毒蝶を捕らえよ

 結局、如竹はその後数刻しかもたなかった。さらには、泣き腫らした目の衡山派の弟子がやって来て林信君に何やら告げると、林信君は雷に打たれたように固まったきり動かなくなってしまった――彼は弟子に手を引かれて夢遊病者のようにふらふらと出ていき、次に皆が聞いたのは彼がこの世の終わりのように慟哭する声だった。

 何が起きたかは明白だった。素懐忠はそっと合掌すると目を閉じて念仏を唱えた。衡山派の副掌門夫人という地位にありながらも、段紫雲はそのことを決して驕らず、常に和平と礼節を貴んでいた。そんな彼女までもが利己を信条とする者の餌食となり、真っ先に犠牲となったのである。衡山に集った中では最も無辜に近く、いかなる恩讐とも縁遠かった彼女までをも標的とする天曜日月教のやり口には、もはや怒りを通り越してやるせなさがつのってくる。

 さらにまずいことに、素懐忠がいくら野営地を回って群侠に声をかけても進んで辰煌台に行こうという者がなかなか集まらなかった。皆が体内に蠱毒を抱え、いつ症状が出るか分からない状態で医者のいない場所にいくことを嫌がったのである。死者が出たことでやにわに殺気立つ者もいたが、素懐忠はあえてそういう者は無視することにした。気ばかり急いている者はかえって足手まといになりかねず、また強硬手段が取れないこともあって、彼には冷静な判断のできる者が必要だったのだ。

 信頼のおける者を野営地に残しておかなければならないということもあった。知廃生と常秋水が残ることを選んだのは素懐忠にとって朗報だったが、いざという時に結束が見込めるかと言われると不安が残る。結束の面も考え、辰煌台行きに名乗りを上げていた張正鵠を、素懐忠は逆に野営地の守備に回すことにした。副掌門である林信君が魂が抜けたような状態になっている今、張正鵠が行ってしまっては衡山派の統率を保てる者が虞鴛一人になってしまう。その上で、龍虎比武杯の主催者でもある張正鵠が残ることで過激な意見を鎮めることを期待しての素懐忠の人選だった。


 そんな折、野営地を彷徨う素懐忠を呼び止める声があった。振り返れば、いつか試合を見ながら言葉を交わした尼僧が立っている。

「……あなたは、たしか清丈せいじょう尼姑にこと言われましたか」

 素懐忠が答えると、清丈は「ええ」と頷き、九珠剣客が彼を探していると告げた。

 簫九珠を探しに行くと、彼は金四缼に脈を診てもらっているところだった。どうやら動き回っているところを捕まったらしく、二人は通行用に作った道の端に寄り集まっている。素懐忠の姿を認めると、簫九珠は金四缼に一言断って彼の手を振り払った。

「待て、簫九珠」

 追いかけてくる金四缼の声にひらりと手を振って答えると、簫九珠は「素領袖」と声をかけてきた。

「話を聞いたぞ。辰煌台に行くために人を探していると」

「ええ。毒を作った張本人でないと解毒ができないので」

 素懐忠が答えると、簫九珠は力強く頷く。

「私も行こう。私には他の者よりも猶予がある」

 素懐忠は思わぬ申し出に目を丸くした。しかし、彼が何か答えるより先に追いかけてきた金四缼が二人に割り込んできた。

「そうかもしれんが、お前のやり方は肉体への負担が大きすぎる。何かあってからでは遅いぞ」

「すでに手遅れだというのに、これ以上悪くなることがあり得ますか」

 簫九珠は冷ややかに言い返す。

「この肉体は剣以外の使い道を絶たれて久しい。もし何かあれば先生が切り出してくださればいいでしょう」

「あの、一体何の話をしているのですか? もし簫壮士のお体に問題があるのなら、無理を押して来ていただく必要は……」

 白熱しつつある二人を素懐忠は遮った。金四缼は眉間を揉みながら答えて言う。

「あると言えばあるが、ないと言えばない。一番問題なのは律峰戒だ……あいつめ、自分の野心のために何の関係もない子を犠牲にするとは。全く持って信じ難い」

「話せば長くなる。それに今は解毒が最優先だろう。動ける人手がいると言うのであれば私は協力する。それだけだ」

 簫九珠はそれだけ言うと、金四缼が止めるのも聞かず行ってしまった。

 一度声が上がると、その後は志願者が立て続けに現れた――欧陽丙が行くと知った令狐珊が素懐忠のところに直談判に来たのだ。さらには、衡山で事件があったらしいと聞きつけた飛雕が再び姿を現した。その後ろには呆れ果てて怒る気力もないといった様子の汪頑笑がついている。

「欧陽丙が行くなら私も行く。それに南宮赫を殺す権利を天曜日月教にみすみす明け渡すなんて、死んでも御免だわ」

 令狐珊はそう言って、念を押すように素懐忠を睨みつけた。

 一方の飛雕はやっと機会が巡ってきたというように、両目を輝かせて素懐忠に訴えた。

「なあ、動ける奴が一人でも多く必要なんだろう? 俺は何にもやられちゃいないし、見てのとおり元気だぜ!」

 素懐忠は飛雕の後ろでかぶりを振っている汪頑笑を見やった。本来ならば義賊の本分でもないことに首を突っ込むなと怒鳴りつけてやりたいところなのだろうが――あるいは道すがら散々言い聞かせて引き返させようとしたのだろうが、どうやら一向に聞き入れられないままここまで来てしまったらしい。

「傲世会は連れに任せてきた」

 汪頑笑は疲れ果てた声で言った。

「俺はここであんたらの手伝いをするだけだ。ついて行くのは鳴鶴……飛雕一人で十分だろう」

「皆様のお力添えに感謝します」

 素懐忠は三人に頭を下げると、汪頑笑には野営地の警備を任せ、早速飛雕と令狐珊を連れて他の仲間のもとにいざなった。


 発起人の素文真と案内役の欧陽丙に加え、素懐忠の呼びかけに応じ、また話を聞きつけて揃ったのは簫九珠、飛雕、令狐珊の三人だった。

 夜半、一行は野営地を出発した。天曜日月教の中で使われているという隠れた道を欧陽丙の案内で軽功を使って走破すること半日、木々の間から差し込む朝日に素懐忠らは辰煌台のある山のふもとにたどり着いた。

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