
「と、とりあえず、部屋で座って話しませんか? ここ、玄関ですし……」
辛うじて残った冷静さを全力で稼働させ、そう提案した。
先輩は頭を上げ、ススッと札束を前へ出す。早く受け取れと言うように。
「いやいや、受け取れませんって」
「が、額が足りないということですか?」
「そうじゃなくて――」
「ではこれ、私のネックレスと時計です。売却すれば何百万かにはなるかと」
「う、受け取れるわけないでしょ!! そんな大金!!」
「では一体、私はどうすれば……?」
「まず何をどうして欲しいのか、ちゃんと教えてくださいよ!!」
声があまりに大きかったせいか、隣人が扉を開けてこちらへ目を向けた。
これはまずい。俺は軽く会釈をして、急いで玄関に入る。そして一旦札束を回収し、先輩の腕を引いて部屋へ急ぐ。
「……で、忘れてくださいって何のことですか?」
彼女をソファに座らせ、コンビニで買って来たお茶と回収した札束をテーブルに置いた。
俺は床に腰を下ろし、やれやれと息をつく。
「私が酔って、素が出てしまったこと。子供のように泣いて、縋って……あのような醜態を、言いふらされては困りますから」
「……素って、普段のやつ演技だったんですね」
「そうだよ!! 悪い!?」
コンビニに行っている間にどうにか立て直したキャラに綻びが生じ、先輩はハッと目を剥いて顔を歪ませ、ゆっくりと視線を床に落とした。
「失望したでしょう? こんな見た目したお嬢様のくせに中身は全然フツーとか、期待外れだなって……」
ノリで固めたような無表情のまま、その目にはじわりと涙が浮かぶ。
誰かの期待を裏切ってしまうことが、泣くほどに恐ろしい。
そう感じる先輩を、俺は素直に不憫に思う。
「意外だなぁ、とは思いましたけど。別に失望とか期待外れとか、そんなことは考えてませんよ」
確かに外見のインパクトは凄まじいが、それだけで内面を決めつけるような趣味はない。
しかし先輩は信じられないようで、目を擦りながら「嘘です……」と今にも崩れそうな声音で呟いた。
俺は小さく息を漏らして、できるだけ安心を与えられるよう笑みを浮かべる。
「先輩の気持ち、ちょっとわかります。俺も小学生の頃、皆の期待を裏切るのが怖かったんで」
「……どういうことですか?」
「うちの実家、地元じゃ有名な空手の道場なんです。そこの師範の息子なわけですから、喧嘩吹っ掛けられたり、いじめっ子に立ち向かわされたりしたんですよ。俺は争い事とか全然好きじゃないのに、そういうことには積極的に首突っ込まないと皆から嫌われるんじゃないかって考えちゃって。期待を裏切らないために、いつも傷だらけでした」
ハハッと乾いた笑いが漏れた。
最悪な日々だった、とは思わない。
それなりに楽しかったし、皆からヒーローとして慕われていた。しかし、もう二度とあんな日常に戻りたくはない。
「安心してください。お金何か払わなくても、このことは誰にも言いませんよ。……あと、これはお節介なんですが、あんまり無理はしないでください。絵に描いたお嬢様みたいな天王寺先輩じゃなくても、受け入れてくれる人はいますよ」
「……いませんよ、そんなの」
「少なくとも俺は、素の先輩も素敵だなと思いましたけど」
そう言って、しまったと口を噤む。
かつての自分を見ているようで、彼女の気持ちを少しでも楽にしてあげたくて、イケメンにしか許されないような台詞を吐いてしまった。凄まじい羞恥の濁流に頬を焼き、その熱を冷ますように買って来た水の封を切り胃へ流し込む。
「ほんと?」
今にも消え入りそうな声を受け、俺はペットボトルから口を離す。
先輩はゆっくりとソファから腰を上げ、床に膝をついた。
そのまま赤ん坊のように這って、こちらに近寄る。
「ほんとに、そう思いますか……?」
金色の双眸には涙の膜が張り、そこには期待と不安が揺らめいていた。
恐ろしいほどに綺麗な顔が、目と鼻の先。
豊満な胸が重力に従って垂れ下がり、谷間を強調する。
