第2話
安珍は道端で立ち尽くし、苦い表情を貼り付けたまま暫し呆然としていた。そうこうしている内に薄く雨が降り出した。
安珍は雨粒を掬うように手を伸ばすと一つため息をついた。
すると、背後から声をかける者があった。
「もし、御坊。このようなところでどうされましたか」
振り返るとそこには小ざっぱりと品のいい着物に袖を通した壮年の男が立っていた。何もない所に神妙な顔で佇む坊主が気になったのだろう、心配そうな顔で安珍を覗き込んだ。
「いえ、旅路を共にしてきた者に荷を持って行かれたようで」
安珍が沈んだ声で答えた。するとその男は痛まし気に「なんと」と声を漏らした。
「この辺りは旅の者を狙った盗人が多い。しかし御坊を狙うとは何とも罰当たりな」
男の言葉に安珍は首を振って言った。
「私が迂闊だったのです。私が抜けていたばかりにあの者に盗みを働かせてしまった」
不要な罪を背負わせてしまった、そう言って安珍は俯いた。
その姿に男はいたく心を動かされた。男は安珍に向かって手を合わせると、今晩は自身の屋敷に泊まるよう言った。
安珍は一度は申し訳ないと言って断ったが、男は是非貴方と話がしたいと引き留めた。
男は自身を真砂庄司清次と名乗り、雨が酷くなる前に館へと連れ立った。
「荷の中に全てを入れていなかったことは不幸中の幸いでしたな」
そう言って清次は安珍に酒を注ごうとした。安珍は、修行の身故、とやんわり断り言った。
「あの者も貴重な物は袂にいれていたことは知っていたはず、ともすれば完全に人の心を滅していたわけではないのでしょう」
安珍は少しばかり嬉しそうにそう言ったものだから、清次は安珍のあまりのお人好しぶりに呆れつつも、どうにもその姿に霊験あらたかなものさえ感じた。
安珍のその信心深さから謹厳な人間かと思えば存外そんなこともなく、軽い口振りで道中の宿坊にて高価な皿を割ってしまった話や師匠が弟子に内緒で蜂蜜を夜な夜な舐めている話だとかを面白おかしく語りもした。
清次は益々安珍の事を気に入り笑いながら言った。
「もし、また熊野参詣に行くということがあれば是非とも我が家にお立ち寄り下さい。いつでも歓迎致しましょう」
「奥州からともなるとなかなか足繁く、とはいきませんが、その際はまた立ち寄らせていただきます」
そう言って安珍もまた顔を綻ばせた。
少々憚りへ、と安珍は一度席を立った。そして厠から戻る最中、回廊に何か端切れのような物が落ちているが目に止まった。安珍は清次から借りた燭台を手前に差し出すと、揺らめく火に照らされたのはちんまりと愛らしい顔を乗せた人形であった。
安珍はそれを丁寧に拾い上げるとその御髪をそっと整えてやった。なかなか手の込んだ作りであるが、少々霞んだ陶器の頬とよれた衣から年季が窺えた。
安珍はそれを清次のところまで持って行くと、清次は小さく声を漏らした。
「これは私の娘のものです。朝から無いと騒いでいたのですが、何処にございましたか」
「そこの回廊に。御息女がいらっしゃるのですか」
安珍は清次の手の中にある人形を見ながら言った。人形遊びをするくらいだから、十に満たないような幼子がいるのかと思い巡らせた。
清次は安珍の視線に気が付いたのか「まあ、嫁にいけるくらいの歳の子ですが」と苦笑いしてみせた。
「あの子は親の私がいうのもお恥ずかしいですが、気立もよく、聡くて見目も良い。どこに出しても申し分ない娘ですが、どうにも一つ気に入ると執着が強くて、この人形など物心ついて間もない頃に贈ったというのに未だにこうも大切にしている」
「贈ったものを大切にしてくれるのは良いことではございませんか」
清次は小さく溜息をついた。
「ええ。しかし時たま度が過ぎるといいますか」
と言いますと、と安珍が首を捻った。清次は少し声を落として話し出した。
「いつぞや、怪我をした雲雀が庭先に落ちていたのです。優しいあの子はそれを拾い上げると何日も大切に介抱してやったのです」
安珍は黙って頷きながら耳を傾けた。
「もうすっかり治った頃、そろそろ外に放してやりなさいと私があの子に言ったのです。するとあの子はひどく嫌がりました」
清次はそこまで言うと言葉を紡ぐことを躊躇するかのように一度黙った。そして息をつくと言った。
「次の日、雲雀の片脚が欠けていました。あの子が切り落としたのです」
安珍は小さく声を漏らし顔を顰めた。
「結局雲雀はそれが元で死に、あの子はいたく後悔して何日も泣き腫らしました。幼き頃のこと故、私も大目にみたのですが、その思い入れが強くなり過ぎてしまう所には手を焼いております」
清次は困り顔をした後、思い出したかのように慌てて弁解した。
「いえ、かような話をしましたが普段は本当に穏やかで優しい子なのです」
安珍は少し笑ってから「この人形も早く渡してあげなくてはいけませんね」と言った。
安珍の言葉にはっとしたように清次が言った。
「左様ですな。ご挨拶も兼ねて今娘を呼びましょう」清次は下女に娘を連れてくるよう言いつけた。
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