幕間:龍虎名冊

九珠剣客・簫九珠

 寂寧庵から竹林を抜けて東に三里行くと小さな町がある。然安寺ねんあんじという小さな尼寺がある他には何もない町だが、何もないからこそ江湖の波乱すらも及ばない静かな場所だった。

 簫九珠が寂寧庵とこの町を拠点に活動するようになって数年が経っても町は依然として平和なままだった。唯一、付近の地主の子が行方不明になるという事件はあったが、他に何が起こるでもなく、ただ静かに時間だけが流れていた――然安寺に「李玉霞」なる人物に宛てた巻物が届き、それが寂寧庵にもたらされるまでは。

 無論、李玉霞は簫無唱である。彼女が公天鏢局の二夫人であったという話は知っていたものの、簫無唱がかの李玉霞であることを簫九珠は知らなかった。今日では公天鏢局といえば一族郎党が殺し合った惨劇以外に語られることもなく、属していた一人一人の名前は真っ先に人々の話から消え去っていた。おまけに李玉霞は公天鏢局に嫁いでからは目立った功績もなく、惨劇の後に完全に姿を消したためすっかり過去の人となっていたのである。それが突然、龍虎比武杯という表舞台への招待状が届いたのだ。

 師弟の驚きは並大抵のものではなかった。簫九珠は師の正体に驚き、簫無唱は龍虎比武杯の関係者にこの隠居先を知る者がいることに驚いた。

「九珠」

 簫無唱は固い声で尋ねた。

「この場所について誰かに話したことはありますか」

「ありません」

 簫九珠は即座に答え、それからあることに気が付いた。

「……では、どうやって彼らはこの場所を知ったのでしょう」


 師弟は巻物を持ってきた清丈に話を聞いたが、巻物を持ってきた者は衡山派の弟子を名乗り、衡山派のものである緑色の校服を着ていたことしか分からなかった。簫九珠はすぐに調査に出た。噂話に耳をそばだて、信頼のおける江湖の仲間に話を聞いて、今年が龍虎比武杯の開かれる年であり、衡山派が主催する番であることを知ったのだ。



「……ですが、衡山派が師父の居所を知っているはずがないのです。彼女の居所を知り、かつ江湖と関連のある者は私と然安寺のご住職、それからご住職の弟子の尼僧しかいない」

 最終的に、師弟は共志会の助けを借りることにした。簫九珠は巻物を持って素文真と素懐忠親子を訪ね、事の次第を打ち明けた。

「誰かが町の人々から情報を聞き出したということはないのですか?」

 素懐忠が尋ねたが、簫九珠は「ない」と言って打ち消した。

「彼らは皆、師父が李玉霞だということは知らない。彼女の素性についても断片的に知られているのみだ」

「では、不審な人物が現れたことは」

 次に尋ねたのは素文真だ。簫九珠は少し考え込んだが、また「ない」と答えた。

「ただ、近隣の地主から子どもが姿を消したから探してほしいとは頼まれたことがあります。結局衣服の切れ端すら見つけられず、今もその子は行方不明のままなのですが」

「人さらいですか。ありふれた話ではありますね」

 素懐忠が呟くと、簫九珠はここで初めて頷いた。

「正直私もそう思って、あまり気に留めていなかった。その子ども以外は誰も姿を消していないし、ましてや子どもが彼女のことを知っているはずがない」

 三人はそこで黙りこくり、各々茶で口を潤した。

「だが、簫殿が持ってこられた巻物は私に届けられたものと全く同じだし、私のところにも衡山派の弟子が届けに来た。時期を考えても、彼らは本当に李女侠を龍虎比武杯に招待したのだろう」

 素文真が沈黙を破る。

「問題は、誰が李女侠の居所を突き止めたかですね」

 素懐忠も同調する。

「師父は過去にどこかの門派に属したことはなく、龍虎比武杯で優勝してからも各派からの誘いを断り続けていたと言っていました。公天鏢局に嫁ぐまでは本当に一人でやっていたのだと」

 簫九珠はそう言うと、また一口茶を飲んだ。

「……かくなる上は、私が自分で探るしかありますまい」

 唐突な宣言に、父子は一斉に簫九珠を見つめた。

「師父の代わりとして私が龍虎比武杯に出場します。ここで手をこまねいていても何も分かりませんし、私にとっても良い経験になるはずです」

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