六畳間の狭い部屋に彼女の荒い息遣いが響き、俺は生唾を呑む。
「お、思います……っ!」
やや後ろへ仰け反りながら、何とか声を絞り出す。
遠ざかった分だけ、先輩は距離を詰めた。宝石のような瞳にジッと見つめられ、恥ずかしい台詞を吐いた時以上に顔が熱くなる。
「……そう」
俺の言葉に嘘偽りがないとわかったのか、先輩の顔にようやく笑みが灯る。
「――……ありがと。すっごく嬉しい」
そう言って、二ッと白い歯を覗かせた。
普段のお淑やかな笑い方とはまるで違う、少年のような無邪気な笑顔。
向日葵を思わす、黄色く明るい表情。
彼女の本質に少しだけ触れられたような気がして、なぜだか俺も妙に嬉しくなり口元が綻ぶ。
「そういえば、貴方の名前は?」
「あっ。すみません、自己紹介が遅れて。二年生の糸守要です」
「糸守君、ですか。覚えました。私は――って、ご存じでしたね」
若干照れ臭そうに言って、すくっと腰を上げた。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、そろそろ帰ります」
「だったらタクシー呼びます。終電なくなりますし」
「お気になさらず。迎えは先ほどこちらで呼びましたので」
念のため、外まで彼女を送ることにした。
アパートの前に車が一台。
初めて見るそのフォルム。車に詳しくないが、あれがリムジンだということは理解できる。
いかにもな服装な運転手が、先輩のためにガチャリとドアを開いた。彼女は車内に乗り込むと、こちらに小さく手を振る。
「……本当に金持ちなんだな、先輩って」
夜の闇に消えてゆくリムジンを見送って、小さく息を零した。
ゴールデンウィーク最終日。
慌ただしい締め括りとなったが、少なくとも一人で呑んで終わるよりは楽しかった。
しかし、勘違いしてはいけない。
これで先輩と仲良くなれた、などと思った暁には、手酷いしっぺ返しを食らうだろう。
俺と彼女とでは住む世界が違う。
今回のことは頭に隕石が直撃したような奇跡であり、本来なら交わりようがない。
きっと直接話すのも、今日が最初で最後になるだろう。
この時の俺は、本気でそう思っていた。
◆
翌日。
ゴールデンウィークが終わっても、俺の夜に変化はない。
時刻は午後八時。
契約している動画配信サービスを利用して、B級映画を選出。
テーブルの上には、ウイスキーとコーラとポテチ。
ふふふっ。隙のない最強の布陣である。
「さてと……」
映画を再生し、ウイスキーのボトルに手を伸ばした。
と、その時。
ピンポンとチャイムが鳴り、玄関の方へ目を向ける。
「こんな時間に誰だ……?」
居留守を使ってもよかったが、昨日かなり騒いでしまったため、隣人からのクレームの可能性も否めない。だとしたら対応するのが筋だと思い、かなり面倒くさいが玄関へ向かう。
「はいはい、今開けますよ」
ガチャリと扉を開いた瞬間、俺の頭上を大量の疑問符が埋め尽くした。
そこに立っていたのは、金髪金瞳の美女。天王寺朱日。
彼女はいつも大学で見るような高貴さ漂う無表情で、「こんばんは」と挨拶をした。
「お邪魔してもよろしいでしょうか?」
「えっ。あ、その、えっと……ど、どうぞ」
どうして彼女がここに。
……あぁ、わかったぞ。忘れ物でもしたんだな。
「忘れ物だったら、どうぞ、適当に探してください。俺も手伝いますから」
「いえ、そういうわけではなくて……」
どことなく挙動不審になりながら、ソファに座って大きく深呼吸。
甘く爽やかな匂いが部屋中に舞う。
数秒後、彼女はようやく顔を上げた。パチリと瞳を瞬かせて、鉄のようにぴくりとも動かない顔のまま、頬にほんのりと熱を灯す。
「わ、私――」
停止ボタンを押し忘れ、流れっぱなしの映画。
やられ役の男が、けたたましい爆音と共に爆散する。
「糸守君のこと、好きになってしまいました」
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