毒蝶争奪大混戦

 岳伯都は藍蝶蝶を抱えたままのけぞって刺突を避けると、空いた手で掌を繰り出した。胸を打たれた令狐珊が退いた隙に韓凌白が割って入り、胡廉と敖小鯉に先に行くよう叫んで呪符を二枚放つ。それを受け取った二人はふっと力を込めて内功を巡らせ、そのまま姿を消してしまった――しかし、それに構う者は誰もいなかった。

 令狐珊に加えていつの間にか現れた簫九珠、欧陽丙、素文真によって岳伯都たちは囲まれていた。天曜日月教側で動けるのは韓凌白、敖東海、それに岳伯都の三人のみ。おまけに岳伯都は負傷した藍蝶蝶を抱えており、その藍蝶蝶こそが正道側の狙いなのだ。

「素懐忠め、やはり始めからこのつもりだったか」

 歯ぎしりする韓凌白の言葉を聞いて、岳伯都は初めて何仁力が「罠だ」と言った真意を理解した。素懐忠は戦いに持ち込む前提で交渉に臨み、そのために一人で彼らの背後を取ったのである。

「敖教主、どうか我らに藍殿をお貸しください。今ここで認めてくださればこれ以上の無礼は働きません」

「見かけによらず肝の据わった奴よ」

 こんな状況だというのに、敖東海はまるで心底楽しいと言わんばかりに笑みを浮かべている。

「だが断る! 毒に侵された身でどれだけ私に抗えるか試してみよ!」

 敖東海は一声吼えると素懐忠めがけて拳を繰り出した。素懐忠はそれを受け流し、なめらかな動きで応戦する。韓凌白は交互に襲い来る令狐珊と簫九珠を一手に引き受け、岳伯都は藍蝶蝶を庇ったまま右に左に逃げていた。どうにかして彼女を連れて山道まで逃れなければならないが、生憎彼の行く手は素文真と欧陽丙によって阻まれている。それでも混戦の中、岳伯都は欧陽丙を退かせることには成功した。一目散に牌坊に向かう彼の意図をくみ取ったのか、韓凌白が呪符を二枚投げてよこす。しかし、再三射られた矢によって呪符は二枚とも貫かれ、空中で燃え上がって消えてしまった。

「……あそこだ、あの木の上から射ってやがる」

 食いしばった歯の間から藍蝶蝶が唸った。彼女が指さしたのは山道の入口近くに生えている木だ。

「それじゃ山道まで近づけないじゃないですか!」

 岳伯都は絶望したように声を上げたが、困り果てる間もなく背後から迫ってきた掌の相手をすることになった。素文真が変わらず彼に付きまとっていたのだ。

「岳伯都。悪いことは言わない、彼女をこちらに渡してくれ」

 素文真は岳伯都の正面を塞ぐと言った。

「うちの虎ちゃんを甘く見るんじゃないよ!」

 藍蝶蝶が言い返す。岳伯都は一瞬言葉に迷ったのち、

「で、でも、蝶蝶さんに怪我させたのはそっちじゃないですか!」

 と叫ぶように言い返した。

「治療は必ずするし、それ以上の危害も加えない。今は多数の人命がかかっているのだから見逃してもらえないか」

 素文真が粘れば、藍蝶蝶は怪我もそっちのけで笑い飛ばす。

「あんたはそれでいいかもしれないけどねえ、他の奴らはどうなんだい? 多分隙あらばあたしの首を掻っ切ろうって奴がわんさかいるんだろう、ええ?」

「私が目を光らせている限り、藍殿には指一本触れさせないと誓おう」

「とにかく、無理ったら無理です! 無理なんです!」

 岳伯都も負けじと声を張り上げる。するとどういうわけか藍蝶蝶の平手が飛んできた。

「あんたはもうちょっと格好のつくこと言えないのかい!」

 岳伯都はすくみ上がり、謝りながら頭を下げた。それに食らいついた飛雕が矢を射かけ、同時に欧陽丙が襲いかかる。時を同じくして、道の端に置き去りにされていた何仁力が体から矢を力ずくで引き抜き、血を吹く傷もそのままに岳伯都の方に突っ込んできた。

 三方から同時に狙われた岳伯都は慌てるあまり均衡を崩し、なんと藍蝶蝶を落としてしまった。


 幸か不幸か、藍蝶蝶が地面に激突することはなかった。

 しかし彼女を抱きとめたのは、あろうことか素文真だったのだ!


 藍蝶蝶が心底嫌そうな悲鳴を上げ、何仁力の体に二本目の矢が刺さり、欧陽丙が攻撃をやめて撤退を叫ぶ。岳伯都が追いすがろうとしたものの、素文真は藍蝶蝶を腕に抱いたままひと飛びで数丈先まで逃れてしまった。

 簫九珠が通り過ぎざまに敖東海に斬りつけ、注意が逸れた隙に素懐忠が逃れる。敖東海は怒りも露わに長袍の袖を打ち振ると、岳伯都と韓凌白に正道の一団を追いかけるよう命じた。



***



 君子と呼ばれているだけあって、素文真は自らの言葉を違えることはたしかにしなかった。

 矢の傷には帰る道すがら応急処置を施し、野営地に着けば真っ先に手当を受けさせてくれた。さらに藍蝶蝶は素父子の決定のもと、少し離れた場所に立てられた天幕で軟禁されることになった。天幕には見張りも付いた――これは彼女の脱走を防ぐというよりも、むしろ自分たちの誰かが勝手に彼女を殺さないようにという身内に向けた示威だろう。彼女がどれだけ騒いでも、どれだけ無礼に振る舞っても、素文真は顔色ひとつ変えない。しかし藍蝶蝶は決して譲ろうとしなかった。彼女もまた、「あたしの毒で何人死のうが知ったこっちゃないよ」という自らの言葉を違えようとはしなかったのである。


 藍蝶蝶が囚われて一夜が明け、一日が過ぎ、もう一夜が明けて日が真上に昇った。

 毒が撒かれてからはすでに四日近くが経っている。金四缼はこの間に三人の死者を埋葬し、二人の腕と一人の脚を切除した――皆内功を使って毒を体の一か所に集めていたのだが、彼らはそのときに腕や脚を選んでおり、さらにはその手足を切り捨てる決断をしたのだ。ここで死ぬよりは手足を失って生きていく方が良いという彼らの言葉に同調し、野営地では多くの者が自分もそうしようと言い出す始末になった。素懐忠と金四缼が言い聞かせてその場は収束したものの、その数刻後に血の海の中に倒れている若者が見つかった。どうやら自分で腕を切り落とそうとして失敗したらしい。

 だが、どれだけ惨状を聞かされても、肝心の藍蝶蝶は鼻で笑うばかりだ。

「まあ、この状況じゃあ腕を切るのが賢明だろうね。粘って死ぬか、蜥蜴みたく体の端っこを切り捨てて逃げるか。また生えてこないのが辛いところだけど」

「藍殿、これは笑い話ではないのですよ」

 さすがに素懐忠もむっとして藍蝶蝶を咎めた。

「あなたが強情を張れば張るほどここは生き地獄と化していきます。これ以上誰かが死ぬ前に、どうか解毒の方法を教えてください」

 しかし、藍蝶蝶の答えは変わらなかった。

「嫌だね。あたしの毒で何人死のうが知ったこっちゃないよ」

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