第六章 正道対邪道
衡山地獄絵図
天曜日月教の撒いた蠱毒によって正道の志士はあっという間に窮地に立たされた。唯一救いと言えるのは、彼らの中に中原を代表する名医、
とはいえ、次々と倒れる者が出ている上に、点穴や内功によって毒の巡りを遅らせたり、毒を一か所に集めたりというのは一時的な処置に過ぎない。最も体力の低い者からじわじわと蝕まれていく中、金四缼は素懐忠と素文真、知廃生、張正鵠、林信君、そして欧陽丙を集めて唯一の解決策を説明した。
「このような、人の手によって作られた毒は、第三者が勝手に解毒しようとすると患者の命をかえって縮めかねない」
金四缼は前置きもそこそこに結論から切り出した。
「だから我々に必要なのはこの毒の作り手――この毒のことを誰よりも熟知している者だ。その者でないとこの毒を安全に解き、皆を救うことは不可能だ。私にもできん」
「……まさか四針神手にも不可能がおありとは」
悲痛な面持ちで呟いたのは林信君だ。彼は愛する妻、段紫雲を一刻も早く救いたいあまり他のことが頭に入らない状態だった。傍目に見ても彼の苦悩は明らかであったため、通常であれば非難されてしかるべきこの発言も誰も咎めようとはせず、金四缼もかぶりを振ってため息をつくばかりである。
「欧陽壮士」
痛ましいまでの沈黙の中、次に口を開いたのは素懐忠だった。
「あなたが令狐姑娘と共に南宮壮士を助けに行ったとき、岳伯都が韓凌白に連れ去られるのを見たと言っていましたね。その際に韓凌白は、彼ら自身が蠱毒を撒いたことを暗に認めたと」
「ああ」
欧陽丙は相変わらずの渋面で頷く。
「だが先に誓わせてもらうが、俺は今回の件には全く関与していない」
「欧陽殿、誰も貴殿を疑ってなどおりませんぞ」
張正鵠が口を挟んだが、欧陽丙は「それはどうだか」とでも言いたげに首をかしげる。
「では欧陽殿は、今回使われた蠱毒の制作者に心当たりがおありなのですか?」
林信君が食らいつくように尋ねる。欧陽丙は静かに
「藍蝶蝶。教内で蠱毒を扱えるのは彼女だけです」
と答えた。
「藍蝶蝶……
扇子の端を口に当てて知廃生が呟いた。
「そのあだ名は私も聞いたことがある。
素文真が頷くと、知廃生は「ええ」と答えて話を続けた。
「事実、彼女は苗族の出です。彼女の使う蠱毒も元をたどれば苗族に伝わる呪術に過ぎません……もっとも、彼女は少々やりすぎて、一族から追放されたようですが」
「その枯苗毒手が仲間の手を借りて龍虎比武杯の会場に蠱毒を撒いたということですね」
素懐忠がまとめると、欧陽丙が頷いて言った。
「ああ。間違いないだろう」
「思い返せば、彼女は予選の途中で急用ができたと言って下山していましたな。今思えば、この凶行の下準備をするために一旦退いたのでしょう」
張正鵠が苦々しげに言う。
「そういえば、岳伯都を除けば韓凌白と藍蝶蝶、何仁力とあともう一人、天曜日月教から参加していましたね。残りの二人はどうなったのでしょう」
知廃生が思い出したように尋ねる。すると張正鵠がため息をついてあごひげを撫で、素懐忠が苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「あの後動ける弟子を総動員して探させましたが、どこにも姿がありませんでした。宿として貸していた小屋ももぬけの殻で」
「私も共志会の仲間に付近を捜索させているのですが、何の手がかりも見つからないままです」
素懐忠はそこで一息入れると、声をひそめて言った。
「これは私の推測ですが、四人は元より時期を見計らって蠱毒を放ち、そのまま逃げる算段をしていたのではないでしょうか? 何らかの原因で……大人しく、従順になった岳英雄を利用して」
その一言に皆が黙り込んだ。岳伯都という正道の柱だった男が行方不明になっている間にすっかり豹変し、天曜日月教の傀儡となってしまったのも、全てこの日のための前振りだったのかと思うと急にやるせなさが襲ってくる。
「天曜日月教め……一体どこまで人の道を踏み外せば気が済むのだ!」
林信君だけが罵る気力を残していたが、段紫雲のことがなければ彼もまた黙り込んでいたであろうことは想像に難くない。
「衡山の付近で見つからないのであれば、すでに辰煌台にまで退いているのかもしれません」
沈黙を破ったのは素文真だった。彼はここで落ち込んでいても仕方がないと言わんばかりに語気を変えると、
「懐忠、まだ症状の出ていない者の中から人を集めて急ぎ彼らの行方を追おう。私も共に行く」
と息子に告げた。
「そうですね。体調が許すのであれば欧陽壮士には来ていただいた方が良いでしょう。我々の中で一番辰煌台に詳しいのは彼ですし」
素懐忠が賛同し、親子の言葉に欧陽丙が小さく頷く。素懐忠は続く人選を決めようと父親に向き直り、口を開きかけた。
そのとき、彼らのすぐ近くで驚き騒ぐ声がした。見ればまた誰かが倒れたらしく、その場所に人だかりができている。
「金先生!」
誰かが金四缼を呼ぶ――しかし金四缼は呼ばれる前に、反射的に人だかりに向かって駆けだしていた。人垣をかき分け、患者の脈を取ると、金四缼は厳しい顔で首を横に一振りした。それでも空いた手に針を四本握り込むと、金四缼は四本全てを使って患者の経穴を手早く塞ぐ。
「この状態のまま病床まで連れていけ。もし針を抜いたり、動かして位置を変えたりしたらこの男の命はない」
凄む金四缼に皆が緊張の面持ちで頷いた。数人が彼を持ち上げて、数人が道を空けるよう大声を上げ、人だかりは三々五々散っていく。
しかし、持ち上げられた患者の顔が見えた途端、今度は知廃生が顔色を変えた。
「如竹!」
知廃生は車椅子から転げ落ちそうなほど前のめりになって叫んだ――そう、今しがた倒れた男は、いつも知廃生の移動や身の回りのことを一手に引き受けていた如竹だったのだ。
「金先生、彼は……如竹は……」
知廃生が震える声で金四缼に呼びかけたが、金四缼はかぶりを振るばかりで答えようとしない。彼は素父子と張正鵠に一礼すると、そのまま如竹を運ぶ男たちについて行ってしまった。
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