清姫烈記

綿貫 善

第1話

「あんた、随分綺麗な顔をしてるじゃねえか」

 沢の水で顔を洗おうとしていた安珍は、突然声をかけられたものだからぎょっとした顔で声の方を見た。声をかけてきた男はつぎはぎだらけの鶸色の着物を着崩し、如何にも身分が低そうな立ち姿である。

 しかしかく云う安珍もさして変わりがない。昨晩旅路にて酷い雨風に晒されてからというもの、すっかり溝鼠のように汚れた身なりをしていたこともあり、二人並べば泥人形のようである。

 安珍は自分の身なりが如何に汚いことかよく知っていたから、男が「綺麗」と称した意味がわからなかった。安珍という男は側から見れば鼻梁の通った涼やかな目元の美坊主であるのだが、当人といえばその自覚が皆無であった。

 というのも、この男は生まれてから殆どを寺で過ごし、修行に明け暮れて生きてきたものだから、何かを美しいと思う気持ちが人より幾分欠けていた。

「どこまで行くんだい」

 男は人懐こい笑みを浮かべて安珍に尋ねた。安珍は顔を洗おうとしていた最中であったから半端な姿勢で男を見上げて答えた。

「熊野へ」

 男はそれを聞いて、ああ、と頷いた。どうやら予想した通りだったらしい。

「熊野に行くにはまず街道に出なきゃな。この辺りは入り組んでいるから、なかなかそこに出るまでにも骨が折れる」

「確かに、私も幾度か迷いかけました」

 すると男は胸を反らせて言った。

「なら俺が案内してやろう。丁度方面も同じだ」

 安珍は「よいのですか」と眉根を上げた。

「なに、旅は道連れだ。そら行くぞ」そう言って男は安珍の裾を引っ張った。すると安珍は直ぐ様裾を引っ張り返した。

「何だよ、不満か」男は眉間に力を入れて言った。

安珍は困ったような首を横に振った。

「いえ、ただ」

「ただ?」

「顔を洗わせて頂きたいのですが」

 それを聞いて男は肩をすくめた。



 歩く事数日、ようやく開けた道へと出た。これが男の言う街道であり、同じく熊野参詣に行く者たちが屯しているからなかなかに賑やかである。

「やっと着いた。まあ俺の案内のお陰だがな」と男は短く笑った。

 それに対して安珍は素直に礼を述べた。野宿には幾分か慣れていたが、それでも一人というのは不安であることに違いないから男の存在には救われていた。

 男は真っ直ぐ礼を言う安珍に対してほんの一瞬何とも言えぬ微妙な、少々惨めともいえる表情をしたが、直ぐにいつものへらへらとした面持ちで言った。

「そういや歩いてるうちにちっとばかし足を痛めちまってさ。悪いんだがそこの薬屋に使いを頼まれてくれねえか」

 そう言って男は懐から金子が入っていると思しき袋を安珍に渡した。

 安珍が心配そうに男の脚を見て「大丈夫ですか」と言った。それに対して男は大きく手を振ると、心配ない、と返した。

「なに、道中よくあることだ。大体この辺りはそんな奴らばっかだからそこの薬屋もそういう薬ばっかり売ってんだ。まあ、何だ、荷は見ておくから頼むよ」

 わかりました、と安珍は男を慮って直ぐにその場を立った。

 さて安珍は薬屋にて品を買い求めようと先程手渡された袋を開けてみた。しかしどうしたものか、親指ほどの石が詰められているだけでそれ以外は何もない。安珍は唾を飲むと急ぎ男と別れた場所まで駆けた。

 そこには男の姿はおろか、安珍の荷も忽然と姿を消していた。

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