第七章 絶えないもの、苦難と煩悩

檻の中の臆病虎

 野営地を引き払い、群侠は三々五々と散らばってゆく。衡山派の面々だけが野営地に残り、張正鵠は撒かれた蠱がまだ残っているかもしれないと言って藍蝶蝶と胡廉、そして未だに意気消沈している林信君を連れて山頂へと登っていった。


 岳伯都はというと、点穴され、縄で縛り上げられて藍蝶蝶のいた天幕に放り込まれて一夜を明かしていた――体も動かせず、かと言って点穴を解く方法も分からず、韓凌白も現れない上に、見張りの李宣は冷たい視線を片時も彼から外そうとしない。食い込む縄と心細さに岳伯都は一睡もできず、泣いてしまいそうな気分だった。

 ところが、朝になると急に人々が彼の前に現れた。先頭に立っているのは素文真で、その後ろには知廃生と常秋水が控えている。彼らは岳伯都の穴道を突いて彼の脚を自由にすると、目隠しをして立ち上がらせた。

「岳英雄、ご不便をおかけしますが、あなたには私どもと一緒に来ていただきます」

 知廃生の声がし、続いて別の誰かが岳伯都の後ろに回って首の付け根を掴む。それが常秋水であると岳伯都が知ったのは、数日をかけて歩き通した後、ある部屋の中で解放されたときのことだった。

 常秋水は部屋に着くなり岳伯都の目隠しと縄を解いた。岳伯都は常秋水にここがどこなのか尋ねようとしたが、彼は岳伯都を一瞥するとさっさと部屋から出てしまった。それどころか、一瞬のうちに戸を閉め、鍵までかけて、彼は岳伯都は閉じ込めたのだ。

「決して出ようなどと思うな」

 常秋水はそれだけ告げて立ち去った。岳伯都にはここがどこかを聞く暇すら与えられなかった。岳伯都は扉や窓を思い切り叩いてみたが、未だに点穴が解けていないせいか力が入らず、どれも徒労に終わってしまった――しかし、途方に暮れて見回した部屋は小奇麗で、棚に飾られた小物の類に至るまで格式高さを感じさせるしつらえだ。岳伯都はため息をつくと寝台に寝転がり、いつしか眠りに落ちていた。



 岳伯都は素文真、知廃生、常秋水以外に誰がこの場所に来ているのか、またここがどこなのか知る由もなかったが、ここは知廃生の所有する邸宅だった。「常家荘じょうかしょう」と呼びならわされているこの屋敷には、随所に文人的な趣向が散りばめられている――表の門から一歩入れば左右に回廊が伸び、目の前には掛け軸がかけられた壁がある。その裏には見事な庭園が広がっており、四方を囲む回廊のどこからでも鑑賞できるようになっていた。一番奥には母屋、その他の部屋は回廊沿いにあり、岳伯都が軟禁されたのもこの中のひとつである。しかし、立派な屋敷だというのに使用人の姿はどこにも見当たらず、知廃生に呼ばれて出てきたのも吊り目がちな若い娘が一人だけだった。

梅凛ばいりん

 知廃生が声をかけると、娘――梅凛は「はい」と答えて一礼する。

「お申しつけの通りに全て用意してあります」

「ありがとう」

 知廃生は礼を言うと、梅凛に車椅子を押させて一同を母屋に案内した。

 常家荘に来たのは知廃生と常秋水、素文真の他に、金四缼、簫九珠と清丈、汪頑笑と飛雕、雪月影、李宣、そして岳伯都を追ってきた南宮赫と南宮赫について来た欧陽丙、令狐珊である。素懐忠は辰煌台に向けてすでに発っており、万が一のために燕南帰が姿を隠して同行していた。

 母屋は彼らでごった返し、梅凛が用意した卓に座らない者も何人かいた。特に南宮赫は戦っていないと落ち着かないとばかりに部屋を行ったり来たりしている。素文真と知廃生、汪頑笑、李宣、金四缼は卓についたが、飛雕は父親から遠ざかるように部屋の隅に陣取っていたし、簫九珠と清丈は壁際の長椅子に雪月影と並んで収まっている。欧陽丙と令狐珊も壁際に並んで立っており、誰もいない隅には常秋水が一人陣取って部屋の面々を見定めるように睨んでいた。

 彼らは素文真の呼びかけに答え、龍虎比武杯の行く末について、天曜日月教との諍いについて、また岳伯都の処遇について話し合うために集まっていた。梅凛が全員分の茶を配り終え、素文真が話を切り出すやいなや、それまで部屋を歩き回っていた南宮赫が立ち止まって言った。

「無論、俺様は岳伯都と戦うぞ! 何者も我らの対決を邪魔することは認めん!」

 南宮赫は手近な壁を拳で叩いてへこませると、また部屋を歩き回り始めた。

「ですが、これ以上試合を続けると天曜日月教の思うつぼではないですか? 現に奴らは我々を一網打尽にするつもりだったのですよ」

 素文真が静かに反論する。

「ましてや龍虎比武杯では彼らが手を回すまでもなく人が集まります。まさしく袋のねずみだったというわけです……何故奴らが途中で手のひらを返したのかは分かりませんが、それに関しては懐忠が何か聞き出してくれるかもしれません」

 南宮赫はフンと鼻を鳴らすと、素文真を睨んだきり何も言わなかった。

「私は彼らが裏で手を回していたのだと思います」

 ふと簫九珠が口を開いた。

「我が師のもとに案内状が届いたのも彼女を狙ってのことなのでしょう。代わりに私が出たので直接害が及ぶことはありませんでしたが」

 簫九珠はそう言うと、手に持ったままの茶杯に口をつけた。

 そのとき、彼の隣でガチャンと茶器の割れる音がした。皆が注目する中、清丈が慌てて床に散らばった破片を拾おうとする。梅凛が素早く駆け寄って彼女から仕事を奪ったものの、清丈はまるで何かに怯えているかのように、青白い顔でおろおろと皆の顔を見回した。

「どうされました、清丈尼姑」

 素文真が柔らかく尋ねる。清丈は少し口ごもったのちに、ついに意を決して小声で告白した。

「私……私かもしれません。簫、いえ、李玉霞様の居所を彼らに話してしまったのは」

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